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2008年2月 7日 (木)

一の谷の合戦~義経の鵯越の逆落とし

 

寿永三年(1184年)2月7日は、源平の合戦の中でも特に有名な『一の谷の合戦』のあった日です。

・・・・・・・・・

前年の寿永二年(1183年)、破竹の勢いで西へと進軍する木曽義仲の軍に京を追われ、西海へと都落ち(7月25日参照>>)をした平家一門でしたが、源頼朝と義仲の対立によって源氏同士がモメている間に、屋島から少し戻り、かつて平清盛が一時、都を構えた福原現在の神戸)(11月26日参照>>)に落ち着いていました。

しかし、琵琶湖畔の粟津でその義仲を討ち取った(1月20日参照>>)範頼・義経の源氏軍は、大阪・摂津に入り、いよいよ平家に狙いを定め、西へと向かいます。

・・・と、昨年の今日のブログと同じ始まりかたをしてしましましたが・・・数ある一の谷の合戦の名場面の中で、昨年は、『敦盛の最期=青葉の笛』(2月7日参照>>)をチョイスさせていただきましたが、今回は有名な源義経『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』を・・・。

★一の谷:関連ページ
 ├生田の森の激戦
 忠度の最期

一昨年の大河ドラマ義経でも、第一回目の冒頭・・・この逆落としのシーンから始まり、視聴者の心を掴んでおいてから、幼い頃の牛若時代へ・・・という流れになってましたよね。

それくらい、このシーンは、源平の合戦において屈指の名場面です。

しかし、有名であればあるほど、論争の耐えない場面でもあります。

・・・と、いうのも、神戸の地図を見ていただければ一目瞭然。

平家がこの時、城郭を築いていた一の谷とは、現在の須磨公園のあたり・・・一方の鵯越は、現在の神戸電鉄有馬線の鵯越駅付近。

この二つの場所が約8kmと、かなり離れた場所であるため、とてもじゃないが、眼下に平家の城郭を見下ろしながら、駆け下ったとは考えられないからです。

『平家物語』『吾妻鏡』が示す鵯越が、「一の谷の裏手」と書かれている事から、現在の一の谷の裏手にある鉄拐山がその鵯越ではなかったか?とする説と、逆に、鵯越は現在の鵯越であり、鵯越の側を流れる川に沿ってできた谷が、当時、一の谷と呼ばれていた場所なのでは?という説とがあります。

生田の森での激戦の話や、敦盛の塚などを考慮すると、どうしても平家が陣取っていた場所は海の近くという事になって、山奥の谷とは考え難いですし、かといって現在の鵯越がその鵯越だとすると、そこからは、なだらかな下り坂で、急な崖などなかった事になりますし、そこが鉄拐山だと地名そのものが間違っている事になります。

また、この時代の信頼度の高い書物である『玉葉』には、この鵯越がまったく出て来ないところから、逆落とし自体が無かった?という説もあります。

そんなこんなで、専門家でも激論になるのですから、ここで決着を着ける・・・という事は控えさせていただいて、本日のところは、『平家物語』に沿っての『鵯越の逆落とし』のお話を、痛快な軍記物として楽しませていただく事に致しましょう。

・・・・・・・・

さてさて、兄・源範頼(のりより)の生田への大手攻撃(2013年2月7日参照>>)と連動するように(から)め手担当の義経は山側から攻めるべく、神戸の北側に連なる山奥へ・・・

馬が通るのも難しいような道なき山に分け入った義経率いる3千騎・・・ここで、大活躍するのが、地元の猟師・鷲尾三郎義久・・・彼は、この後、義経と苦楽を共にし、最後の衣川の合戦では、主君を守って大いに奮闘する立派な武将になるのですが、この時は、老いて山道を歩くのが困難となった父に代わって、義経一行を道案内する役を任された18歳の若者です。

本来なら、到底抜け出る事のできない迷路のような山道を、義久の徹夜の道案内のおかげで切り抜け、眼下に一の谷を見下ろす鵯越の絶壁に、義経の軍が到着したのは、寿永三年(1184年)2月7日の朝の事でした。

義経が、この絶壁について義久に
「馬が下りれるか?」
と尋ねると・・・
「鹿が下りてんのは、見た事ありますけど、ここを馬で下りたんは聞いた事がありません」
と、彼は答えます。

「ふ~ん、ええ事聞いたぞ・・・鹿は下りるんやな」
・・・と、ここであの名ゼリフです。

鹿も四つ足、馬も四つ足・・・これくらいの崖、馬で下りるのは簡単や!
ソレ!行くぞ~!」

・・・と、本人は張り切ってみるものの、肝心の馬が怖がって、必死でムチを叩こうにも、いっこうに下りようとしません。

そこで、人を乗せないで、何頭かの馬を落としてみると、そのうちの何頭かは転げ落ち、何頭かは足の骨を折ったりして死んでしまいますが、3頭は無事、下までたどりつきました。

「ホレ見てみぃ!乗る者さえしっかりしてたら大丈夫や!俺を見とけ!」
(何頭か死んでるけどね)
・・・と、自らが先頭に立って、義経が駆け下りていったので、あとの3千騎も一斉に続きます。

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途中、一箇所、垂直に切り立った部分があり、多くの兵がそこで、ちゅうちょしていると、佐原十郎義連(よしつら)という男が進み出て・・・

「僕らは、こんな崖なんか狩りの時に、いくらでも駆け抜けて来たんや!三浦の地元じゃぁ、こんな場所は乗馬センターみたいなモンだぜ!」

そう言って、飛び出したもんだから、他の兵たちも負けてなるか!と、頑張ります。

後ろの者の鎧が前の者の鎧に当たったり、あまりの危なさに目をつぶったりしながらも、何とか下りていきます。

もはや、人間技ではない鬼神のごとき技・・・

そして、その3千騎が山を下り終わらないうちに、一斉に(とき)の声があがり、それは、山々に反響して何倍もの兵の声に聞こえます。

まさか、断崖絶壁となっている一の谷城の裏手から攻められるとは思ってもいなかった平家は、慌てふためき、右往左往するばかりです。

駆け下りると同時に、村上康国の軍勢が火を放ち、館は炎に包まれます。

火に追われた平家の人々は、我先に海岸へと急ぎ、船へと乗り込みますが、あまりに皆が一斉に船に乗るため、最初の何隻かは、定員オーバーで沈んでしまいます。

そうなると、残った船は身分の高い人優先・・・身分の低い者が船に乗ろうと船端に手をかけると、太刀にてその手をひと断ち。

まさに、一の谷の海岸は修羅場と化してしまいました。

生田の森での合戦では、一進一退だった源氏軍と平家軍でしたが、この義経の奇襲作戦によって、形勢が一気に源氏の勝利に傾いていったのは言うまでもなく、その後、平家の名だたる武将が次々と討たれ、平家は屋島へと敗走する事になるのです。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

義経が神戸で戦ったことは気づきませんでした。神戸といえば平清盛ことしか思い出せないね。
義経といえば、たしか恋人の静御前で私のブログにビキニの静御前が背泳ぎしてるところの絵があるんです。(昨年の11月24日記事)。
源といえば、ちょうど、頼朝と北条政子を描き上げたんです。私のブログに更新してます。

投稿: sisi | 2008年2月 7日 (木) 16時27分

ビキニ政子がすでに尼さんに・・・やっぱ、場所は湘南っすか?

投稿: 茶々 | 2008年2月 7日 (木) 18時08分

おお!
地元っ子なので(私は神戸の出身で、須磨の近くに住んでいました。今はもう実家はあとかたもないのですがー震災で全壊しましたーなつかしい)、あのあたりには愛着があります。今でも生田の森は「保存」されています。藤原紀香が結婚式を挙げた神社の裏にちょこっと・・。
 鵯越は、多分・・・谷ですよね、海に近いとこ。でないとドラマチックじゃないもの。

投稿: 乱読おばさん | 2008年2月 7日 (木) 21時23分

やっぱ、絵的には・・・
眼下に広がる瀬戸内の海とその手前に築かれた城郭・・・それを、見つめて作戦を練る馬上の義経・・・
これがカッコイイですもんね~。

投稿: 茶々 | 2008年2月 7日 (木) 22時51分

(また登場(爆笑))うちの母が「鵯越」の歌を歌ってくれました。♪鹿も四つ足 馬も四つ足 鹿の越え行くこの坂道 馬の越えざる道理はないと 大将義経真っ先に♪ 続く勇士も 我遅れじと鵯越に差しかかれば平家の陣は真下に見えて 戦い今や真っ最中♪油断大敵 裏の山より 三千余騎の逆落としに
平家の一門驚き慌て
屋島を指して落ちていく♪

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月16日 (土) 15時50分

クオ・ヴァディスさん、こんにちは~

源平の合戦は、たくさん唱歌になってますね。
いずれも名場面です。

投稿: 茶々 | 2015年5月16日 (土) 16時34分

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