伊達男の本領発揮!政宗、起死回生の弁明劇
天正十九年(1591年)2月4日、先の葛西・大崎一揆の首謀者と疑われた伊達政宗が、豊臣秀吉に対して弁明するため上洛しました。
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独眼竜・伊達政宗・・・まさに絶体絶命のピンチです。
前年の天正十八年(1590年)7月に小田原城を落とし、関東に君臨した後北条氏を滅亡へと追い込んで(7月5日参照>>)、まさに天下を手中に収めた豊臣秀吉。
秀吉は、その勢いのまま、奥州征伐へと駒を進めます。
それは、合戦というよりは、この小田原城攻めの時、参戦するように呼びかけていた東北の諸将のうち、参戦しなかった者を処分し、参戦した者を優遇するという物。
当然の事ながら、領地を没収される東北の武将たちが、おとなしくしているワケがありません。
彼らのほとんどは、南北朝の昔から奥州を治める名門ばかり、彼らから見れば、秀吉こそどこの馬のかわからない新参者なのですから・・・。
かくして起こる『葛西・大崎一揆』の嵐・・・ターゲットになったのは、秀吉の事務方から大抜擢で、旧葛西氏と旧大崎氏の領地をもらって領主となっていた木村吉清の居城・佐沼城。
そして、その一揆の鎮圧を、秀吉から命じられたのが、小田原城攻めにギリギリセーフで間に合い、必死の弁明で許されたばかりの伊達政宗と蒲生氏郷(うじさと)(2月7日参照>>)でした。
しかし、もともと奥州の人間である政宗と、それを理由に、むしろ一揆の影の首謀者ではないかと疑う氏郷の二人では歯車が噛み合わず、なかなか一揆の鎮圧は困難でした。
そんな中、氏郷は、政宗が一揆衆に宛てた『激励文』を見つけるのです。
しかも、直筆の花押(かおう・本人の物であるという証明のサイン)つき・・・。
動かぬ証拠を手にした氏郷は、もちろん秀吉に報告・・・そして、政宗は、その弁明のために、天正十九年(1591年)2月4日、上洛したというワケです。
(くわしくは11月24日の葛西大崎一揆のページでどうぞ>>)
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秀吉と氏郷が待つのは、あの壮麗な聚楽第(じゅらくだい)(2月23日参照>>)・・・時に、秀吉56歳、氏郷35歳、動かぬ証拠を突きつけられて、絶体絶命の政宗は、未だ25歳・・・さぁ、二人を前にしてどうする?
政宗が、弁明のために秀吉の前に登場するのは、あの小田原城攻めの参戦に遅れた時(6月5日参照>>)に続いての2度目です。
その時は、死を覚悟した死装束で目の前に現れ、周囲の度肝を抜いた政宗でしたが、実は、今度はさらにスゴかった・・・。
京の町を聚楽第へ向かう伊達家の行列・・・もちろん、政宗は例の死装束の姿に身を包んでいるのですが、その行列の先頭には、なんと金箔が塗られた磔柱(はりつけばしら)・・・つまり、黄金の十字架をかかげての行進です。
さすがに、珍しい物を見慣れている京の人々も、びっくり仰天です。
しかし、度肝を抜く派手な演出は、秀吉だってお手の物・・・「こんな若造に負けてななるか」と、落ち着きはらって、こう尋ねます。
「ほほぉ・・・死を覚悟してるっちゅー事は、一揆をウラで操っとったちゅー事を認めんねんな」
「謀反などと・・・とんでも、ございません。関白殿下に対しての忠誠心、この政宗には、一点の曇りもございません」
堂々とした態度で答える政宗・・・。
氏郷は、思わずほくそえみます。
「こっちが、確固たる証拠の激励文を持っている事を、コイツは知らんねや・・・このエラそうな若造の鼻をあかしたる!」
氏郷は、やにわに手紙を取り出して・・・
「これを見てみぃ!覚えがないとは言わせへんゾ!どーすんねや、政宗!」
その手紙の登場に、政宗は一つもうろたえる事なく、落ち着きはらって、じっくりと手紙に目を通します。
そして、一言・・・
「自筆と見間違えるほど似ておりますが、私の書いた物ではありません」
なんだ、こんなモン!と言わんがばかりのサラ~ッとした態度に、さすがの秀吉もブチ切れ・・・
「ここには、ちゃ~んと、お前の鶺鴒(せきれい)の花押があるやないかい!」
・・・と、声を荒げます。
政宗の花押は、名前のサインだけではなく、右側に鶺鴒というズズメに似た鳥がデザインされた独特の物だったのです。
「恐れながら・・・殿下、私は大変うたぐり深い男でございます。
たとえ、家臣でも家族でも・・・花押など、身内ならマネようと思えばマネる事ができましょう。
そこで、一つ考えました。
誰にもマネができないような細工をほどこそうと・・・。」
「んん?」
・・・とばかりに、身を乗り出す秀吉・・・。
「私の書く花押には、鶺鴒の目のところに、よ~く見ないとわからないような、針で突いた穴を開けております。
残念ながら、一揆衆に宛てたこの激励文には、その針の目がありません。
ですから、これは私の書いた文ではありません」
「はぁぁ・・・?そんな、アホな・・・」
もちろん秀吉は、慌てて今まで自分のところに送られてきていた政宗の手紙をすべてを持ってこさせ、一つ一つ、見ていきます。
しかし、政宗の言う通り・・・それらの手紙の花押には、すべて、針であけられた鶺鴒の目がついていたのです。
バタバタと何度も、手紙を見比べる氏郷・・・。
唖然と座り込む秀吉・・・。
「この針の穴の事は、誰も知りません・・・極秘ですよ。
関白殿下だから、正直に申し上げたんです。
ナイショにしておいて下さいよ・・・マネされるといけませんから・・・」
シ~ンと静まりかえる場内・・・
少し笑みを浮かべた政宗と、やはり笑みを浮かべた秀吉の、静かなにらみ合いが続く中、その静寂を破るかのように、高らかに響く秀吉の笑い声・・・
「もう、えぇ・・・、わかった、わかった」
それは、すべてを許す笑い声でした。
もちろん、政宗の疑いが晴れたわけではありません。
いや、むしろ秀吉は、この一件で政宗が一揆の先導者であり、その手紙が本物であった事を確信したでしょう。
しかし、その先の先を読む知略に感服したのです。
一揆が成功しても、失敗しても・・・そして、たとえ手紙が見つかっても・・・
どうなっても、大丈夫なように、針の穴一つで、先手を打っておく・・・。
見事なまでのやり口に、ひょっとしたら若き日の自分を見たのかも知れません。
その痛快な作戦は、もはや大陸に目を向けている秀吉にとって、むしろ政宗が必要な人材だと感じさせた事でしょう。
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その後、政宗は、5月には米沢城へ戻り、一揆討伐を再開させ、7月には一揆衆に占拠されていた佐沼城を奪回します。
拠点を失った一揆は、急速に勢いを失い、またたく間に終息を迎えます。
秀吉は、一揆が鎮圧された後、以前、木村吉清に与えた領地をそっくりそのまま政宗に与えます。
一揆の中心人物の一人であった大崎義隆は、その吉清とともに、氏郷の臣下となり、もう、一人の中心人物であった葛西晴信は、政宗との佐沼城攻防戦で討死したとも、城から脱出はしたものの、そのまま行方知れずになったとも言われています。
政宗、一世一代・・・起死回生のパフォーマンスでしたね。
ただし、上記のセリフ回しなど、主観的脚色が入っていますので、広~いお心でお読み下さいませ。
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コメント
私はだいぶ昔、枚方菊人形の「独眼竜政宗」へ行ったことがあるんですよ。眼帯がよく目立つよね。
いろは姫は、たしか政宗の奥様でしたっけ・・・・・・・。
投稿: sisi | 2008年2月 4日 (月) 19時37分
sisiさん、こんばんは~。
菊人形・・・私も行きました~
ケン渡辺の主演で、大河ドラマになった年ですね~
一昨年のタッキーの義経で、菊人形は最後になってしまいましたね。
菊師の後継者の養成が困難なんだとか・・・残念です。
政宗の奥さんは、愛(めご)姫ですね・・・五郎八(いろは)姫は、その奥さんとの間の娘さんだったと思います。
投稿: 茶々 | 2008年2月 4日 (月) 21時31分
戦後処理の際に行なわれた加増に見せかけた懲罰もしっかり書くべきでは
秀吉はそんな甘くないという意味でも
投稿: | 2014年10月21日 (火) 20時34分
そうですね。
また、いずれの機会にか、書かせていただきます。
投稿: 茶々 | 2014年10月22日 (水) 01時36分
茶々さん、こんにちは。
風邪の為に体が傷んでいます。
ところで政宗のパーフォーマンスをよく秀吉は受け入れたと思いました。そう言えば小田原でも許したし、今回も許したとは気前が良いなと思いました。最初は総無事令違反、二回目は一揆の首謀です。どう考えても秀吉に反抗しているだけと思いました。弟の件だって滅茶苦茶だし、どうも信長以上に乱暴者と思います。そういう政宗を受け入れた秀吉、家康は心が広い大物だと思いました。
投稿: non | 2016年2月13日 (土) 12時47分
体型は全然違いますが、勝新の秀吉は迫力がありました。体型だと緒方拳、迫力は勝新と言うのが秀吉の理想です。
渡辺謙の大河は嫌いですが、勝新、津川が良かったと思いました。
勝新が若い頃の体系のままだと秀吉の理想像でした。
投稿: non | 2016年2月13日 (土) 13時55分
nonさん、こんにちは~
たぶんですけど…
秀吉は政宗の事を、かなり気に入っていたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年2月13日 (土) 16時28分
茶々さん、こんにちは。
私も秀吉は正々堂々と嘘を言った政宗みたいな気が強いのは好きと思います。そして政宗抜きの東北は安定しないと考えたのでしょうね。
確か独眼竜でもその後勝新の秀吉が謙の政宗にあの金箔の十字架は面白かったぞと言っていました。多分信長、秀吉、家康の頃はそういう洒落も通じたのかなと思いました。でも家光が亡くなると洒落も通じない官僚社会になったのかなと感じました。
投稿: non | 2016年2月14日 (日) 12時46分
nonさん。こんばんは~
秀吉が相手なら、一世一代の大勝負に出るのもアリかも知れませんが、他の大名ならシャレが通じない気がしないでも無いです。
投稿: 茶々 | 2016年2月15日 (月) 02時39分