法然の流罪は、イケメン弟子のサービス過剰?
建永二年(承元元年・1207年)2月18日、浄土宗の開祖・法然が、四国・土佐に流罪となり、「専修念仏」も禁止されました。
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法然は、長永二年(1133年)、美作(みまさか・岡山県)の武士の長男として生まれました。
9歳の時に父を亡くし、その遺言に従って仏門に入りますが、彼の天性とも言うべき才能は、すぐに発揮されます。
13歳で比叡山に招かれ、15歳で正式に出家、当時の比叡山内で、当代一流と言われていた先輩僧・源光と叡空の二人に認められ、二人の名前から一文字ずつ取った「源空」という名前まで賜っています。
しかし、その並々ならぬレベルの高さゆえ、なかなか納得のいく教えに出会う事がなく、日本や中国の様々な経典を読みあさる毎日・・・やがて、安元元年(1175年)、比叡山を下り、京都の東山に庵を構えて、そこで日本浄土宗を開くのです。
法然、43歳でした。
「ただ一心に阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を唱える事により、極楽に往生できる」という法然の『専修念仏』の教えは、またたく間に広がりを見せていきます。
あの親鸞が、この頃の法然のもとに百日間通い続けて弟子にしてもらい、後に日本最大の伝統仏教・浄土真宗の開祖となるのは、もうご存知でしょう。
しかし、「勢いがある」というのは、本人の意思とは関係なく、何かと波風を立てるのが世の常です。
当然の事ながら、その広まりの速さは、京都や奈良の在来の仏教関係者に目をつけられる結果となります。
特に、延暦寺からは問答の挑戦があったり、興福寺からも、えらく反発を受けたりしてしまいますが、そんな状況にも関わらず法然の人気はうなぎ上り、彼に教えを乞いたい人はどんどん増え続けます。
そんな中の一人が、時の天皇・第83代・土御門天皇のお父さん・後鳥羽上皇でした。
後に起こる『承久の乱』(5月15日参照>>)の状況を見てもわかる通り、皇位こそ息子に譲ってはいるものの、当時、朝廷内の実権を握っていたのは、この後鳥羽上皇です。
その上皇が、法然をかばうような態度を見せていた事によって、延暦寺や興福寺といった強大な勢力から非難を受け続けても、何とか浄土宗は弾圧を受ける事なく、順調に信者の数を伸ばしていっていたのです。
ところが、どっこい建永二年(1207年)2月18日、いきなりの「流罪+専修念仏の禁止」が言い渡されるのです。
法然が、四国・土佐(高知県)への流罪。
当時、弟子入りしていた親鸞も、越後(新潟県)・佐渡へ流罪。
さらに、当時はほとんど行われていなかった死罪に、弟子の安楽と住蓮が処されています。
確かに、執行したのは鎌倉幕府ですが、もちろん、この処分を決定したのは、後鳥羽上皇ご本人です。
この180度の変わりようはいったい?
実は、この安楽と住蓮という二人の僧・・・めちゃめちゃイケメンの坊さんだったのです。
以前【平安のトレンド・イケメン僧侶に貝合わせ】(6月29日参照>>)にも書かせていただいたように、当時のイケメン僧侶は、アイドル並みの大人気。
法然は、たぶん無いと思いますが、人気取りのためには、顔のオーディションで弟子を選んでいた寺もあったようですから・・・。
事件が起こったのは、前年の12月・・・後鳥羽上皇が紀伊(和歌山県)の熊野に参拝するため、御所を留守にしていた最中。
日頃、自由に出歩く事ができない女性陣・・・唯一許されるのは、仏事を催す事です。
上皇が留守なのを良いことに、ある日、女房たちは、その小御所に、日本一の美僧との評判高い安楽と住蓮を招きいれます。
もちろん、具体的にはっきりと、その内容を書いてある史料はありませんが、どうやら、一部の文献には、仏事の最中に女房たちが、灯りを消して二人のイケメンと・・・何やらあったらしいと書かれているとか・・・。
また、安楽恋しさに、出家して御所を出る女房が続出したり・・・といった事もあったとか・・・。
ただし、これらの出来事は、浄土宗をぶっ潰そうとする延暦寺や興福寺のでっち上げであるという史料も存在しますので、一概に事実であったかどうかはわかりませんが、この事が本当であれ、嘘であれ、留守中の報告を信じた後鳥羽上皇が、今までの態度を一変したのは事実です。
この変わりようは、まさしく、
「俺の留守中に女房たちを・・・!」
という、上皇のカンカンぶりが、伝わってくるような処分ですな。
とにかく、二人の僧侶は死刑となり、とばっちりを食った感じの法然は流罪・・・この年の暮れには、配流処分を解かれますが、その後4年間、京都に入る事が許されず、4年後に、やっと戻った翌年、80歳の生涯を閉じてしまいました。
同じく親鸞も、4年後に許されますが、彼のほうはバッチリ、配流先の越後で奥さんをゲットし、その後は常陸(ひたち・茨城県)にて布教活動を再開します(11月20日参照>>)。
あまりにイケメンなのも考えモンですね。
きっと、二人の僧侶が、自分よりブサイクだったら、上皇も許してたかも・・・
いや、逆に「こんなブサイクに・・・」と、怒りが倍増する可能性もあるので、やっぱ、どっちにしても、大変です。
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