なぜ、平城京はあの場所に?影に潜む藤原氏の思惑
和銅元年(708年)2月15日、第43代・元明天皇の詔(みことのり)によって、平城京の造営が布告されました。
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しつこいようで、心苦しいのですが、今日はまたまた、平城京のお話なので、以前『奈良の都の住宅事情』(11月8日参照>>)で、掲載させていただいた平城宮跡の写真と平城京の地図を、参考のために載せさせていただきます。
そして、重箱の隅をつつく姑さんのようで恐縮なのですが、やはり、歴史好き、奈良好きとしては、そこは譲れない所なので、あらためて強調させていただきますが、写真のだだっ広~い史跡の名称は、『平城京跡』ではなくて『平城宮跡』。
当時、西は、西大寺あたりから、東は春日山(春日大社のあたり)の裾野まで、南は九条・・・現在の大和郡山市あたりまであった平城京の、北の端に位置していた宮殿の跡が、平城宮跡なのです。
一昨年ほど前、九条の外に新たな遺構が発見されたため、おそらく、もっと・・・それほど、平城京というのは広かったのです。
永遠の都を願って造営された藤原京(12月6日参照>>)を、わずか十数年で遷都する事になるのも、第一の理由としては、その広さにあるとも言われています。
藤原京は、耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)・香久山(かぐやま)の大和三山に囲まれた場所にあり、平地の面積が少ない。
律令体制を整え、より強固な中央集権を実現する国家となると、それに比例して都の人口も増えていくものですが、藤原京は、それ以上広くする事ができない場所にあり、いくら以前よりは格段に広い都であっても、いずれは人口の増加に対応しきれない事になります。
その点、奈良盆地は、面積が広く、後々、いくらでも都を大きくできます。
もちろん、広さだけではなく、地相という物も考慮されています。
先の元明天皇の詔の中には「それ平城の地は四禽図(きんと)に叶ひ三山鎮をなす」という言葉があります。
「四禽図に叶い」というのは、平安京遷都(10月22日参照>>)のところでも登場した風水の陰陽思想の『四神相応の地』の定義に叶っているという意味で、東に川=青竜、西に道=白虎、南に池=朱雀、北に山=玄武の四方に住む神獣よって守られる土地という事です。
「三山鎮をなす」というのは、東の春日山、北の奈良山、西の生駒山(または西の京あたりの丘)の三つの山が、悪を鎮めてくれるという事です。
さらに、都造営のための木材の確保という問題もありました。
十数年前に藤原京を造営した事で、付近の良質の木材は底をつき、当時はすでに、新たな寺院の建築などは、遠く近江(滋賀県)から木材を調達している状態でした。
琵琶湖の南から宇治川、木津川を経て運ばれてきた木材は、藤原京だと陸揚げしてからの距離が非常に長く不便でしたが、奈良盆地なら、その悩みも解決できます。
広くて、土地柄が良く、資材の運搬に便利・・・しかし、何よりこの遷都を推し進めたのは、時の実力者・藤原不比等で、そこには、藤原一族の大きな思惑も秘められていたのです。
それは、第45代・聖武天皇の即位にも関係があります。
藤原京を造営したのは、ご存知、第41代・持統天皇・・・壬申の乱(7月22日参照>>)で勝利して頂点に立った夫・天武天皇の遺志を継がせようとした息子・草壁皇子は、皇位を継ぐ前に亡くなってしまい、その期待は草壁皇子の息子(つまり持統天皇の孫)・第42代・文武天皇へと移ります。
持統天皇が、幼い文武天皇を上皇という立場からサポートし、数多くいた天武天皇の息子たちも、それを支える・・・つまり、その頃は、政治の中心にいたのは、皆、皇族の人たちという事になります。
ところが、その文武天皇の夫人であった宮子が、男の子を出産します。
これが、首皇子(おびとおうじ・後の聖武天皇)です。
そして、宮子のお父さんが藤原不比等・・・この首皇子が天皇となれば、藤原一族は皇族の親戚として、大いに政治に関与できる事になります。
父・藤原鎌足が大活躍した乙巳の変(いっしのへん・蘇我入鹿暗殺)&大化の改新(6月12日参照>>)の後、何とか踏ん張った不比等でしたが、ここまでは、あくまで脇役・・・皇族を助ける役回りでしかなかった藤原氏が、政治の中心に躍り出る絶好のチャンスが訪れた事になったワケです。
しかし、臣下の者の中には、まだまだ古い体制を維持しようという者や、もともと、中臣氏の中でも下層にいた鎌足の子孫である藤原一族に反対の姿勢をとる昔からの名門氏族たちもいました。
彼らの多くが飛鳥(明日香)の地に根をはった豪族たちですから、そんな飛鳥から離れた土地に都を遷して、「旧勢力を払拭しよう」・・・それが、不比等の一番の狙いだったのではないでしょうか。
これまでの、天皇を中心に、皇族たちが行っていた『皇親政治』に代わって、天皇を中心に据えながらも、臣下である貴族・豪族が強い発言権を持つ『貴族政治』へ・・・
この先、何百年も続く、この政治体制が、今、この瞬間に生まれました・・・平城京遷都の一番の目的は、新たなる時代への第一歩となる新体制の確立だったという事なのでしょう。
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コメント
私が中学時代の校外学習が平城京へ行きましたよ。広かったですね。昼食は広い芝生で食べました。
投稿: sisi | 2008年2月15日 (金) 16時11分
大和郡山市に羅城門跡という史跡がありますから、やはり平城京は、かなり広かったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2008年2月15日 (金) 18時31分
遅ればせながら、2周年おめでとうございます。
これからも、宜しく。楽しみにしております。
草壁皇子よりも将来天皇にと人望があった、大津皇子を思います。
持統天皇のわが子を思う気持ち、姉の子には負けたくない等々あったたと思いますが、持統天皇と言えど、母親で、女だったのかな~と。思います。
投稿: さと | 2008年2月16日 (土) 19時49分
>さとさん、コメントありがとうございます。
持統天皇は、草壁皇子を亡くして初めて大津皇子のかわいさに気づいたような気がします。
なんたって甥っ子ですもんね。
以前、持統天皇のページでも書かせていただいたと思いますが、大津皇子がモデルだとされる薬師寺の聖観音像の美しさを見ると、持統天皇が、大津皇子へ行った自分の仕打ちを悔やんでいる気がしてなりません。
投稿: 茶々 | 2008年2月17日 (日) 01時08分