徳川の斬り込み隊長・井伊直政の赤備え
慶長七年(1602年)2月1日は、徳川四天王のひとり・井伊直政さんのご命日です。
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ちなみに、四天王の残り三人は、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・・・と、これが皆、先代からの重臣ばかり。
そんなオッサンたちに混じって、親子ほど歳の離れた井伊直政が、四天王と称されるのも、これ、ひとえに徳川家康のお気に入りの座を確保したに他ならないのですが、その出会いは、天正三年(1575年)2月15日の事になります。
浜松で催された鷹狩りで、当時、虎松と名乗っていた初々しい15歳の少年・直政に、一目惚れした・・・もとい、一目でその、武将としての才能を見抜いた家康が、すぐさま自分のもとへ呼び寄せて、いきなりの2000石で直臣として迎えるのです。
これには、もともと藤原の名門の家柄で、駿河の今川氏に仕えていた井伊家が、直政の曽祖父の代に、徳川への内通の疑いがかけられ、曽祖父が殺されたため、当時2歳だった直政が、その後、各地を点々とする不遇の子供時代を送った事を(8月26日参照>>)、家康が自らの少年時代に重ね合わせ、彼を優遇した・・・という事だそうですが、そこは、例のごとく、男と男のLOVEな関係であったとも、直政は家康の隠し子だったなんて噂もチラホラと・・・
とにかく、そんな噂が出るほどに、家康は、新参者の直政を優遇するのですが、その噂をかき消すかのように、直政は、初陣から見事な活躍をし、日に日に頭角を現していきます。
・・・て、事で、ここは一つ、二人の関係は、家康のスルドイ目が直政の武将としての素質を見抜いた・・・という事にしておきましょう。
やがて、天正十年(1582年)3月、家康は織田信長とともに、あの宿敵・武田を滅亡させます(3月11日参照>>)。
信長から駿河を与えられ、武田の旧臣を受け入れる事になった家康は、その『武田の赤備え(あかぞなえ)』を、そっくりそのまま直政に受け継がせます。
この「赤備え」というのは、もともと武田の武将・山県昌景が考えたもので、指物・鎧・旗はもちろん、馬具や鞍・ムチまでが赤一色で統一された軍隊で、当時、無敵とうたわれた名誉あるもの・・・それを「そのまま『井伊の赤備え』にしろ」と言われたのです(10月29日参照>>)。
これは、すなわち家康が、直政を徳川最強の一番打者=斬り込み隊長として認めた事でもあったのです。
この、戦場でひと際目立つ「赤の軍団」は、その後の合戦でも、度々先鋒を努めて大活躍・・・『井伊の赤備え』の名前は、天下に轟く事となるのです。
(ちなみに、ひこにゃんも「赤備え」です)
しかし、その名に、おごる事なく、生キズ覚悟の捨て身の特攻として、常に合戦に挑んでいた直政でしたが、慶長五年(1600年)9月15日、運命の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)がやってきます。
この日、徳川勢の先鋒は、福島正則が努める事になっていました。
しかし、直政は、この関ヶ原に来る以前から、家康に対して
「福島君なんて、この前まで豊臣にいたヤツですよ。そんなのに先鋒なんかやらせて、そいでもって勝ったりなんかしたら、どんなに、この先デカイ顔されるか・・・今度の戦いでは、ぜひ僕に先鋒を・・・」
と、言い続けていたのです。
結局、先鋒が変わる事はありませんでしたが、家康は直政の気持ちを汲んで、関ヶ原の合戦の布陣では、福島正則隊・黒田長政隊と並べて、直政隊も一番前の最前線に置いていました。
しかし、やはり心の中では納得がいかない直政・・・運命の日の午前8時。
それまでかかっていた霧がようやく晴れはじめ、関ヶ原の視界が開け、東西両軍ともに、合戦の開始が近づいた事を感じていた頃でした。
最前線に構えるのは、先鋒を努める福島隊の先陣・可児才蔵(かにさいぞう)です。
その横をスルスル~っと、通り過ぎ、その前へ出ようよする直政・・・。
「おいおい、何しとんねん!俺らが先陣やって聞いてるやろ!何、前出よとしとぉんねん!コラ!」
才蔵さんとしては、当然のお言葉・・・。
「いやぁね、ホラ・・・のちのちの合戦の勉強のためにも、先陣とはどんな物かってのを、見ておいてもらったほうが良いと思って・・・」
と、直政・・・。
才蔵がふと見ると、直政のそばには、松平忠吉の姿・・・。
そう、この松平忠吉は、家康の四男坊で、今回の関ヶ原が初陣。
真田相手の上田城に手間取り(9月7日参照>>)、関ヶ原に間に合わなかった三男・秀忠に代わって、思わぬ最前線での初陣となった若き四男坊でした。
直政は、そんな忠吉の後見人の立場でもあったのです。
総大将・家康様のおぼっちゃまのお出ましとあらば、無理に止める事もできませんから、「さぁ、どうぞ」とお通しする可児隊・・・しかも、その時の直政らは、隊というよりもわずか十数騎のグループだったため、才蔵も、すっかり信じ込んでしまい、まんまと直政たちは、軍団の最前線の位置へもぐり込みます。
・・・と、もぐり込んだが早いか、あれよあれよという間に、敵方の最前線にいる宇喜多秀家隊に向かって、鉄砲の乱れ撃ち。
そして、その轟音が、まるでスタートの合図であったかのように、福島隊も一斉射撃を開始・・・こうして関ヶ原の合戦の幕が上がったのです。
かろうじて、徳川直臣の意地を見せましたね・・・まったく、直政さんらしいエピソードです。
ところで、この関ヶ原の合戦は、東西両軍にとっても、雌雄を決する運命の戦いでありましたが、直政個人にとっても運命の戦いであったのです。
それは、合戦が開始されてから6時間後の午後2時頃・・・やっとこさ徳川に寝返った小早川秀秋が、大谷吉継を攻撃し、戦況は一気に東軍有利となり(2022年9月15日参照>>)、壊滅状態となった大谷隊とともに、徐々に西軍が敗走し始めた頃。
最後まで戦場に残っていた島津隊が、敵の後方にある伊勢路を目指し、戦場を横断する形で決死の敵中突破を開始したのです。
<見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
★このイラストは、昨年9月16日の【関ヶ原の合戦・反省会~朝まで生合戦】のページにupした合戦図です~よかったら、そのページも覗いてみてください。
【関ヶ原の合戦・反省会~朝まで生合戦】はコチラからどうぞ>>
それは、地面に点々と座って銃を撃つ『坐禅陣』。
後ろの兵が銃を撃っている間に、前にいた兵がその兵の後ろに回って銃を撃ち、また前の兵が・・・という風に、銃を撃ちながら後退していくというはなれワザ=「島津の背進」です(9月16日参照>>)。
さらに、大将・島津義弘の甥である島津豊久は、義弘の陣羽織を着て、「我こそは島津義弘なり!」と、敵の注意をひきつけます。
そう、この島津の背進を追撃したのが、井伊直政と本多忠勝でした。
何とか追いつき、豊久を討ち取った直政・・・しかし、その時、島津の放った鉄砲が直政に命中するのです。
結局、その時の鉄砲傷がもとになり、1年半後の慶長七年(1602年)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じます。
常に最前線を駆け抜けた男の無念の死・・・しかし、彼の活躍によって、家康より、彦根城の築城(11月4日参照>>)&彦根藩主という大きなプレゼントを獲得し、江戸時代を通じて井伊家は栄える事となるのです。
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コメント
井伊直政は徳川一番打者か。野球で言うと、足の速い選手。
楊貴妃とねねの水着の跡を更新しました。
投稿: sisi | 2008年2月 1日 (金) 16時24分
sisiさん、
スゴイ制作意欲で、どんどん仕上げていかれますね。
ワタシは最近、時間に追われてなかなかイラストがupできないでいます。
ホントは今日の「井伊の赤備え」なんかは、描いてみたかったんですけどねぇ~
投稿: 茶々 | 2008年2月 1日 (金) 17時44分
茶々さんこんにちは、
井伊直政さん他の四天王に比べると年下てこともあるかもしれませんが、今流のパフォーマンスも心得た、都会的でセンスの良い人って気がします。その上勇猛、京を護るにピッタリ!戦場傷絶えなかったそうで早死にしてしまいなんとなく義経を思い出してしまいます。
投稿: みどり | 2008年2月 2日 (土) 17時06分
みどりさん、こんにちは~。
>義経・・・確かに、似てるかもですね。
ただ、義経さんはネクラそうですが、直政さんは明るそうです・・・あくまで個人的なイメージですけどww。
投稿: 茶々 | 2008年2月 2日 (土) 18時11分
以前にも書いたかもしれませんが、大阪冬・夏の陣では井伊家の部隊は真田幸村軍(こちらも山県にあやかったらしい?)と「赤ぞろえ対決」になりますが、これも語り草になっていますね。
ひこにゃんが注目されているので、来年は赤ぞろえが関が原か大阪で出てくるかな?
来年は徳川家の家臣の配役に重点を置くでしょう。そう言えば、昨年秋に台風で壊れた彦根城石垣は、修復されたのでしょうか?
投稿: えびすこ | 2010年2月15日 (月) 10時26分
えびすこさん、こんにちは~
とにかく、ちゃんと合戦シーンをやってくれれば、それで救われます。
投稿: 茶々 | 2010年2月15日 (月) 15時37分