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2008年2月28日 (木)

千利休・切腹の謎~利休の握っていた秘密とは?

 

天正十九年(1591年)2月28日、大名をしのぐほどの権威を持っていた茶の湯の大家千利休が、豊臣秀吉から切腹を命じられ、自害しました

・・・・・・・・・・・・・

時をさかのぼる事、その九年前・・・天正十年(1582年)6月13日午後4時過ぎ・・・京都山崎の地にある妙喜庵(みょうきあん)というお寺で、勝利の知らせを今か今かと待つ一人の男がいました。

Rikyuucc 男の名は、千宗易

大阪に生まれ育った彼は17歳で茶の湯を志し、侘茶(わびちゃ)を大成させ、茶道を芸術にまで高め、今は・・・いえ、つい先日までは織田信長に仕えていました。

そう、彼が戦況を気にするその戦いとは、本能寺の変で主君・織田信長を討った明智光秀を、中国大返しの離れワザで京都目前のこの山崎の地で攻撃範囲に捕らえた羽柴(豊臣)秀吉・・・この二人の間で繰り広げられた天下分け目の天王山・・山崎の合戦(6月13日参照>>)です。

小雨がそぼ降る中、午後4時から開始された合戦は、わずか1~2時間でその勝敗が見え始め、光秀軍は次々と敗走して行きます。

その知らせを聞くやいなや、宗易は、秀吉が陣を敷く宝積寺へとおもむき、寺へと招いて勝利の茶を点てました。

Rikyumyoukiancc そして、秀吉がこの天王山に築城するのと同時期に、宗易も、この妙喜庵に茶室・待庵(たいあん)を建てるという同調ぶりです。

この待庵という茶室は、現在もこの妙喜庵の中に存在し、各地に残る利休好みの庭や利休好みの茶室とうい物の中で、唯一現存する実際に利休が造った茶室として国宝に指定されています。
*待庵は非公開ですが、近くの大山崎町歴史資料館に、実物大で復元展示されています。
妙喜庵・大山崎町歴史資料館・その他天王山などへのくわしい行き方は本家HPの歴史散歩で紹介していますので
コチラからどうぞ>>

やがて、天下を取った秀吉のもとで厚遇され、天正十六年(1588年)には、宗易は、「利休居士」の称号を与えられ、その名声は天下に轟く事となるのです。

その親密ぶりは、(豊臣政権内での…)内々のことは宗易(利休) に、公儀のことは宰相(秀長)に…」と言われるほどだったとか(4月6日の後半部分参照>>) ・・・。

しかし、わずか三年後の天正十九年(1591年)2月13日謹慎処分を受け、半月後の2月28日・・・秀吉からの命令により切腹をするのです。

そんなに仲の良かった二人の間に、いったい何があったのでしょう?

それとも、仲が良さそうに見えたのは、打算ありありのポーズとしてだけで、本当は心の底で相容れない何かが存在したのでしょうか?

・・・・・・・・

一般的な説では、
わび・さびを重んじる利休に対して、何かと派手好みで、その派手さを茶の湯にまで持ち込もうとする秀吉を利休が批判したから
という説や、
秀吉が利休の娘を側室にと望んだのを断ったため
であるとか、
茶の湯とゆかりのある大徳寺の山門に利休の木像を掲げたからであるとか、
諸説あって現在もなお、利休切腹の理由については大きな謎となっています。

一番目の好みの違いに関しては、利休自身は、心の中での葛藤はあったものの、表立って批判する事はありませんでしたが、利休の弟子である山上宗二(やまのうえそうじ)が、信念を曲げない頑固な性格であったため、ことごとく秀吉の趣味の悪さを批判し、天正十八年(1590年)4月11日、小田原北条攻めに従軍した際に、秀吉によって惨殺される・・・という事件が起きています。

この事があってから、利休も秀吉の傲慢さに耐えられなくなり、表立って批判するようになったとも言われていますが、宗二惨殺に関しては、彼が、秀吉から密かに、北条の内情を探るように命じられたのを断わったからだという意見もあります。

また、3番目の大徳寺の木像に関しては、大徳寺が利休に恩を感じて木像を制作し、山門に掲げたわけですが、そうすると、秀吉が山門をくぐる時に、利休像の下を歩く事になり、失礼にあたるだろうと言われる物です。

確かに、これに関しては、秀吉も激怒していたふしがあり、利休死亡の3日前の2月25日に、利休に対して切腹を申し渡すと同時に、その木像を磔(はりつけ)にしているところからも、その激怒ぶりが垣間見えます。

そんな諸説が入り乱れる中、新しい説も登場しています。

その一つは、『利休・スパイ説』・・・千利休は徳川家康のスパイではなかったのか?という説です。

家康は、この時期に、すでに将来自分が天下を取った時の事を考えて、あるいは、取るためには、必ず大坂という大都市を手中に収めなければならない事をさとっていて、そのためには、堺商人の中でも最も力のある利休と手を結んでおく事が大事であると利休に近づく・・・

利休のほうは利休のほうで、天下は秀吉の手中にあるとは言え、どう転ぶかわかったモンではありませんから、もう一人の実力者・家康と、水面下で太いパイプをつなげていれば、これほど安心する事はありません。

この説の説得力のあるところは、切腹の命令に利休が素直に従ったという事実がある事です。

この切腹の命令が出た時に、周囲の者は秀吉のもとに赴いて許しを乞うように利休にアドバイスしますが、利休はそれを聞き入れなかったのです。

現に、先の宗二の場合も、追放されながらも一度は許されていましたから、この時、利休が許しを乞えば、何とかなったかも知れません。

しかし、利休はそうせずに、素直に命令に従って自害します。
それは、自分に思い当たるふしがあったから?・・・という風にも考えられます。

そして、もう一つの説は『秀吉の秘密を握っていた説』です。

Rikyuuhideyosicc 信長天下の時代には、茶会を開くには信長の許可が必要で、それを戴く事は、武士としてのステータスでもありました。

秀吉は、天正五年(1577年)に上月城など播磨(兵庫県)備前(岡山県)に点在する毛利の諸城を制圧したご褒美として、信長から許可を得ています。

その時、秀吉は利休(当時は宗易)の事を「お師匠」と呼び、15歳年上の利休に対して「父のようにお慕いします」とも言っていて、かなり深刻な悩みなども相談していたと言われます。

この頃、上り調子の秀吉の悩みと言えば唯一つ・・・子宝に恵まれないという悩みだった可能性大です。

しかし、天正十七年(1589年)、長年の秀吉の悩みが解決します。

あの淀殿が、男児・鶴松を出産するのです。

以前から、いろいろと噂される淀殿の懐妊・・・利休は、その不可思議さにいち早く提言したのではないでしょうか?

昔から、散々悩み事を聞かされていた立場としては、当然と言えば当然の意見でしょうが、秀吉にとっては、そこは触れてほしくない部分だったのかも知れません。

秀吉自身が疑いながらも、「自分の子供だと信じたい」と思っていたところに、それをバッサリ打ち砕く提言をされては、どうしても「その口をふさぎたい」という心境になった、というのもわからないではありません。

しかし、もし、利休が秀吉の秘密を握っているとするならば、もう一つ可能性があります。

それは、以前書かせていただいた『信長と堺の関係』(1月9日参照>>)に関係のある事です。

本能寺の変の時、何と言っても不可解なのは、天下の信長がわずかの手勢しか連れず京都に滞在していた事・・・それさえなければ、光秀が攻めようにも攻められなかったわけですから・・・。

そこに、関与していたのが、堺の商人たちではないか?・・・つまり、光秀の謀反を後押しした形だったのでは?という事を書かせていただきましたが、もし、そうだったとしたら、信長亡き後、天下を掌握するのが、誰かわからない状況では、いたって不安・・・という事になりませんか?

信長よりもっと強引な人が天下を握ってしまえば、またまた堺の町は、その人の傘下に収まるしかない事になってしまいます。

ひょっとしたら、利休をはじめとする堺の商人たちは、信長亡き後に、天下を握る人物を知っていた?・・・そして、それが彼らの納得のいく人物なら、その者とタッグを組んで、本能寺の変を誘発したという事もありうるかも知れません。

信長死去のニュースを聞いて、秀吉が帰って来るタイミングと言い、それを山崎の地で待ち構える利休のタイミングと言い、出来すぎなくらいのナイスアシスト感が拭えないのです(6月13日【本能寺の変~豊臣秀吉・黒幕説】参照>>)

もし、その秘密を利休が握っていたとしたら・・・
そして、この時期に、秀吉と利休の間に、亀裂が入り始めていたとしたら・・・

諸説があるという事は、こんなにも楽しい・・・推理するだけで、わくわくしませんか?
 .

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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

おもしろいです。
私の漫画でもそのうち登場するであろう千利休(・・・もとい今のところ登場するのは茶室だけかもしれませんが)

資料にと思って、2/15号のpenを購入したら、更に色々知りたくなってしまってここにきました。
秀吉との確執気になりますね。徳川スパイ説はちょっと、作品にも使えそうですし・・・。
直木賞の「利休にたずねよ」も買っちゃうかも。

投稿: ざぶとんうさぎ | 2009年2月15日 (日) 00時59分

ざぶとんうさぎさん、コメントありがとうございます~

大山崎歴史博物館にある待庵はメチャメチャ狭かったです。

あれが、「わび・さび」っちゅーもんなんでしょう・・・

直木賞の「利休にたずねよ」・・・
私は、歴史小説(とゆーか小説全部)を読まないので・・・とりあえず保留です(#^o^#)

投稿: 茶々 | 2009年2月15日 (日) 02時13分

はじめまして。ぼくも長年利休切腹の理由がひっかかっていました。やはり家康、政宗の近辺がきな臭いなと感じています。ところで「(山上宗二処刑の原因は)秀吉から密かに、北条の内情を探るように命じられたのを断わったから」は初見ですが、どの文献に載っているのですか?ご教示いただけましたらさいわいです。

投稿: 言の葉庵庵主 | 2010年3月15日 (月) 21時50分

言の葉庵庵主さん、はじめまして、

おっしゃる通り、家康&政宗が臭いますね(* ̄ー ̄*)

本文の山上宗二の一件は、作家の掘和久氏の見解で、私は世界文化社の「日本史の謎」という書籍で拝見しましたが、これは、多くの作家や研究者が様々な項目について意見を述べられている、どちらかというと雑誌の類の本なので、掘氏が単独で出版されている書籍のほうが、もっとくわしく書かれているかも知れません。

投稿: 茶々 | 2010年3月16日 (火) 01時25分

ご丁寧にご回答ありがとうございました。
掘和久氏の本、見てみます。

投稿: 言の葉庵庵主 | 2010年3月18日 (木) 21時50分

言の葉庵庵主さん、返信コメントありがとうございます。

もし、何か、
さらにくわしくわかりましたら、また、教えてくださいo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2010年3月19日 (金) 01時44分

千利休の末裔である千玄室さんの話。特攻隊時代に出撃命令前に、戦友8人と(今生の別れを思ってか)「即席茶会」を行いそれぞれが出撃。戦後、千さんは唯一生き残った戦友の1人と再会。その人は「2代目黄門様」の西村晃さん。
出撃前の茶会は戦国時代の武将の心境を思わせます。戦国後期の茶会は戦の合間の骨休めでしょうね。秀吉時代の安土桃山後期にはアートイベントやパーティーの域になり、本質と離れる危機感もあったんでしょうね。

>暗離音渡さん
「細川家冷や飯」の一因は、千利休の処罰に反対していたんですね。参考になりました。NHKでも触れている「細川家の秘蔵展」がいま開催中です。

投稿: えびすこ | 2010年5月25日 (火) 09時07分

えびすこさん、こんばんは~

お茶は、やっぱり心落ち着きますね。
今は、疎遠になってしまいましたが…

投稿: 茶々 | 2010年5月25日 (火) 19時45分

茶々さん、こんばんは!

私は茶道部ですよ!表千家ですw抹茶っておいしいですよね!もちろん和菓子もw心落ち着きます!和みますね!
ちなみに書道部と兼部してます♪めざせ大和撫子!(笑)中学生のときは吹奏楽部でクラ吹いてました♪
利休の死に関しては様々な説がありますよね!「江」では、秀吉さんと利休とは仲良かったですwやっぱ、石田三成…日本史の先生が「みつなり」の「みつ」は光と書くな!明智光秀は天下を一瞬は取れ光ったが、所詮石田三成は三流なんだよっ!!!とおしゃりました。誤字を防ぐためとはいえひどいっ!…は利休のことをよく思ってなかったんでしょうか?なんででしたっけ…忘れちゃいました☆(おい)

えびすこさん、細川家の秘蔵展ですか!行ってみたいです…行きたいトコいっぱいあって困っちゃいます(笑)

長々とすみませんでした。

投稿: 暗離音渡 | 2010年5月25日 (火) 23時44分

暗離音渡さん、こんばんは~

私は、裏を10年くらい…
部活は、今ハヤリの「けいおん」でしたww

三成の印象は…
課長クラスのわりには大御所相手に頑張ったほうだと思いますが…

投稿: 茶々 | 2010年5月26日 (水) 01時12分

サイコーです有難うワクワクしました

投稿: ネコ | 2011年7月 9日 (土) 13時33分

ネコさん、こんにちは~

喜んでいただいてありがとうございます。
また、遊びに来てくださいo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2011年7月 9日 (土) 15時20分

様、こんにちは~

今日は会社が休みだったこともあり、朝から歴史の謎が脳裏を駆け巡り放題でした。
てなわけで以前より気に掛けていた光秀謀反の謎を調べ始めましたところ、天海光秀説へ。この説があるのは知ってましたが、調べる程に説得力が大に、深みにはまり...
しまいには光秀利休説まで出てくる始末ですが、利休は信長存命中から活躍してますから、さすがにこれはないですよね?しかし利休と光秀の間に何か密通がなかったかというのは、あまりはっきりしないようですね?
結局、またいつのまにか茶々様のところへ来てます。

一つ面白い収穫は、民謡『ずいずいずっころばし』が、朝鮮出兵に反対した利休の末路を表しているという説。
恐らくは、お互いが本能寺の変に関わっていることを知っているため、天下人たる自分の挙動に、偉そうに口煩い親のように物申す利休に、我慢がならなくなっていたのでは?

なんて。
ではまた~

投稿: 達田にゃん | 2013年4月 1日 (月) 16時44分

達田にゃんさん、こんばんは~

『ずいずいずっころばし』は、私は「御茶壷道中」の歌だと思っていて、以前の「お茶の日」のページ>>でも、そのように書かせていただいているのですが…

そうですか…利休ですか。。。
そのようなお話もあるのですね~話の出どころが知りたいです。

投稿: 茶々 | 2013年4月 2日 (火) 02時08分

こんにちは~
どこで拾った情報だったか確認したところ、かなり怪しいページでございました民謡ずいずい、で検索するとすぐ出てきます。
利休光秀説にいたっては、さらに怪しいもので、これもすぐ検索にかかりますが、霊能者がどうのこうのと、お笑いになるかも知れません。

ただ、光秀天海説については茶々様の知見を伺えたらと思います。

ではまた~

投稿: 達田にゃん | 2013年4月 2日 (火) 16時18分

達田にゃんさん、こんばんは~

私も、こういうお話、嫌いでは無いです。
そもそも「光秀天海説」もドンデモ説の部類ですし…

こういう説は(都市伝説では無いですが)「信じる信じないは、あなたしだい」という感じですから、その信じるか信じないかの判断をするための材料として、その出どころ(出典)を知りたいと思うわけです。

「光秀天海説」は、今のところ、「そうだったらオモシロイのになぁ」って感じですかね。。。

投稿: 茶々 | 2013年4月 2日 (火) 19時43分

こんにちは。いつも茶々さまのブログを楽しみにしております。
日本史最大の謎と言ってもいい本能寺の変と利休居士の自害がリンクしている、というのは本当に興味深いところですね。
最後に揚げ足を取るようで恐縮ですが、、、「侘茶を大成」が正しいかと思います。

投稿: やんたん | 2013年7月17日 (水) 14時25分

やんたんさん、こんばんは~

あらま…ぜんぜん気づいてませんでした。。。
ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2013年7月17日 (水) 23時32分

NHK大河ドラマの「軍師・官兵衛」での荒木村重の反乱に興味を持って検索していたら、「利休七哲」のロックバンドのYouTube画像に至り、オルガンティーノ神父と高山右近の関係を知り、そこから、さらに千利休を検索して、ここに辿り着きました。▲人間、「好奇心や名誉欲=自己満足」から、歴史の真実や闇の世界の解明に躍起となるのは、謂わば生物(学)的本能(生存競争)かな、などと思っています。とても興味深く拝見させていただきました。このコーナーでの“遣り取り”は、まさに「血湧き肉躍る分野」ですね。久々に、想像力を逞しゅうさせていただきました。(^^ゞ(感謝)

投稿: 鈴木東吉 | 2014年5月13日 (火) 09時21分

鈴木東吉さん、こんにちは~

コメントありがとうございます。

>血湧き肉躍る

ホント、楽しいです。
また、遊びに来てくださいませm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2014年5月13日 (火) 10時25分

茶々さま
もう信長暗殺の謎については、大変楽しく読ませて頂きましたが、資料も最近発見され、おっしゃる説は成り立ちまぬゆえ、御取消しなされては如何かと存じまする。しかし茶々さまの歴史に対する御造詣の深さには感服致します。これからも茶々さまのご活躍を期待しております。

投稿: 長宗我部 | 2014年9月13日 (土) 19時09分

長宗我部さん、こんばんは~

長宗我部さんがおっしゃる「最近発見された新資料」というのは、6月23日に林原美術館と岡山県立博物館が発表した「石谷家文書」の事でしょうか?
それでしたら、確かに「四国説」の後押しする史料であり、今後の研究の発展が期待される貴重な史料である事は間違いないですが、これで「本能寺の変の謎に決着がつくか?」というと、「それほど簡単にはいかないのでは?」と、私は考えております。
林原美術館の解釈による大意を見る限りでは、元親が変の直前まで織田の四国攻めを回避したがっていた事はうかがえますが、それを明智側がどう受け止めたかはわかりませんよね?

身内と言えど、いざという時は討つ覚悟がなければやっていけないのが戦国…対して主君の命令を蹴る=謀反を起こす事には大変なリスクがあり、光秀ともあろう武将なら、相当な算段が無い限り、そんなハイリスクな事はしないだろうと考えられますから、そのあたりを明確にする史料が出て来ない限り、謎は謎のままだと思っております。

もちろん、歴史には様々な考えがある事も当然だと思っていますので、このブログでは「本能寺の変」に関して、本文にリンクさせていただいた堺の商人・黒幕説>>以外にも…
今回の新発見にて後押しされるであろう四国説(斎藤利三主導説)>>
豊臣秀吉・黒幕説>>
徳川家康・黒幕説>>
突発的な単独犯(怨恨)説>>
など、様々な説をご紹介させていただいています。

また、お暇な時に読んでいただけるとありがたいです。

投稿: 茶々 | 2014年9月14日 (日) 02時34分

私も時代使用説を書きますが、謎の人物利休には興味あります。

利休が家康と通じていた、かどうかは別にして、親しかったのは確かですから、そこに小説の世界がつけこむ隙があるわけです。( ̄ー ̄)ニヤリ

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年3月 5日 (木) 04時17分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんにちは~

その「つけこむ隙」がオモシロイんですよね。

投稿: 茶々 | 2015年3月 5日 (木) 16時30分

何てことですかね。
利休は政治家ではなかったか?

( ̄ー ̄)ニヤリ

投稿: ,根保孝栄・石塚邦男 | 2015年3月 7日 (土) 21時34分

(◎´∀`)ノ
秀吉の秘密をにぎっていたか?

投稿: ,根保孝栄・石塚邦男 | 2015年3月 7日 (土) 21時37分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんばんは~

妄想は広がりますね(*^-^)

投稿: 茶々 | 2015年3月 8日 (日) 02時42分

(゚▽゚*)千利休は、なぜ秀吉に嫌われたのか。
茶席を情報交換の場にしていたことを危険と思われたのか。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2015年4月12日 (日) 04時50分

根保孝栄・石塚邦男さん、こんにちは~

話は尽きませんね。

投稿: 茶々 | 2015年4月12日 (日) 18時00分

茶々さんお久しぶりです。

利休のお弟子さんにはキリシタンが多いように思い、もしかして隠れキリシタン?なんて思ったりして、本当にそうだったら切腹『自殺』なんかしませんよね|゚Д゚)))コソーリ!!!!

投稿: エコリン | 2016年7月 2日 (土) 23時48分

エコリンさん、こんばんは~

そうですね~
ガラシャさんも小西さんも自殺しなかったし、明石さんも行方不明ですし…やはり、命令が出ても拒むかも知れませんね。
ただ、「隠れ」の場合はどうするのか気になります。

投稿: 茶々 | 2016年7月 3日 (日) 03時50分

外国の要人への茶会は昭和の後半である私が生まれた47年頃の写真やそれ以降の写真を見ますと千玄室前家元がお茶を入れていました。ところが今回は表千家でのメイ首相への接待でどうしたのかなと思いました。表千家はあまりメディアに出てこないので不思議な感じです。
実は我が家は親戚は表側と裏側に分かれています。表側の方が高学歴です。母方は裏です。裏側が多いのと裏の方が門人が多いので本家と勘違いしている人が多いです。HPを見ても地味な表に利休が伝えた村田珠光以来の侘茶の伝統が伝わっていると聞きます。
最後に利休の狭い入口は私は入れません。ああいう茶会に行く場合はどうしたらよいのかなと思いました。体重でないです身長の方です。どこへ行っても目立つ身長になりました。為朝みたいな感じになりました。弱っています。

投稿: non | 2017年9月 3日 (日) 22時29分

nonさん、こんばんは~

nonさんは大柄な方なのですね。
私は裏ですが、そんなに深く考えた事は無いです(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2017年9月 4日 (月) 02時03分

利休切腹の黒幕は、石田三成という説も
ある論文で読みました。
商人なのに、武士のように切腹するのは
士分だったのでしょうか?

投稿: やぶひび | 2018年3月20日 (火) 09時16分

やぶひびさん、こんにちは~

>商人なのに、武士のように切腹するのは…

それについては、私としては「利休居士」の称号を賜ってるからだと思っていて、あまり疑問に感じた事はなかったです。

本文には明記し忘れてましたが、「利休居士」の称号は正親町天皇から賜ってるので、一般の商人や町人とは違うのではないか?と…ちゃんとした理由がどこかに残っているかも知れませんので、また、調べてみます。

投稿: 茶々 | 2018年3月20日 (火) 16時39分

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