家康×秀頼~二条城の会見で出された饅頭は・・・
慶長十六年(1611年)3月28日、上洛した徳川家康と豊臣秀頼の、二条城での会見が行われました。
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慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)で勝利したとは言え、あれは、あくまで豊臣家内の武闘派と文治派による内紛・・・事実上の最高実力者ではあっても、未だ徳川家康は、豊臣家の一家臣でした。
そんな中、家康は二条城の建設に着手します。
あの織田信長も、京都に二条城を建てましたが、後にニ条御所と呼ばれたその建物は、本能寺の変の時に息子・信忠とともに燃え尽きました。
豊臣秀吉も京都に、壮大な聚楽第を建てていますが(2月23日参照>>)、関白職とともに聚楽第を、甥・秀次に譲った後に、秀次を葬り去ったアノ一件(7月15日参照>>)があり、その存在を消すかのように聚楽第も壊してしまいました。
天皇のおわす京の都に、壮大な城を建設する事は、天下を掌握する男の証しとも言えますし、もちろん、天皇に睨みをきかすという意味もあります。
夢の二条城は、慶長七年(1602年)から数年がかりで建設されますが、その間に家康は、征夷大将軍に任命され(2月12日参照>>)、さらに、その将軍職を二代目の秀忠に譲り(4月16日参照>>)、将軍職という物は徳川家が代々受け継いでいく物である事をアピールします。
しかし、諸大名の中には、未だ、家康より、先に大坂城の豊臣秀頼に年始の挨拶をしに行く者なども多く、豊臣への気遣いが拭えない状態でした。
そんな諸大名に、徳川将軍家が豊臣に匹敵する力を持っている事を知らしめるためにも、家康は、自分が行くのではなく、秀頼に会いに来させようと、再三呼び出しをかけましたが、秀頼は・・・というよりは、母の淀殿が、家康に会う事を反対し続けていたと言います。
しかし、関ヶ原では家康に味方しながらも、秀吉の代から豊臣に仕えていた加藤清正・池田輝政・前田利長といった面々の仲立ちもあり、慶長十六年(1611年)3月28日、すでに完成していた二条城にて、家康と秀頼の会見が実現したのです。
一般的には、この席で家康は、先に杯を干し、その杯を秀頼に与え、次に秀頼が杯を干すという事を行い、豊臣が、徳川の一大名である事を、内外に知らしめたと言われます。
(*これには、異説もあります…くわしくは(2014年3月28日のページで>>))
ところで、この会見の席で、お酒とともに出された物がありました。
それは、饅頭・・・。
・・・注:この先は、あくまで噂話です・・・
その饅頭は2種類用意されていたのだとか・・・。
実は、家康が秀頼と会うのは、かなり久しぶりなのですが、そんな家康の耳に入ってきていた秀頼の噂も2種類・・・。
「秀吉の才能と、淀殿の美しさを受け継いだイケメンで才気あふれる若武者ぶりだ」
というのと、
「オツムは淀殿で、お顔は秀吉のサル、身体だけが大きいウドの大木だ」
という物・・・
はたして、18歳になった豊臣家の当主は、どんな風に成長したのか?
家康はその目で、しっかりと確かめようとしていたのです。
もし、秀頼が前者のような優秀な若武者であったなら、危険な芽は早く摘んでおく事に越した事はありません。
秀頼に対する噂が2種類・・・饅頭も2種類・・・。
家康は、そっと目くばせして、側近に合図を送ります。
おもむろに、秀頼の前に出された立派な饅頭。
秀頼は息を呑みます。
もちろん、彼も、その危険には気づいています。
しかし、出された物に手をつけなければ、家康を信用していない事になり、この会見の意味も無くなってしまいます。
・・・かと言って、
目の前の饅頭がアウトなのか?
セーフなのか?
秀頼は意を決して、饅頭を手に取り、口に運びます。
そこへ・・・
「おぉ・・・ウマそうな饅頭や!」
・・・と、その秀頼の饅頭をひったくるようにして食べてしまったのは、あの清正・・・。
「うまい、うまい」
と、大口を開けてパクパクと・・・あっと言う間に、丸ごと平らげてしまいました。
はてさて、家康の目には、秀頼はどのように映っていたのでしょうか?
それは毒饅頭だったのしょうか?
真相は、すべて、家康の心の中に・・・
今となっては、想像するしかありませんが・・・
はたして、家康と秀頼の間を取り持って会見を実現させるという大役を成し遂げた清正は、以前、【加藤清正・疑惑の死】(6月24日参照>>)で書かせていただいたように、この後、領国・熊本に帰る途中に命を落すのです。
やがて、その三年後、ご存知のように、大坂の陣の火種となる方広寺・鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発します。
う~ん・・・どうでしょう?
でも、饅頭を食べてから3ヶ月ありますからね~。
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コメント
茶々さんこんばんは、
秀頼が秀吉の実子であったかどうか?
イケメンの大男では・・
私事で恐縮ですがブログタイトルをゼロハイムできちゃった!ライター名をエコリンに
変更しました。引き続きよろしくお願いいたします。
投稿: みどり(エコリン) | 2008年3月29日 (土) 22時29分
みどりさん改めエコリンさん、こんばんは~
>秀頼が秀吉の実子であったかどうか?
・・・私は、「秀頼は、大野治長似」に一票?・・・
>私事で・・・・
早速、リンクのタイトルも変えておきました~
私も・・・どうも半角英数ってのが、迷惑メールと間違われるようで、ハンドルネームを変えようかと思いつつ、未だにそのままです。
投稿: 茶々 | 2008年3月30日 (日) 01時49分
家康と秀頼が会見をする前に松平忠輝(秀頼から見ると義理の叔父)が秀頼に会っているんですが、昨日の江の放送ではそれに触れていませんでしたね。実際には忠輝からの情報も参考にして判断したんでしょうか?
秀頼と忠輝は年齢が近いので気が合ったと言われています。
投稿: えびすこ | 2011年10月10日 (月) 15時54分
えびすこさん、こんばんは~
このページは、だいぶ前の記事で、一般的に言われるような会見の内容を、まずはという形でご紹介させていただいてますが、私、個人的には、この会見の時点では、一般に言われているような(徳川が上)という事は無かったと考えていますので、放送で触れる触れない以前の、まったく違う内容だったと考えています。
実際には、本文で「異説アリ」と紹介させていただいた【豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑】>>のように、家康が自ら庭に出て秀頼を出迎え、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案するも、秀頼が、家康のほうが年長者であるし、朝廷から受けている官位が上なので、上座を譲ったというのが本当のような気がします。
ただし、昨日の家康×秀頼会見のシーンは、ドラマとしては、「江」始まって以来の快挙のようなイイ出来栄えでした。
柱に差した針をそのままにして立ち去る加藤清正らにはドテッとコケそうになりましたが、秀頼役の役者さんの演技が光ってましたね~
あんないいシーンを作れるスタッフなのに…1年を通しては、実に残念です。
投稿: 茶々 | 2011年10月10日 (月) 23時03分