信玄・強気の深沢城矢文~深沢城攻防戦
元亀二年(1571年)3月27日、武田と北条の間で、その所有を巡って争われた『深沢城攻防戦』が終結しました。
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今川氏真を破って、駿河(静岡県東部)を手に入れた武田信玄にとって、この深沢城(静岡県御殿場市)は、隣国・相模(神奈川県)と国境を接する重要な場所でした。
それは、相模を本拠地とする北条氏政にとっても同じ事・・・。
何とか、この地を手に入れたい氏政は、信玄に蒲原(かんばら)城を落され、薩埵(さつた)峠で手痛い敗北(12月6日参照>>)を受けた永禄十二年(1569年)以降も、たびたび深沢城に出兵を重ねていました。
そんな重要な城を守るのは武田方の駒井昌直。
そして、いよいよ元亀元年(1570年)4月・・・氏政は、自らが出陣し、深沢城に総攻撃を仕掛けます。
2ヶ月間の攻防の末、深沢城は落城し、今度は氏政の重臣・北条綱成(つなしげ)(5月6日参照>>)が城の守りに着きました。
もちろん、信玄が、このまま城を奪われた状態を許すはずがありません。
その年の暮れには、自らが出陣し、翌・元亀二年の正月早々から深沢城を包囲し、城への攻撃を仕掛けます。
1月3日には、城内で籠城する綱成に対して、開城を要請する矢文が射込まれます。
これが有名な『深沢城矢文』と呼ばれる物ですが、その内容は・・・
「あの氏真のアホンダラは、伯父(母が信玄の妹なので)のワシを裏切りやがって、こともあろうに上杉謙信みたいなヤツと手を組んでワシに抵抗しよったさかいに潰したった。
相模は、この信玄に与えられた土地やっちゅーねん。
北条が邪魔するんやったら、いつでもやっったる。
ほら、さっさと城を明渡さんかい!
けど、何やったら、小田原に救援頼んでも、えぇんやで。
伝令を見つけても、見逃したる・・・いや、むしろ送り届けたるさかいに・・・。
ただし、こっちは、全軍で雌雄を決する用意ができてるんや。
よもや、あの三増峠の戦い(10月6日参照>>)のブザマな戦いっぷりを忘れてないやろな。
今度も、あんな負け方したないんやったら、さっさと決断せんかい!
ええ返事、待ってるでぇ」
(大阪弁しかしゃべれないので、手紙の文章が大阪弁になってしまいました・・・けっして悪意はありませんので、お許しを・・・)
・・・てな感じの、とても矢で撃ち込んだとは思えない、実に長い文章だったらしい・・・。
しかし、綱成はこの矢文を一蹴・・・さらに籠城を続けます。
そこで、信玄は作戦変更とばかりに、従軍していた金山衆に命じて、城塁を掘り崩し始めます。
・・・と、以前は、この後、武田の攻撃も空しく、綱成の強固な守りに阻まれ、信玄は兵を退いたとされていましたが、氏政が謙信と景虎(氏政の弟で謙信の養子になった)に宛てた手紙が発見され、それによると・・・
「綱成は、武田の猛攻により16日に開城した」とされている事から、現在では、その金山衆の堀り崩し攻撃のため、援軍を待ちきれなかった綱成が、1月16日に深沢城をあけ渡した・・・というのが通説となっています。
しかし、その後は、逆に、武田方の手に戻った深沢城を、北条方が再び奪回しようと、攻撃を仕掛けます。
その北条の攻撃は、元亀二年(1571年)3月27日まで続きますが、結局、北条が奪回するまでには至らず、その後は、勝頼の代になって武田が滅亡する(3月11日参照>>)まで、この深沢城は、武田の支配下となりました。
それにしても、先の矢文の中の、信玄の強気な発言・・・すでに、この時の信玄には、天下を狙う心の準備ができていたのでしょうか?
この後、北条との関係を改善させた信玄は、翌・元亀三年、満を持して上洛の途(10月3日参照>>)につく?(異説あり)・・・となるのですが・・・
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