幕末遣欧使節・池田団長が日本人で初めてした事は?
元治元年(1864年)3月20日、池田筑後守長発を団長とする第二次遣欧使節団がフランス外相と会見しました。
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先日、書かせていただきましたように、あちらこちらで珍道中を繰り広げながらも、スフィンクスの前で楽しく記念撮影なんぞして、旅を続けていた池田筑後守長発(いけだちくごのかみながおき)団長以下34名の第二次遣欧使節団(2月23日参照>>)。
その後、いよいよパリに到着し、元治元年(1864年)3月20日、フランス外相と面談しました。
さすがに、この遣欧使節団の一番の目的であった横浜港の閉鎖については、受け入れてはもらえなかったものの、その一年前に起こった攘夷派浪士による「フランス軍士官殺害事件」については、被害者の遺族に扶助金を支払い、幕府に成り代わり正式に謝罪するという大役を立派に果たしました。
27歳の若き団長・池田長発さん・・・とりあえずはホッと胸をなでおろしたことでしょう。
そして、血気盛んなお年頃にヨーロッパの実態を目の当たりにした彼は、むしろ開国の重要性に気づく事になります。
先の、横浜港閉鎖の話し合いは、失敗に終ったと言うよりは、むしろ、彼が途中で打ち切ったと言ったほうが良いでしょう。
「日本は開国すべきだ」
彼の考えは、日本を出る時とは180度変わったのです。
そんな彼が、いかにフランスに好意を持ったかが垣間見えるエピソードがあります。
実は、このフランス旅行の中で、日本人で初めて名刺を使った人が彼なのだとか・・・。
それまで、日本人が使っていた名刺というのは、中国から伝わった物で、竹や木を削った物に名前などを書いた木札のような物でした。
それを、現在の私たちが思い描くような、いわゆる名刺と呼ばれるシロモノを作ったのは、この長発さんが第一号なのだとか・・・。
フランスの現地の印刷屋に注文して作らせたのですが、そのデザインは、池田家の揚羽蝶の紋の下に、自分の姓名を書いた物・・・紙製で銅版印刷だったと言います。
もちろん、当時は、外国人との公式な場で使用する物で、一般の人が社交辞令で使用するようになるのは、明治も30年代に入ってからです。
・・・て事は、長発さん、今日のフランス外相や、ナポレオン3世に謁見した時にも、サッと揚羽蝶の名刺を差し出したりなんかしたんでしょうかねぇ・・・かっこいいなぁ(*゚ー゚*)。
逆に、現在の日本ではビジネスの場で名刺を乱発するようになりましたが、外国では今でも正式な場所でしか名刺を出さないんだそうです。
そんなフランス文化にどっぷりハマッた長発さん・・・たくさんの本をお土産に帰国した彼は、すっかり開国派になっていて、その事を幕府に申し立てますが、逆に、石高を減らされるという処罰を受けてしまいます。
慶応三年(1867年)には、許されて、軍艦奉行に任ぜられますが、結局、彼は故郷に帰って、後輩の育成に力を注ごうと学問所の建設を計画します。
自ら「心学館」と名付け、たいへんな思い入れようだったそうですが、残念ながら志半ばの43歳で病に倒れ、その夢が叶う事はありませんでした。
ところで、以前の使節団の記事をupした時に、相互リンクしていただいてる【徳川将軍家と大奥のブログ】の清正さんに、池田長発さんが、なかなかのイケメンである事を教えていただいて、「これは一つ、そのご尊顔を拝見しなければ・・・」とネットで探したところ、【東京大学附属図書館のHP】で見る事ができました。
追記:現在はwikiで見られます↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%99%BA
なるほど・・・
なかなかの男前・・・と、いうか、今風のイケメンですね。
もこみちタイプ・・・(*゚ー゚*)。
幕末の頃の写真って、武士らしく見せようと、かしこまって踏ん張ってる感じの人が多い中、ポーズと雰囲気まで今風です。
これなら、日本初の名刺の話も、うなづける気がします。
28歳の頃の写真のようなので、まさに、この遣欧使節団の頃ですね。
知性と教養を持ち、大いなる希望を抱いた人が、年若くして・・・まして、志半ばで亡くなってしまうというのは、どうしても心を傾けてしまいますね。
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コメント
はじめまして!
池田筑後守と他使節団員二名の名刺を
持っているものです。
明日から始まるイベントで
展示いたします。
私たちは池田さんたちが立ち寄られたパリの印刷屋さんの印刷サンプルなどをコレクションしている中で、
たまたまこの3名の名刺印刷サンプルに出会いました。
色々資料を探していたのですが
なかなかこの名刺に繋がるような手がかりがないなか、こちらのサイトにたどり着きました!ビックリです!
第二次遣欧使節団の日記のようなものがどこかで読めるのでしょうか?
投稿: BACCO | 2013年3月16日 (土) 16時12分
BACCOさん、こんばんは~
第二次遣欧使節団に関しては、理髪師として同行した青木梅蔵という人の日記があるそうです。
ただ、その方の日記を紹介する書籍は多くあるんですが、残念ながら私も孫引きで、日記そのものは見た事がありません。
そのものは専門家の方でないと拝見できないのかも…
『拙者は喰えん!』という書籍の著者である熊田忠雄氏が「青木梅蔵の日記を読んで、この本を書こうと思った」という事だそうですので、そのあたりから探されてみてはいかがしょうか?
あと、ナポレオン三世に謁見した話は『幕末外交物語』で見ました。
投稿: 茶々 | 2013年3月16日 (土) 19時24分
管理人さん、BACCOさん、はじめまして。
第二次遣欧使節団に随行した人間の末裔です。
副団長の田辺太一の親戚で、当時17歳だった三宅秀という人が私の先祖になります。
田辺太一は『幕末外交談』という書物を著しました。現在も図書館や古書店にありますので、比較的簡単に読むことができます。ご参考になりますでしょうか。
投稿: 平ちゃん | 2013年3月17日 (日) 18時58分
平ちゃんさん、こんばんは~
やはり、同行された方々は、日記を残していらっしゃるのですね。
>現在も図書館や古書店にあります…
簡単に読めるとは知りませんでした。
情報、ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2013年3月18日 (月) 01時38分
はじめまして。
スフィンクスを前にした武士の写真について検索していてたどり着きました。
名刺ですが、国会図書館のデジタルライブラリーにそれらしいものがありました。
あと池田筑後守の写真ですがそこには全身が写っているので東大のはトリミングされちゃっているようですね
(構図的にはそのほうがインパクトがありますが)
http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/14/1.html
投稿: Zetton | 2016年3月24日 (木) 07時02分
Zettonさん、こんにちは~
おぉ、名刺の写真も残っていたのですね~
国会図書館のデジタルライブラリーは、よく拝見させていただいてるんですが、探し切れてなかったです。
全身写真は傘をかぶっているので、東大のとは別バージョンのようにも見えますが、どっちも男前ですww
ありがとうございました~
投稿: 茶々 | 2016年3月24日 (木) 18時24分
これは池田でははく、小出大和守の一行ではないでしょうか。
投稿: | 2016年4月 9日 (土) 17時14分
>これは池田でははく、小出大和守の一行ではないでしょうか。
小出大和守の事というのは、
遣欧使節の事ですか?
名刺を造った話ですか?
学問所の事ですか?
それとも全部ですか?
いずれにしても、小出秀実さんが外国奉行になって遺露使節団の代表としてロシアに派遣されたのは慶応二年(1866年)なので、池田長発の遣欧使節の方が先なのではないでしょうか?
名刺も、先のZettonさんが書いて下さったように、国立国会図書館のコレクションの中の幕末遣外使節物語>>という文献に、この元治元年(1864年)3月20日の日にフランス外相と会見した話が、名刺の写真入りで載ってますが、違うのでしょうか?
学問所については、その場所が学問所になる予定であった(病死で実現できなかった)として、現在の岡山県井原市の井原小学校に池田さんの銅像が建っていますが、これも違うという事なのでしょうか?
お教えいただければ幸いです。
投稿: 茶々 | 2016年4月11日 (月) 02時35分
管理人様、BACCO様、初めまして。
パリ在住の者で、池田筑後守および使節団一行が名刺を刷ったという印刷屋に是非とも足を運んでみたいのですが、印刷屋の名前をご存知でしょうか。
宜しくお願い致します。
投稿: Lys | 2016年5月 6日 (金) 23時53分
Lysさん、こんばんは~
申し訳ありません。
お店の名前は知りません。
「巴里ではグランドホテルに宿した」
とあるので、その近くなのかも知れませんが…
ごめんなさいです。
投稿: 茶々 | 2016年5月 7日 (土) 02時32分
管理人様、こんにちは。
お返事ありがとうございます。
私もおそらく一行が宿泊したホテルの周辺だと考えています。使節の数人が写真を撮った写真家の建物もホテルと同じ通りですぐ近くなのと、当時は印刷所は多かったはずなので、街の中心部で用が済ませられただろうと思うからです。
ネットで古くからある市内の印刷所を探していますが、友人達にも聞いてみようと思います。
BACCO様が名刺のサンプルをお持ちとのことで、羨ましい限りです^^
投稿: Lys | 2016年5月 7日 (土) 18時50分
Lysさん、こんばんは~
お役にたてなくて申し訳ないです。
見つかると良いですね。
投稿: 茶々 | 2016年5月 8日 (日) 20時08分
こんばんは!久しぶりにこちらへ寄らせていただきましら、その後いろんな方からのコメントが!!気づかず申し訳ないです。。。
Lysさん、管理人さま、もう随分たってるのでこちらをみていただけるかわかりませんが、印刷屋さんはStern Graveurというお店です。残念ながら2009年にその当時のお店は閉めてしまいました。ただ、また新たに別の場所でこのお店は今も続いています。
https://sterngraveur.com/
投稿: BACCO | 2016年12月27日 (火) 04時49分
追記
その当時、その印刷屋さんがあった場所はPassage des Panoramasというパサージュです。いまもその場所は残っていてレストランになっています。
www.caffestern.fr/
ぜひ、いってみてください!
投稿: BACCO | 2016年12月27日 (火) 04時58分
BACCOさん、こんにちは~
Lysさんに届くと良いですね。
コメントありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2016年12月27日 (火) 12時04分