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2008年2月27日 (水)

秀吉も催した勝利の聖地・吉野の花見の意味は?

 

文禄三年(1594年)2月27日、豊臣秀吉が、豊臣秀次徳川家康前田利家らとともに、奈良の吉野にて花見の宴を開催しました。

旧暦の2月27日ですから、現在の暦で言えば、4月の半ば頃・・・吉野山の桜が、下千本→中千本→上千本の順に次々と咲き始め、まさに見頃の真っ只中といった感じでしょう。

この頃の豊臣秀吉と言えば、二年前の文禄元年(1592年)に、一度目の朝鮮出兵を行い(4月13日参照>>)、その翌年・・・つまり、この花見の前年には、男児=後の秀頼が生まれています。

そして、この花見の翌年・文禄四年(1595年)には、花見に同席している甥の関白・秀次を自刃に追い込む事になるのです。

秀次さんのご命日に、その汚名を晴らしたい!というタイトルで、彼の謀反の罪がでっちあげであろうという事、「殺生関白」と呼ばれるもととなった悪行の数々も無かったであろう事、そして、秀吉から見て秀次が、将来、わが子・秀頼の最大のライバルにあるであろう事を予測し、その存在が脅威となり、消されたのではないか?と書かせていただきました。(7月15日参照>>)

しかし、もう一つ、秀吉が秀次を脅威と感じた一因には、朝鮮出兵の時の内政のウマさにあったという説もあります。

この第一次朝鮮出兵=文禄の役の時は、秀吉は軍の指揮を取るために九州に出向いていますから、その間に留守を守り、内政を行ったのが秀次です。

この時、留守を預かった秀次の内政への采配が見事で、諸大名の中には、「外征は秀吉、内政は秀次」と、はっきりした役割分担を認識する者もいて、二極化する気のない秀吉とって、これ以上秀次の評判が上がる事が望ましくなかったのではないか?というのです。

もし、本当に、秀吉が秀次を切腹に追い込む要因が、二年前の朝鮮出兵と、前年の秀頼誕生にあるとしたら、この花見の宴でのお互いの心情というのは、いかばかりだったのでしょうか?

そばにいた、徳川家康前田利家は、どこまで、彼らの心の奥を読み取っていたのでしょうか?
興味はつきませんが、こればかりは、推測するしかありませんねぇ・・・。
Sakurayosinohanamicc
ところで、以前『お花見の歴史』(3月30日参照>>)のページで、本来、万葉の昔のお花見は、「悪い日=厄日」に出かけ、真っ盛りの花をその目で見る事によって、樹木からその生命力を分けてもらうのが目的であるという事を書かせていただきました。

これは、見るタマフリです。

タマフリというのは、空気を揺るがせて波長を起こし、神様を呼び寄せて場を清めたり、人の心を奮い立たせる行為・・・これも、以前『人は別れる時、なぜ手を振るのか?』(1月31日参照>>)で書かせていただいて、神社で拍手を打ったり、鈴を鳴らしたりするのが、のタマフリである事も、その時に書かせていただきました。

(袖)を振る事は、もちろん空気を揺るがし波長を起しますが、音も波長、光も波長・・・これらは、皆、同じ「タマフリ」という儀式がベースとなっているのです。

そんな中でも、合戦を主とする武人にとって、この吉野での花見=タマフリは特別な物と言えるかも知れません。

それは、万葉の昔にさかのぼります。

第38代・天智天皇が亡くなって、天皇の息子・大友皇子と、天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)の間で後継者争いが起こった時、身の危険を感じた大海人皇子は、一旦、吉野へ逃げる決意をするのです(10月19日参照>>)

確かに、ある程度の勝算はあったとは言え、その時、彼に従う人数は、わずかに舎人20人+女官10人という寂しい吉野入りでしたから、大きな不安にかられていた事は想像できます。

そんな彼が、やがて吉野で決起し、この地から出陣し、息子たちとともに近江の大友皇子を攻めた『壬申の乱』(7月22日参照>>)・・・。

この戦いに勝利し、大海人皇子は、第40代・天武天皇となるわけですが(2月25日参照>>)、そんな彼の歌が万葉集に残っています。

♪よき人の よしとよく見て よしと言いし
  芳野よく見よ よき人よく見♪

一見、言葉遊びのように思える歌ですが、遊んでいるのではなく、「よき物を見る」事を強調をしている歌なのです。

吉野で決起して勝利を得た大海人皇子にとって、吉野はまさに聖地・・・よき所なのです。

良き所、良き物をよく見て・・・という事を、良き人に向かって言いふくめているのです。

良き人とは、もちろん、彼の子供たちと、そして奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)の事・・・大事な子供たちと奥さんに、タマフリで英気を養いなさいという事を歌に託しているのです。

その夫の言葉を、しっかりと受け止めるかのように、持統天皇は、夫に先立たれ、後継者にと望んでいた息子・草壁皇子にも先立たれてから、女帝として君臨するそのかたわら、31回も吉野を訪れています。

女の身で国家という思い荷物を背負って、思い悩んだ時、疲れて倒れそうになった時、おそらく彼女は、夫に勝利を呼び込んだ聖地・吉野で、良き物を見て「見るタマフリ」を行い、良き歌(夫の歌)を口にして「音のタマフリ」を行う事で、その勇気を奮い立たせていたのではないでしょうか?

勝利の聖地・吉野での花見には、単に桜の名所というだけでなく、そんな昔の人々の思いが込められているのです。

この日、ここ吉野で盛大な花見を催した天下人・豊臣秀吉は、1首の歌を詠みます。

♪年月の 心にかけし 吉野山
 花の盛りを 今日見つるかな♪

長い年月・・・「いつかは、あの“たかみ”に・・・」と、駆け抜けた日々・・・
今、長年、夢見た吉野の桜とともに盛りを迎えたのは、まぎれもない己の人生・・・

吉野の花見は、勝利した男だけが味わえる最高の優越感だったのです。

今年は、一つ、良きところ・吉野で、良き花見といきたいものです。
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コメント

「醍醐の花見」の方は、豊臣秀吉の最晩年のシーンとしてよく出ますね。「吉野」の方に出た人は10年後に天下が移ると予想できたのかどうか。

先日ご記載の「江 姫たちの戦国」の視聴率ですが、関東ではそんなに極端に下がっていない(6日・22%台⇒20日・18%台。この水準で「底固め」できればいい)です。さすがに「篤姫」と比較すると低い水準と言えますが。

投稿: えびすこ | 2011年2月27日 (日) 17時19分

えびすこさん、こんばんは~

今日の「江」では、織田信雄君が、すでに徳川家康のところへ行っちゃってましたね。

歴史と切り離して考えれば、江と勝家のシーンなんかは、なかなか感動モンでした。

投稿: 茶々 | 2011年2月27日 (日) 23時05分

見ました見ました。あの一件で「親子」になったようですね。大地さんは役になりきるために収録前の休憩時間中などは、極力鈴木さんと会話しないようにした(劇中で遠慮する場面があるので)そうです。(*^-^)

ところで「大河ドラマの主人公は平和主義者として描かれる」とよく言われますが、実際は「平穏主義」の方かと思います。「揉め事を嫌う」と言う意味ではそれに当てはまります。

投稿: えびすこ | 2011年2月28日 (月) 08時44分

えびすこさん、こんにちは~

まさに…
モメ事は、一般家庭にあるようなモメ事ばかりですね。
国の一大事は対岸の火事のようです。

まぁ、女性のドラマなので、あまり国の一大事に、関わり過ぎるのも考えモンですから、それで良いかと…

投稿: 茶々 | 2011年2月28日 (月) 13時53分

茶々さん、こんばんは。
吉野は天皇家にとって特別な所のように思えます。
天武天皇しかり、後醍醐天皇しかり。
何故吉野なのでしょう?
神話時代から特別な何かが存在していたように思えてなりません。

投稿: とーぱぱ | 2016年11月 2日 (水) 00時44分

とーぱぱさん、こんにちは~

本当に…そうですね。
天皇家と吉野は、何やら密接なつながりがあるように思えてなりませんね。

投稿: 茶々 | 2016年11月 2日 (水) 17時29分

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