秀吉VS家康~犬山城攻略戦by小牧長久手の戦い
天正十二年(1584年)3月13日、豊臣秀吉に促された池田恒興が尾張・犬山城を攻略!
『小牧・長久手の戦い』と総称される一連の合戦の火蓋が切られました。
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天正十二年(1584年)3月13日、この日、徳川家康は尾張に入り、清洲城で織田信雄と会見しています。
そう、この『小牧・長久手の戦い』は、織田信長亡きあとの羽柴(豊臣)秀吉に脅威を感じた信長の次男・織田信雄が、徳川家康と連合軍を組んで挑んだ戦いです。
1ヶ月後の4月に起こる長久手の戦い(4月9日参照>>)と、さらに、その2ヶ月後の6月から7月にかけての蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)の、すべてをひっくるめて『小牧・長久手の戦い』と呼ばれますが、その中で3月に行われたこの前半戦は『小牧の戦い』と呼ばれます。
ただし、これは、家康が小牧山城に陣を構えた事による呼び名で、実際に小牧で合戦が行われたのではなく、今日3月13日の犬山城攻防戦と、3月17日の羽黒での戦い(3月17日参照>>)、そして、3月28日からの小牧の対峙(3月28日・小牧の陣>>)の事を言います。
そもそもの発端は、明智光秀の謀反によって、あの信長が、本能寺で突然亡くなった事に始まります。
信長の死の25日後に行われた後継者を決める清洲会議(6月27日参照>>)で、秀吉の推すわずか3歳の信長の孫・三法師が、その後継者に決定されてしまいます。
しかし、これは幼い三法師の後見人となって、事実上の実権を握ろうとする秀吉の思惑がミエミエ・・・納得がいかないのは、織田家で一番の重臣だった柴田勝家です。
勝家が推していたのは、信長の三男・神戸信孝・・・。
その信孝は、あの山崎の合戦(6月13日参照>>)にも参戦して、秀吉とともに光秀を討っているわけですから、信孝自身も、当然、納得がいきません。
しかし、そんな勝家が賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で秀吉に敗れ、居城・北ノ庄城で自害した時、秀吉の人たらしのワザにまんまと乗せられたのが信長の次男・織田信雄・・・彼は、この時、異母弟である信孝を攻め、失脚させてしまいます。
その後、信孝は秀吉に怨みをつのらせたまま自刃に追い込まれます(5月2日参照>>)が、当然天下を狙っているのは、秀吉自身・・・信雄のところに後継者の席が回ってくるわけがありません。
そんなこんなで、秀吉と信雄の関係がギクシャクする中、信雄は、自らの重臣・浅井田宮丸ら三人の家老を、秀吉に内通したとして暗殺してしまいます(3月6日参照>>)。
この事によって、信雄と秀吉の関係は、ますます冷え切ってしまい、信雄は、秀吉に対抗できる実力者・徳川家康を頼る事になるのです。
家康としても、このまま秀吉の天下取りを、指を加えて見ているわけにはいきませんから、信雄を迎え入れると同時に、未だ秀吉の傘下とはなっていない土佐(高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や、紀州(和歌山県)の雑賀(さいが・さいか)、根来(ねごろ)といった者たちに声をかけ、東と西から、羽柴方の拠点・上方を挟み撃ちすべく計画を練りはじめます。
早速、この動きを知った秀吉が、自ら、伊勢に向かって進撃を開始!
(3月12日:亀山城の戦い>>)
その時、羽柴軍を迎え撃ったのは、信雄から伊勢の援軍として派遣されていた犬山城主・中川定成・・・しかし、不運にも定成は、この時の戦いで戦死してしまいます。
早速、秀吉はその定成を失った犬山城を攻略すべく、美濃・岐阜城主・池田恒興(信長の乳兄弟)を向かわせます。
恒興は、天正十二年(1584年)3月12日の深夜、鵜飼いの小舟を一箇所に集め、木曽川を渡り、背後から犬山城に奇襲をかけ、明けて3月13日、この城を攻略しました。
これは、信雄にとっては一大事。
なんせ、信雄は尾張(愛知県西部)と伊勢を領地とし、清洲城(愛知県清洲市)を居城としているのですから、テリトリーの範囲内に入ってこられた・・・どころか、もう、目の前の場所を落された事になります。
そして、冒頭に書いた清洲城での、家康と信雄の会見です。
もう、これは会見というより、軍儀です。
この先、秀吉の進撃をどうやって食い止めるか?
そして、家康は、かつて信長が一時期居城としていた小牧山城に陣を張り、決戦の場所・羽黒へと向かいます。
天下に轟く両雄・・・秀吉と家康が相まみえた『小牧長久手の戦い』の幕が、いよいよ上がりました・・・と、この先を進めていきたいところですが・・・・
今日のお話の続き、羽黒での合戦のお話は、やはりその日・・・3月17日のページでどうぞ>>。
小牧長久手・関連ページ
●3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
●3月12日:亀山城の戦い>>
●3月13日:犬山城攻略戦>>
●3月14日:峯城が開城>>
●3月17日:羽黒の戦い>>
●3月19日:松ヶ島城が開城>>
●3月22日:岸和田城・攻防戦>>
●3月28日:小牧の陣>>
●4月9日:長久手の戦い>>
:鬼武蔵・森長可>>
:本多忠勝の後方支援>>
●4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
●5月頃~:美濃の乱>>
●6月15日:蟹江城攻防戦>>
●8月28日:末森城攻防戦>>
●10月14日:鳥越城攻防戦>>
●11月15日:和睦成立>>
●11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
●翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
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コメント
お久しぶりです
歴史の話ってすごくいろんな人物が登場してきますよね。当時のそういった記録があるって凄いなぁ~と改めて思いました。
ところで、あをによしってどういう意味ですか?
投稿: 見習い大工 | 2008年3月13日 (木) 12時53分
こんにちは~
見習い大工さん、コメントありがとうございます
「あをによし」というのは、「奈良」にかかる枕詞(まくらことば)です。
枕詞というのは、和歌を詠む時のルールみたいな物で、ある特定の言葉(主に名詞)を歌に読み込む時につける飾りのような物です。
たとえば、単に「シャア」と言うより「赤い彗星・シャア」と言ったほうがカッコイイ気がする・・・そんな感じでしょうか・・・。
もともとは、意味があってその言葉の飾りとして使われていたらしいですが、今ではなぜその言葉の枕詞がソレなの?とつながりがわからない物も多数あります。
「あをによし」の場合は、漢字で「青丹によし」と書くところから、建物などに塗る「青丹」の染料の産出地が奈良であったから、とか、青丹を精製する事を「ならす」と言ったので奈良の枕詞になったとか言われています。
♪あをによし、寧楽(なら)の京師(みやこ)は、咲く花の、
薫(にほ)ふがごとく、今盛りなり♪
・・・という感じで、奈良の美しさを強調する飾りとして枕詞が使われます。
他にも、「飛ぶ鳥=明日香(あすか)」のように枕詞の影響で「飛鳥」と書いて「あすか」と読むようになった物とかもあります。
この枕詞については、いつか記事としてブログに書いてみたいと思っています。
投稿: 茶々 | 2008年3月13日 (木) 16時01分
いつも楽しく見させていただいています。
自分の記事を書くときにいつも参考にさせていただいているのですが、今回は特に勉強になりました。
特に、九鬼嘉隆の三河進行説は非常に興味深く、今は記事の途中でなんとも言えないのですが、できれば記事に取り入れたいと思っているところです。
今後もここで勉強させていただきます。
よろしくお願いします。
投稿: TV-Rocker | 2011年4月23日 (土) 00時05分
TV-Rockerさん、こんばんは~
まさに「歴史は日々進歩する」ですね。
様々な研究で、イロイロな説が登場して、妄想するのが楽しいです。
こちらこそ、よろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2011年4月23日 (土) 01時59分