屋島の合戦~佐藤嗣信の最期
文治元年(寿永四年・1185年)2月19日は、源平合戦の屈指の名場面・扇の的で有名な『屋島の合戦』のあった日です。
・・・と、昨年の今日は、屋島の合戦の中でも、名場面と言われる『扇の的』(2月19日参照>>)のお話を書かせていただきましたが、屋島ではもう一つ、扇の的の前に、あの『佐藤嗣信の最期』という屈指の名場面があります。
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『一の谷の合戦』(2月7日参照>>)で破れ、四国の屋島へと向かった平家。
兄・源頼朝の承諾を得ずに官位を貰った事で、しばらく謹慎処分になっていた源義経が、平家追討軍の大将に復帰するなり、わずかの兵で嵐の海を越えて四国に上陸したところまでは、先日の『めざせ!屋島・・・』のページで書かせていただきました(2月16日参照>>)。
四国の勝浦に上陸した義経軍は、高松の民家を次々に焼き払いながら、一路屋島を目指します。
それは、最初に義経とともにやって来た源氏勢が、わずかに5艘・・・途中から加わった近藤六の手勢を加えても、合計150騎の義経軍を、より多くの軍勢に見せかけるための作戦でした。
その狙い通り、屋島にいた平家一門に「高松に火の手が・・・」の情報が入るやいなや、平宗盛(清盛の三男)は「源氏軍が相当な数で攻め寄せて来ている」との判断をします。
早速、安徳天皇の御座所を船に遷し、そこには建礼門院(清盛の娘で安徳天皇の母)・二位の尼(清盛の奥さん=時子)をはじめ、宗盛親子も乗り込み、早々に漕ぎ出します。
他の船も、われ先に女官や公達が乗り込み、次々と出ていきます。
少し沖へ出た頃、ちょうど浜辺に到着した義経率いる源氏軍の先頭集団・約80騎。
その先頭集団は、ちょうど引き潮であった海岸から海に入り込み、大きなしぶきを上げて沖の船に近づこうとします。
わずか80騎の先頭集団が、浜辺に現れるなり、いきなり海に入り、馬の蹴上げる水しぶきの中、サッと白旗を掲げる事によって、より多くの軍勢に見せかけたのです。
やがて、到着した義経は、軍勢の一歩前に進み出て名乗りをあげます。
「我こそは、一院の御使、検非違使五位の尉源義経」
続いて、伊豆の住人・田代信綱、武蔵の住人・金子家忠・・・そして伊勢三郎義盛以下、義経の郎党も次々と名乗りを上げます。
その間に、浜辺へは出ずにいた源氏方の後藤実基が、人影の無くなった内裏や総門などの建物に火を放ちます。
たちまちのうちに燃え上がる炎・・・それは、沖で留まる平家の船からもよく見え、この頃になって、ようやく宗盛は、源氏軍の兵の数が、予想以上に少ない事に気づかされるのです。
「しもた・・・こんな事なら、慌てて海に出んでも、浜辺で応戦したら、難なく撃退できたものを・・・」
悔やんでもしかたありません。
何とか、反撃に出る方法はないか?と思案する中、平家きっての猛将・平教経(清盛の甥)に、陸へとって返し一戦を交えるように指示します。
「ガッテン承知」とばかりに教経を大将にした平家軍・約500の兵士が小舟に分乗し、越中盛嗣を先頭に、陸へ向かって押し寄せ、焼け焦げた総門のあたりに陣を敷きます。
義経軍も、矢の飛距離を考えつつ、少し退いて陣を敷きました。
先頭きってやってきた盛嗣が・・・
「さっき、なんや、ボソボソと名乗りみたいなモンあげとったけど、海の上におったさかい聞き取れんかったわ!・・・で、いったい、今日の源氏の大将は誰やねん!」
すると、伊勢義盛が進み出て・・・
「今更言うまでも無いだろ?清和天皇から数えて10代目、鎌倉殿(頼朝)の御弟の九郎判官殿よ!」
「あ・・・思い出した!先の平治の合戦で、完敗してオヤジが死んで、鞍馬の小坊主になったあと、金商人にの手下になり下がって、商人の荷物持ちやりながら奥州をウロウロはいつくばっとったガキやな!」
「テメェが男のくせにおしゃべりだっつーのは、噂に聞いてたけどよ!ペラペラとウチの大将の悪口言うんじゃねぇよ!テメェらこそ、倶利伽羅峠の合戦で大負けして、北陸をさ迷い、物乞いをしながら帰って来たヤツラなんだろ?」
「何ぬかしとんねん!物乞いなんかするか~ちゅーねん!お前こそ鈴鹿の山で山賊やっとったくせに」
一見、ムダに見えるこの悪口の言い合い・・・実は、この間に、盛嗣の後ろからジリジリと弓を引いて狙いを定めていた者がおりました。
そう、平家の大将・教経です。
彼は、都一の弓の名手とうたわれた人物・・・「彼に狙われたら射抜かれない者はいない」と言われていたのです。
彼の狙いはただ一人・・・源氏の大将・義経です。
さすがに、そのスルドイ視線に気づいた源氏勢・・・義経の前に、馬の頭を並べて、その前をふさぎます。
教経は・・・
「オラ、どかんかい!矢おもてに立つザコども!」
と言うなり、立て続けに矢を何本も放ち、またたく間に、10人ほどが馬から落ち、その場に倒れます。
その中には、あの佐藤嗣信が・・・。
彼は、義経が奥州を出る時、藤原秀衡が与えてくれた家臣・佐藤兄弟の兄のほう。
「命を賭けてお守りします」と主従関係を結び、ともに平家打倒を夢見て旅立ったあの日から、その言葉の通り、我が命に代えても、義経を守る覚悟でいた嗣信は、誰よりも前に出て、主君の盾となっていたのです。
教経の放った矢は、嗣信の左手の肩から、右手の脇腹へと抜け、浜辺に落ちたその身体は、ピクリとも動きません。
そこへ、教経の従者である怪力自慢の菊王丸という18歳の若者が、嗣信の首を取ろうと、長刀を振りかざして近寄ります。
「させるか!」
と、弟の佐藤忠信が即座に放った矢は、菊王丸をまともに討ちぬき、彼もまたその場に倒れます。
そばにいた主君の教経が菊王丸を引きずり、船へと乗せますが、彼はもはや即死状態。
教経は、この菊王丸・討死のショックで、合戦から離脱し、船に籠ってしまいます。
一方、嗣信を取り戻して、何とか源氏の陣まで運び入れた義経主従・・・「大丈夫か?意識はあるか?」と、嗣信に声をかけます。
「もはや、これまでと思われます」
消えそうな声で、嗣信が答えます。
「武士たる者が敵の矢に当たって死ぬのは、もともと覚悟の上・・・何も悔いはありませんが、義経殿の天下となるこの世を見ずに死ぬ事だけが心残りで・・・でも、この源平の合戦で、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信という者が、讃岐の屋島の磯で主君の身代わりになったと末代までの語り草となるのは、何よりも武士の誉れ・・・」
自らがその手を取り、嗣信を励ます義経・・・その手を握り返す嗣信の指が、やがて、その力を無くし、ハタッと義経の手の中をすり抜け、浜辺の砂の上に投げ出されました。
そして、戦いは、このあと、扇の的の名場面へと切り替わる事になります。
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壮絶な、合戦が繰り広げられた屋島の地・・・現在、平行して走る屋島ドライブウェイと県道の間に挟まれた入り江を見下ろす高台に、佐藤嗣信の供養塔があります。
その前の道は、かつて江戸時代に屋島寺へと向かう巡礼者が通った遍路道なのだとか。
その道を、さらに少しだけ南に下ると見える小さなほこら・・・こちらは、菊王丸のお墓。
今、屋島観光のガイドブックには、敵味方に分かれながらも、同じ屋島の地で命を落とした二人のお墓が、並んで紹介されています。
永遠の眠りについて、二人並んで見る夢は・・・平家栄華の思い出か、来たるべき源氏の世への憧れか・・・それとも、合戦の無い時代の屋島の風景なのでしょうか・・・。
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コメント
すいません。平宗盛のところ、3男じゃなくて次男になってますよ。次男は基盛ですよ。あと口ゲンカのシーンで「うちの大将」が「うちの大正」になってますよ。
投稿: 山城守 | 2015年3月 5日 (木) 22時25分
山城守さん、こんばんは~
あらま!
ぜんぜん気づいてませんでした(*´v゚*)ゞ
ありがとうございます。
訂正させていただきます。
投稿: 茶々 | 2015年3月 6日 (金) 02時30分