岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断
元亀四年(1573年)3月2日、武田信玄の重臣・秋山信友に攻められながらも、籠城を続けていた岩村城が開城されました。
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岩村城は、現在の岐阜県恵那市岩村町にあった山城です。
戦国時代、ここは美濃(岐阜県南部)の国の南東部にあたり、東は信濃(長野県)、南は三河(愛知県東部)に接する場所で、交通の要所であり、軍事的にも、とても需要な位置にありました。
その事は、あの信長の父・織田信秀(おだのぶひで=信長の父)もいち早く気づいていたようで、鎌倉時代からこの地を守る遠山氏の末裔・岩村城主の遠山景任(とおやまかげとう)に、妹のおつやの方を正室として嫁がせ、その傘下に取り込んでいました。
*注:おつやの方は、通常、岩村殿と呼ばれていて、その名前にはおゆうの方やお直の方など諸説ありますが、今日のところはおつやの方と呼ばせていただきます。
さらに、景任とおつやの方の間には、子供がいなかった事から、信秀の息子・織田信長も、わが子・御坊丸(ごぼうまる・信長の四男か五男で後の勝長または信房)を、夫婦の養子として岩村城に送り込んでいました。
しかし、当然の事ながら、この地を重要視するのは織田ばかりではありません。
甲斐(山梨県)の武田信玄も、この地に目を着け、何とか岩村城を手に入れようと永禄年間から、たびたび攻撃をしかけていました。
・・・が、しかし、岩村城は、日本三大山城に数えられるほどの天然の要害・・・その上、景任もなかなかの智将で、その巧みな防御に悩まされ、城を落とす事はできないでいました。
そんなこんなで、何とか守り抜いていた岩村城でしたが、元亀三年(1572年)の8月14日、突然、その景任が病死してしまうのです。
この死に関しては、再三再四、武田に攻められていた事で、討死という話もありますが、今のところ病死の説が強いようです。
とにもかくにも、城主の死は一大事です。
なんせ、この時、後継者であるはずの御坊丸はまだ6歳ですから・・・。
事実上、正室のおつやの方が、女の身で城主となり、城の防御に努めますが、その異変はすぐに武田方の知るところとなります。
この時、主君の命を受けて、岩村城攻めにあたっていたのは、信玄の重臣・秋山信友(あきやまのぶとも=晴近・虎繁)。
信友は、即座に、今までの力攻めを中止し、秘密裏に密書を送り、遠山方の重臣たちを順々に寝返らせるジワジワ作戦に切り替えます。
3ヶ月以上にわたる籠城・・・そして、徐々に寝返りはじめる家臣たち・・・敗戦の色濃くなって、不安な空気に包まれる岩村城内。
そのころあいを見計らって、信友は、開城の話を持ちかけはじめます。
その条件は、なんと!未亡人となったおつやの方を自分の妻にする事・・・。
父・信秀の妹という事は、信長にとって叔母にあたるわけですが、このおつやさん・・・年齢的には、まだまだ若く、しかも、かなりの美人だったというウワサ。
『巌邑府誌』によれば・・・信友はおつやの方に、
「若守孤城将為誰耶、人生如白馰過隙青年若守、通婚媾之好」
↓
「これ以上、誰のために城を守るんや?
人の人生なんか一瞬の事や…君はまだ若い。
俺と結婚してくれへんか?」
と言ったのだとか・・・
(*v.v)。くぅ~こんなん言われたいやおまへんかぁ❤戦場やと萌えるゼ!
いつの時代も美人は得~と、言いたいところですが、このなりゆきは得なのか?損なのか?
彼女の心情がわからないだけにビミョーですが、信友がめっちゃイケメンなら得かも(←顔で決めんな!)
もともと、遠山景任さんに嫁いだのも政略結婚なわけですし、この時代の武家の姫の結婚に、本人の心情がからむ事は、はなから無いわけで、現代の常識で物を言う事はできないですから・・・。
彼女は彼女なりに悩んだに違いありませんが、それこそ夫も亡くなり、家臣たちも寝返り、籠城の中、誰にも相談する事もできず、自らの意思で、その答えを導き出したのでしょう。
そして、元亀四年(1573年)3月2日、彼女は、信友の条件を呑んで岩村城を開城したのです(第一次攻防戦)。
彼女が信友と結婚するという事は、つまりは、信友が城主という事になり、岩村城は武田の傘下となるのです。
信長の息子・御坊丸は、表向きは養子、実質的には人質となって甲斐へ送られます。
当然ですが、この一件に関して信長は激怒です。
特に、息子を人質に出された事は、許し難く、早速、この年の12月には、長男の信忠を大将に、岩村城を攻めさせますが、最初に書いた通り、天然の要害である城は、そう簡単には落とせません(第二次攻防戦)。
そんな中、翌年には信玄が亡くなり、3年後の天正三年(1575年)には、あの長篠の合戦(5月21日参照>>)で、武田は織田・徳川の連合軍に手痛い敗北を受けてしまい、この岩村城は孤立状態となってしまったのです。
それを機に、再び岩村城を奪回しようと、攻め寄せる織田軍(第三次攻防戦)。
しかも、今度は、力攻めばかりではなく、策略も張り巡らせます。
実際には、武田の援軍が近くに来ているにも関わらず、その事を岩村城内に悟られないよう開城を持ちかける信長・・・。
「縁者の城が炎に包まれる姿を見たくない」なんて、心の扉を開かせるようなセリフもあり、信友らは、助命の約束を信じて開城に踏み切りました。
しかし、信長が助命を許したのはその他の人々・・・城主・信友と主要メンバー5名は、長良川の河川敷で、逆さ磔(はりつけ)の刑となり、命を落とす事になります。
その5名の中には、おつやの方も含まれていたとか・・・。
同盟の証しとしての意味合いが大きく、本人の意思とは無関係に家同士が決める戦国女性の結婚・・・そんな中、今回の彼女の結婚は、おそらく彼女自身が決断した結婚だった違いありません。
しかし、おつやの方の決断は、信長にとって裏切り行為以外の何物でも無かったようです。
ならば、どうすれば良かったのでしょう?
城に残った者たちとともに、自害すれば良かったのでしょうか?
それとも、死ぬまで籠城を続ければ良かったのでしょうか?
そうすれば、信長は喜んだのでしょうか?
いずれにしても、戦国時代の女性の生き方を考えさせられるお話です。
今日のイラストは、
おつやの方の、はかないような、悲しいような・・・
彼女のイメージと、少し早いですが・・・来るべき春に思いを寄せて『流水に散る桜』を描いてみました~
*この時に武田の人質となった御坊丸が信長のもとに戻るのは天正九年(1581年)頃とされています(4月4日参照>>)
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コメント
『非常の城ー戦国女城主秘話』
おつやの方の話の本を少し前、読みました。
政略結婚で4度嫁ぎ、最後の秋山信友との結婚時おつやの方はすでに40歳を超えていたとか。
美形はいいな???
美形で知られている織田一族の中でもお市の方によく似ていたそうです。
岩村城へ嫁いだときに、この城に根付き、領民にも愛され、守りたいと願った、ただそれだけだったおつや方なのに・・・・
戦国の女性のあわれさを感じます。
最後は逆さ磔は哀れです。
信長にあらん限りの呪の言葉を発して果てたおつやの方の言葉通り、数年後、本能寺で、信長も、成人した御坊丸も、岩村城
をまかされた森蘭丸も死んでいきました。
投稿: さと | 2008年3月 6日 (木) 23時24分
>さと様、こんばんは~
やはり、戦国の女性が、幸せに天寿を真っ当するのは、難しいのでしょうね。
もちろん、戦国の場合は、男性もそうかも知れませんが・・・
投稿: 茶々 | 2008年3月 7日 (金) 00時27分
こんばんは、カムバッカーです。
私の知っている人で秋山信友の一族の子孫の方がいるんです。
そこで伝わっている話によると条件に対して「嫌じゃ」と言っていた、おつやの方がいざ秋山信友に会ってみたら
「わかりました」
と、あっさり奥さんになってくれたのだそうです。
投稿: カムバッカー | 2010年12月12日 (日) 07時23分
カムバッカーさん、こんにちは~
会ってみたらあっさりと…
やっぱ、秋山信友さんが、かなりのイケメンだったって事なのかも…ですね
投稿: 茶々 | 2010年12月12日 (日) 13時43分
こんばんは、茶々さん。カムバッカーです。
肖像画を見て、元サッカー日本代表の前園真聖さんに似ていると言っていた人がいました。
後は、前園さんが好みかどうかでしょうか(笑)。
余談ですが、秋山信友の話をしてくれた方は、
「俺の先祖を逆さ磔だからな」
と「信長の野望」というゲームで必ず「武田」を選んで「織田」を倒していました。
投稿: カムバッカー | 2010年12月12日 (日) 22時57分
カムバッカーさん、こんばんは~
ゲームでの仇討…スカッとしそうです(*゚▽゚)ノ
投稿: 茶々 | 2010年12月13日 (月) 00時44分
こんばんは!
また遊びにきました 笑
僕自身は自分の記事で「織田家が攻めてきたとき、おつやと秋山信友の結婚が原因で遠山家の武将が離反した」ということを書きましたが、おつや一個人の心情を考えると悩まされますね。
自分がおつやだったら(僕は男ですが笑)果たして開城せずに頑張れたのかどうか、つらい籠城戦のときにイケメンが求婚してきたらなびいてしまわないかどうか。
戦国時代ではまれな「個人」を考えさせられる戦いですね。
投稿: 鷲谷 壮介 | 2020年6月25日 (木) 23時41分
鷲谷 壮介さん、こんばんは~
この時期は、信長は上洛したとは言え、まだ敵だらけでしたし、信玄の健在でしたからおつやの方も思案のしどころだったでしょうね。。。
自分が…というよりは、城と城にいる皆の生き残る方法を模索していたのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2020年6月26日 (金) 03時56分