浄土真宗を日本一にした蓮如の経営戦略
応永二十二年(1415年)2月25日は、浄土真宗の「中興の祖」と呼ばれる蓮如さんのお誕生日です。
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先日、親鸞聖人のご命日のページ(11月28日参照>>)で書かせていただいたように、日本で最大の伝統仏教教団・浄土真宗の開祖は親鸞聖人です。
その親鸞から数えて7代目の存如(ぞんにょ)・・・この人が蓮如のお父さん。
17歳で得度した蓮如は、長禄元年(1457年)父の死後、異母兄弟との後継者争いの後に、47歳にて、第8代本願寺法主となりました。
しかし、親鸞のひ孫の時代に、門弟と対立して本願寺という寺号を称して、すでに独立した形をとっていた本願寺派・・・蓮如は確かに親鸞の血筋を継いではいますが、この頃の本願寺派は、真宗の宗派の中では最下位。
まさに、衰退の一途をたどっていたのです。
その頃、この本願寺を訪れた近江(滋賀県)の本福寺の僧侶も、「一番人気の仏光寺は、群集に満ち溢れているが、本願寺はガラガラで、人っ子一人いなかった」と書き記しています。
蓮如本人も、毎日の食事にも事欠き、身に着ける衣も貧窮の極みでした(3月25日参照>>)。
しかし、8代目を継いでから、わずか8年後の寛正六年(1465年)には、比叡山が脅威を抱くほどに成長し、その比叡山衆徒に京都を追われてしまうのですが、
その後、越前(福井)吉崎に逃れて御坊(道場)を建て、その後も、本願寺派は成長を続けて、23年後の長享二年(1488年)には、本願寺門徒が高尾城に押し寄せ、加賀の守護大名・富樫正親(とがしまさちか)を自刃に追いやる『加賀の一向一揆』(6月9日参照>>)をやってしまうほどに成長します。
つまり、蓮如・一代で、教団内の最下位から、あの比叡山に肩を並べるくらいの大教団に仕立てあげたという事になります。
これが、「中興の祖」と呼ばれるゆえんです。
では、どのようにして、蓮如は、そこまで急激に教団を大きくする事ができたのでしょうか?
あくまで、個人的意見ですが、そこには、商売=経営と同様のテクニックがあったと思います。
無神論者の私が、「商売と同じ」と言うと、熱心な信者の方からお叱りを受けるかも知れませんが、もちろん、私利私欲の商売繁盛と仏教を広めようという精神とでは、根本的に違うわけですが、それを成長させるためのテクニックが似ているという事です。
どんなに良い教えでも、それを相手に理解してもらわなければ・・・いえ、その前に、心を開いて話を聞いてもらわなければ、その教えは広まってはいかないのですから・・・。
蓮如が、この時使ったのは、企業が商品を売り込む時、あるいは、政治家が選挙に挑む時に行う『メディア戦略』です。
自分の教えを、各地に散らばる末寺に浸透させるには・・・。
それぞれの末寺に、阿弥陀仏の仏像を寄進しても、信者の心には響きません。
・・・かと言って、彼が、全国行脚して、末寺を一つ一つ回ったとしても、その数には限りがあります。
そこで、蓮如は、自筆の手紙というメディアを利用します。
もちろん、単なる挨拶の手紙ではありません。
そこには、浄土真宗の教えや、蓮如の考えなどが書かれているのですが、当時、すでに貴族や武士には、既存の仏教が浸透していて参入が困難な事もあって、当然、蓮如のターゲットは、難解な仏教をまだ理解しきれていない庶民層・・・。
ですから、その手紙は、難しい言葉を使わずに、簡潔にわかりやすく、やさしく語りかけるような文章に仕上げられていたのです。
この『御文』と呼ばれる蓮如の手紙は、各末寺へ送られ、そこで、その寺の僧侶が信者の前で読み上げるのですが、それは、あたかも、目の前で蓮如が、信者一人一人に語りかけてくれていると錯覚するくらいの物だったのです。
御文を読み聞かされた者は、どんどんと引き込まれ、同時に各地のお寺に、蓮如自身が訪問するのと、同じ効果をあげる事ができ、本願寺派は一気に成長する事となるのです。
さらに、次に蓮如は、大きくなった教団の結束を固め、維持していくための戦略を実行します。
それは、以前『シルバーラブの日』(11月30日参照>>)に書かせていただいた子沢山・・・産めよ増やせよ作戦です。
蓮如は、27歳で初めて結婚して以来、85歳でお亡くなりになる前年まで、合計五人の奥さん(最後の奥さん以外は皆、他界されました)との間に、13人の男の子と14人の女の子を設けています。
ただ単に、元気でありまくりのハリキリまくりではありません。
ちゃんと計画的に、血縁関係で教団の結束を固めようとしたのです。
それも、ちゃんと将来の身のふりかたも考えておかなくては・・・なんせ蓮如さん自身が若い頃、後継者争いに巻き込まれてますから、しっかりとした計画が無い限り、むしろ、血縁関係だからこその争いが起こる事も考えられます。
蓮如さんがとった作戦は・・・「吸収合併」と「のれんわけ」です。
長男・順如には光禅寺というお寺を経営させ、次男・蓮乗は南禅寺に修行に出した後、加賀の本泉寺の如乗の娘の婿養子に出し、三男・蓮綱にも松尾寺というお寺を経営させています。
もちろん、女の子たちも、それぞれライバルになりそうな有力な寺院に嫁に出しているのです。
子供のうちに亡くなった子以外は、すべて、浄土真宗の僧か尼さんにして、何かしらの役割を、彼ら自身で与えています。
そして、まだ、自分の目の黒いうちに、75歳で引退し(84歳で最後の子供が生まれてるので、たぶん、まだ目は黒いです)、五男の実如に本願寺住職を譲ります。
しかし、引退しても、まだまだ蓮如さんの戦略は終りません。
そう、「アフターサービス」です。
引退後も、お寺での説法はもちろんの事、あの「御文」も続け、暇さえあれば、「名号」を書いていたのです。
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の6文字の事・・・この文字を蓮如自らが書いて本尊として門弟に配布するのです。
晩年、彼は「俺ほど、名号を書いた人間は、日本にいないゾ!」と、楽しげに語っていたと言います。
この名号によって、お寺と信者との結びつきが、強固なまま維持できたのは間違いありません。
まさに、見事な戦略。
なるべくしてなった日本一・・・というところでしょうか。
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コメント
やっぱりタダものではありませんでしたね。元気なかたは仕事のパワーも普通やないですからねえ。
遠い親戚に仏光寺派の寺院がありますが(滋賀県ですが・・)、蓮如さんがいなければ、この派がナンバーワンだったのか・・・?
投稿: 乱読おばさん | 2008年2月25日 (月) 10時14分
昨年、顕如上人の嫡男開祖の大通寺を見学しました。
蓮如上人は5人の奥さんですか、顕如さんは40人の奥さんと家系図があり艶福家で驚きました。
この宗派は後発で、女性には寛大で、親鸞さんの後も娘さん?でしたでしょうか。
都では入る隙間がないのか、信徒は日本の南北に多いような気がします。
子供の頃、祖母のお寺参りへよく付いて行きましたが、お説教これが「御文」だったのかと思いましたが、「朝は元気でも夕方には白骨になっているとか・・(もっと、美文)」とか思い出します。
一斉に南無阿弥陀仏の大合奏
これが庶民をひきつけたのかしら。
子供心には人生は無常とはいかなかったのですが、その後のおときご飯が楽しみでした。
投稿: さと | 2008年2月25日 (月) 13時26分
>乱読おばさま・・・
ウチの子供の幼稚園も仏光寺派でしたから、仏光寺派もなかなかのものですが、本願寺の信徒さんの数はハンパじゃないですからね・・・蓮如さんのパワーはスゴイっす
投稿: 茶々 | 2008年2月25日 (月) 19時59分
>さと様・・・
やっぱり、簡潔で明快というのは、人々をひきつけるんじゃないでしょうか?
今でも、小泉さんがウケるのは、あの単純明快さによるものでしょうから・・・。
確かに、女性に寛大なのもあるでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年2月25日 (月) 20時03分