孤軍奮闘も空しく~長屋王の悲劇
天平元年(神亀六年・729年)2月12日、長屋王が謀反の疑いで邸宅を包囲され、妻子とともに自害しました。
『長屋王の変』と呼ばれる事件です。
・・・・・・・・・
事件をさかのぼる事5年・・・神亀元年(724年)2月4日、第45代・聖武天皇が即位します。
藤原一族にとって、待ちに待った外戚(がいせき)ゲット!です。
外戚とは、天皇から見て母親の実家という関係・・・これが、この時代、最も大きな権力を握る事のできる一族だったのです。
なんせ、ご存知のように、天皇は代々男系男子ですから、天皇の父親は絶対天皇家・・・その権力の中に入り込む余地があるとすれば、その天皇の母親の実家しかないワケですよ。
あの藤原鎌足に始まる藤原氏・・・鎌足の息子・不比等(ふひと)は、臣下の中でトップの地位を獲得し、天皇家をしのぐほどの権力を手にします。
そして、娘・宮子を第42代・文武天皇のもとに送り込む事に成功し、その二人の間に生まれたのが聖武天皇だったのです。
しかも不比等は、もう一人の娘・安宿媛(あすかべひめ・後の光明皇后)も、聖武天皇の妃として送り込んでいたのです。
養老四年(720年)8月3日、そんな不比等がこの世を去ります(8月3日参照>>。
・・・と、ここに一人、不比等の死にホッと胸をなでおろす人物がいました(←あくまで個人の推測です)。
第40代・天武天皇の孫・長屋王(ながやのおう)です。
別に、不比等個人が憎いわけではありませんが、藤原氏がこれ以上天皇をしのぐ権力を握り続ける事に、天皇家の一人として、不安を感じていたのです。
長屋王は聡明でリーダーシップもあり、まさにデキル男・・・皆の期待の星でした。
ただし、藤原一族以外の人たちの・・・。
不比等には、後に藤原四家として権力を振るう武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の四人の息子(つまり、光明皇后のお兄さんたちです)たちがいましたが、彼らから見れば、天皇家の血を引く優秀な皇子は、目の上のタンコブ以外の何物でもありません。
まして、この時、長屋王は、この時、不比等に次ぐ地位にいましたから、不比等が亡くなれば、長屋王が主席となってしまいます。
藤原四兄弟は、すぐに手を打ちます。
長屋王が政権の主席にいたのは、不比等が亡くなったその日一日だけ・・・翌日には、時の天皇・第44代元正天皇の名のもとによって、長屋王の上に、仮とは言え、右大臣待遇の者を二人任命させるです。
この元正天皇という人は女性の天皇で、この時代にありがちな文武天皇と聖武天皇の間を埋める中継ぎ役の女帝で、その側近として仕えていたのが、藤原四兄弟・次男の房前ですから、もう、これは藤原氏の横槍が入った事が明らかです。
さすがに、そのままの状況ではマズイと思ったのか、翌年には長屋王を右大臣に据えていますが、その時は、藤原四兄弟全員も昇進し、しっかりとガードを固めています。
そして・・・そんなこんなの聖武天皇・即位です。
・・・って事で、藤原氏にとっては、父・不比等の時代から夢に見た外戚ゲットの日だったワケです。
「これで、少しは、長屋王を押さえ込む事ができる」
藤原四兄弟はそう思った事でしょう。
なぜなら、この即位のあった次の日・・・
「天皇の母・宮子夫人(おおとじ)を、今後は大夫人(おおみおや)と呼ぶように」
という勅(ちょく・天皇の命令)が出されるからです。
これは、明らかに法令違反・・・
当時、天皇の母にあたる人は、皇太夫人(こうたいぶにん)と呼ばれる事が、公式令(くしきりょう・儀式などの法律)で決められていましたが、これは皇室の人に対する称号で、未だかつて、臣下の者を皇太夫人と呼んだ例が無かった・・・
そこで、不比等の娘で皇室の人ではない宮子のために、藤原四兄弟は「大夫人」という新しい呼び方を作って、聖武天皇の名のもと、このような命令を出したのです。
しかし半月後、その時には左大臣という役職についていた長屋王が、これに異議を申し立てます。
「法令に従えば勅に反する事になり、勅に従えば法令に反する事になる」と・・・
当然と言えば当然・・・そんな称号は法令にはありませんから。
さぁ、藤原四兄弟は困った・・・なんせ、長屋王の言う事はごもっとも、どう考えても非はありませんからねぇ。
そこで、苦肉の策として、先の勅を回収し、新たな勅をだすのです。
「『皇太夫人』と書いて「おおみおや」と呼べ」と・・・
もともと勅の回収自体も前代未聞ですが、昔からある漢字を、無理やり違う読み方させるのも前代未聞です。
藤原四兄弟は、悔しがったに違いないでしょうね~。
では、おそらくは無実であろう謀反の罪で、長屋王が最終的に自殺に追いやられるのは、この一件が原因なのでしょうか?
いえいえ、この時点では、藤原氏には、まだ余裕があり、長屋王を殺してまで権力を掌握しようとは、思っていませんでした。
なぜなら、まだ、現役・聖武天皇の夫人となった安宿媛=後の光明皇后がいます。
二人の間にできた子供が、次の天皇になれば、外戚としてまだまだ権力を握り続ける事ができますからね。
そして、神亀四年(727年)、待望の男の子が誕生します。
「よっしゃー!これでまた外戚ゲットや!」
藤原一族の屋敷は沸きかえります。
なんと、この時、生まれた基王(もといおう)は、わずか生後1ヶ月で皇太子に据えられるのです。
気が早いにもほどがあるゾ!藤原氏!
前代未聞のオンパレードです。
しかし、その期待の星は、翌年、わずか1歳で病死してしまうのです。
しかも、藤原氏にとっては、都合の悪い事に、安宿媛と同じ時期に聖武天皇の夫人となった県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)という女性が、基王が亡くなった同じ年に男の子を出産(後の安積(あさか)親王)してしまったのです。
安宿媛が、もう一人、男の子を生まなければ、藤原氏ではない人の子供が皇位を継いでしまうじゃありませんか・・・しかし、彼女はこの時、すでに27歳。
当時としては、かなり限界に近い・・・いや、その前に、長屋王自身が皇位に着く可能性もゼロではありません。
なんせ、天皇家期待の星ですから・・・。
こうなったら、安宿媛を聖武天皇の皇后にして、何とか権力を維持しなければ・・・。
しかし、先の「大夫人」の一件があります。
そう、未だかつて、皇族出身者以外で皇后になった人はいないのです。
もちろん、あの『大宝律令』にも、その事は定められています。
法律を盾に反対されれば、向うが正等なだけに、それを抑えるのは絶対に無理です。
まして、相手は聡明で優秀な長屋王なのですから・・・。
かくして神亀六年(729年)2月10日・・・従七位下・漆部造君足(ぬりべぼみやつこきみたり)、無位・中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまんど)という二人の男が、朝廷に駆け込み、訴えます。
「左大臣・長屋王が、密かに国家を傾けようとたくらんでいる」と・・・
わざわざ、訴えた二人の長い名前を書かせていただいたのは、その身分の低さを知っていただきたかったからです。
従七位下と無位ですよ。
普通なら、何を訴えたって、聞き入れてもらえそうにもないような人たちです。
そんな身分の低い二人の訴えで、朝廷はその日のうちに兵を出し、長屋王の邸宅を囲むのです。
そして、翌日には、長屋王の叔父である舎人(とねり)親王(11月14日参照>>)と新田部(にいたべ)親王、多治比池守(たじひのいけもり)、藤原武智麻呂らによる、厳しい尋問が始まるのです。
さすがに、天皇の血をひく人に拷問はなかったとは思いますが、おそらく、それに近いような厳しい詮議だったに違いありません。
なんせ、あの長屋王が、「もはや、これまで」とあきらめてしまうくらいなのですからね。
神亀六年(729年)2月12日・・・取調べも、2日目になったその日、長屋王は妻子とともに、屋敷内で自害するのです。
そして、電光石火のすばやさで、翌・13日には、その遺骸は生駒山に葬られます。
しかも、長屋王とともに自殺した妻の吉備内親王は、聖武天皇の叔母であったからなのか、ともに死んではしまったものの、事件には関与していないとして無実となり、長屋王の第二夫人となっていた不比等の娘も無罪。
その他、一旦、捕らえられた90人のほとんどが無罪となり、すぐに釈放されました。
やがて、事件の半年後、元号は天平と改められ、安宿媛は光明皇后となるのです。
その後の藤原氏の栄えぶりは、もう皆さんご承知の通り・・・
もはや、謀反が本当だったかどうかに関係なく、この歴史的事実だけを見ても、長屋王への同情の気持ちが湧いてきますよね。
大きすぎる黒い壁・・・天皇家の一人として、孤軍奮闘した長屋王よ、どうか安らかに・・・。
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コメント
茶々さん、こんばんは。
頭痛が酷いのであまり書けません。
ところで計画を立てたのは四兄弟の誰ですか。麻呂は関係ないと思いますが、誰でしょうか?やはり房前が首謀者でしょうか?そう言えば死後ですが武智麻呂は大臣なので贈正一位太政大臣は分かりますが、房前の贈正一位太政大臣はどうなるのでしょうか?内臣はどういう地位だったのでしょうか?房前、甥の百川の死後の地位が不思議です。
投稿: non | 2016年1月29日 (金) 18時52分
nonさん、こんばんは~
藤原四家がモメ出す以前で、この頃は、未だ強力なタッグを組んでいるので、誰が首謀者か絞り込むのは難しいかも知れませんね。
まぁ、地位の差、年の差はあったかも知れませんが…
投稿: 茶々 | 2016年1月30日 (土) 03時38分
茶々さん、おはようございます。
麻呂は四兄弟の末ですし、宇合は外回り、そうなると年上の武智麻呂、房前のどちらかでしょうが、学者肌の武智麻呂が考えると思えないです。やはり学会が支持しているように房前ではないでしょうか?
房前ですが謡とかでも大臣とされていますので内臣の地位は高かったのでしょう。それにしても元明天皇、元正天皇、聖武天皇も房前を信頼するとはよっぽど行政能力は高かったのでしょうね。
投稿: non | 2016年1月30日 (土) 07時37分
茶々さん、
内臣ですが、祖父の鎌足、甥の良継、息子の魚名が引き継ぎます。皆実力者です。
と言いますと房前ですが、長屋王とも渡り合えたのでしょうか?
元明天皇がこれ以降長屋王と房前に協力して政務を執るようにと遺言しました。そこが気になります。
ところで漢詩や和歌の才能も長屋王も四兄弟もありましたし、妹の関係で親戚です。別に対立する必要も無かったのではと思いました。天然痘事件を見ますと残念な結果になったと思いました。それを考えますと聖武天皇はあまり政務は得意で無そうですね。寧ろ伯母の元正天皇の方が統治能力があると思いました。
投稿: non | 2016年1月30日 (土) 08時58分
nonさん、こんにちは~
聖武天皇の時代は、すでに藤原氏が強力になっており、天皇自らの手腕を振るえる状況では無かったようにう思います。
かなり抵抗されたような雰囲気ですが…
投稿: 茶々 | 2016年1月30日 (土) 15時10分
そう言えば道鏡の頃も藤原氏は強かったです。押勝は藤原氏から除外されていました。兄の豊成、従兄弟の永手、真楯、良継とは対立していましたし、全員尼の称徳天皇の高官でした。とても藤原抜きでは無理ですので、聖武天皇の頃も長屋王が大臣の頃も独断では出来ないでしょうね。でも政権と言っても長屋王の上には舎人親王がいますし、連合政権みたいなのでしょう。ただ聖武天皇は伯母の元正天皇みたいな手腕は無いなと思いました。元正天皇が凄すぎるのかもしれませんが・・・でも頑張ったと思います。大仏づくりには感心します。
投稿: non | 2016年1月31日 (日) 11時00分
nonさん、こんにちは~
奈良麻呂も押勝自身も、藤原氏に翻弄された感ありますね~
光明皇后の後宮勢力が1番強かった頃かも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2016年1月31日 (日) 18時25分
茶々さん、こんばんは。
押勝、奈良麻呂は親戚関係だったし、長屋王も藤原とは親戚です。近親憎愛と言う感じがします。
結局称徳天皇が崩御するまで光明皇后の政策が続いていたみたいな感じですね。考えてみますと聖武天皇でも称徳法皇でもなく光明皇后が奈良時代の主役だったのかなと思いましたが、それを作ったのも長屋王事件ですが、長屋王はきちんと話したら藤原とも妥協したと思います。歴史漫画の里中真知子の作品は似ているなと思いました。鑑真和上も長屋王を知って渡航したと言う話もあるくらいですから・・・
投稿: non | 2016年2月 2日 (火) 18時10分
nonさん、こんばんは~
兄弟姉妹でも母親が違えば結婚の対象になった時代ですから、親戚関係は現代の感覚とはずいぶんと違うと思いますよ。
ハーフである聖武天皇でさえ疎外されてる感ありますからね~
「結婚したから親戚」の感覚はあまり無く、やはり血縁が大事だったんじゃないかと…
投稿: 茶々 | 2016年2月 3日 (水) 02時19分
茶々さん、それ位に血なまぐさい争いをしたのでしょうね。
今だったら馴れ合いだったでしょうが、当時は命がけだったのでしょう。
ところで武智麻呂、房前は結構若い頃から長屋王と付き合いがあるのではないでしょうか?
長屋王が政権を取れたのは単なる反藤原でなく藤原とも上手く付き合っていた感じがします。そうでないと藤原の娘を側室に迎えなかったと思います。
でも当時は藤原以外にも石上、大伴等の有力者がいましたが、軍事貴族の大伴が都にいたらこういう事件にならなかったのではと思います。
そう言えば大伴家持も武人なのですね。万葉歌人なのでそう思えないのですがかなりやり手の政治家、軍人だったそうですね。
投稿: non | 2016年2月 5日 (金) 18時28分
nonさん、こんばんは~
当時は皆さん、平城宮の近くにお住まいですから、夕食の買物で市場でバッタリ…てな事は、さすがに無かったでしょうね
投稿: 茶々 | 2016年2月 6日 (土) 02時53分
茶々さん、
元正天皇が体調を崩していた間に起きた事件ですが、元正天皇は上皇ですし、この頃の上皇は院政時代の上皇よりも立場が上で天皇と同等です。
事前に元正天皇の耳に達したら藤原の方が罰されたのかなと思いました。
これはぎりぎりの駆け引きと思いました。
大事なのは大伴旅人がいなかったのが大きいですね。軍事貴族の大伴がいるのといないのではかなり結果が違ったと思います。
私は歴史学でなく国際政治が専門なのと世界史、特に西洋史が得意なので長屋王はジャンヌダルクみたいに生贄にされた感じがします。でも名誉回復は無いですね。ジャンヌダルクは今や聖人です。フランスの最大の英雄になっています。呪いもあるので式典は静粛にしています。それに比べますと日本は名誉回復は少ないですね。そう言えば大伴、紀などもそうですし、藤原の嫌われ者の広嗣、恵美押勝もそうです。そろそろ公式にしても良いと思いますが・・・
でも今の総理にはそう言う権限が無いので無理ですけど・・・
投稿: non | 2016年4月29日 (金) 15時38分
nonさん、こんばんは~
日本の場合の名誉回復は、やはり明治維新でしょうね。
王政復古のおかげで、幾人かの方に天皇の号がつけられましたし、秀吉の豊国大権現も明治天皇のよって復活しましたし…
投稿: 茶々 | 2016年4月30日 (土) 03時19分
茶々さん、おはようございます。
寒いですね。こんなに冷える2月も珍しいですね。
それはそうとどうもおおみやは問題でないのと聖武天皇が先走ったのが大きいみたいだと昨日読んでいた本に書いていました。長屋王が皇太夫人でないとおかしいと言ったのは良かったみたいで、藤原の天皇はけしからんと言っていた皇族は多いみたいです。まだ天武天皇の皇子は健在でした。舎人親王、新田部親王みたいに皇位継承権があった親王もいるし、天智系だと白壁王、弘文天皇の子孫もいました。そういう微妙なところですので多分長屋王は知恵を働かせたと思います。藤原四子も特に房前なんかほっとしたでしょう。内臣は多分今で言いますと宮内庁長官兼官房長官みたいな感じではと思います。余計なことを言うなと武智麻呂、房前みたいな閣僚は思ったでしょう。
問題は基王の死と安積親王の誕生です。安積親王は別に美千代の関係でそんなに問題が無いのですが、でも何が何でも藤原と言うのと長屋王は親王だったようなので即位できる環境にあったと思います。その時にああいう陰謀が出たのではと思います。決して長屋王は四子と対立したわけでもなく多分協力して運営したのでしょう。吉備内親王も皇位継承権はあったと思います。何か長屋王、藤原、それ以外の思惑がぶつかった悲劇かなと思います。調べる価値はあると思います。多分光明子の皇后問題も長屋王も話したら分かると思います。ただ例の疫病の事件を見ますと長屋王がいた方が上手くいったのにと思いました。でも当時の事を考えますと四子は高齢ですのでなくなりやすいでしょう。
投稿: non | 2017年2月12日 (日) 11時00分
nonさん、こんにちは~
まだまだ謎は多いですね。
投稿: 茶々 | 2017年2月12日 (日) 14時12分
茶々さん、お久し振りです。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885152861/episodes/1177354054885158443
こういう小説を見ていましたが、もしかしたら藤原四子でなく皇族の争いだったかもしれないです。
色々読んでいますと武智麻呂以外の房前、宇合、麻呂は長屋王と詩や和歌などの友人で親しく、大伴旅人とも親しかったようです。本当に謎が多いです。
こちらと直接関係がないのですが、何故か疫病後に武智麻呂と房前は左大臣になり、660年には両者とも太政大臣です。不思議です。
投稿: non | 2019年3月16日 (土) 10時37分
nonさん、こんばんは~
古代な謎な事が多いです。
投稿: 茶々 | 2019年3月17日 (日) 04時33分
13段落目の
長屋王は聡明でリーダ^シップもあり、まさにデキル男・・・皆の期待の星でした。
は、リーダーシップの誤植でしょうか。
投稿: さく | 2022年10月 3日 (月) 14時48分
さくさん、ありがとうございます。
訂正させていただいときました。
投稿: 茶々 | 2022年10月 4日 (火) 04時44分