« 日本の火葬の習慣はいつから? | トップページ | あをによし奈良の都のお水取り »

2008年3月11日 (火)

武田勝頼、天目山に散る

 

天正十年(1582年)3月11日、織田・徳川の両軍に追い詰められた武田勝頼が、妻子とともに甲斐・天目山にて自害しました。

・・・・・・・・・・・・

天正三年(1575年)5月に起こった『長篠の設楽原の合戦』(5月21日参照>>)

一般的には、織田信長徳川家康の連合軍が、勝頼率いる武田軍に圧勝したかのように描かれる有名な合戦ですが、もし、この合戦が、伝説のような鉄砲の三段撃ちが行われていて、織田・徳川連合軍の楽勝であったなら、武田軍も早々に撤退を開始していたに違いありませんが、合戦が8時間にも及んだという事は、伝え聞くよりは、はるかに一進一退の激戦であったであろうと思われますが・・・。

とは言え、この戦いで馬場信春山県昌景内藤昌豊といった、信玄の代からの重臣たちがことごとく散ったのも事実・・・その点では、やはり、武田の大敗と言える合戦でした。

とにかく、偉大な父・信玄を超えようと奮戦する勝頼ですが、果敢に攻めれば無謀と言われ、用心して退けば臆病と言われる・・・結局、亡き信玄を神のように崇める家臣たちと、運命の巡り合わせで後継者となった勝頼との大きな溝は、長篠の敗戦経て、ますます大きくなってしまうのです。

その溝を埋めようと、長篠で戦死した武将たちの家族や親戚に家督を継承させ、武田軍団の再編成に力を注ぐ勝頼ですが、あの無敵と言われた頃の軍団のレベルには、どうしても近づく事はできません。

そして、一方の信長と家康の勢力が、ますます強大になっていく中、勝頼はそれに対抗すべく、越後上杉謙信相模北条氏政と同盟を結ぶと同時に、守備固めとして新たな居城・新府(しんぷ)(山梨県・韮崎市)の構築を開始します。

しかし、配下の国人や領民にとって、それまで甲斐の国には無かった本格的な城郭を構築するという事は、その分、大きな負担を強いられる事となり、結局は、家臣や領民の指示を失い、反発を生む結果となってしまうのです。

そんなこんなの天正九年(1581年)、信玄亡き後の勝頼が必死の思いで奪取した(5月12日参照>>)遠江(とうとうみ・静岡県西部)高天神城家康に落されてしまい(3月22日参照>>)、ますます家臣の離反が相次ぎます。

その頃には、すでに北条と結んだ同盟も崩れてしまっていて、先代の信玄があの今川から奪った駿河(静岡県東部)の地は、家康と氏政の前に風前のともし火となってしまいます。

そして、いよいよ天正十年(1582年)1月・・・信濃(長野県)南部の武将・木曾義昌が、信長に寝返るという事件が発生します。

義昌の正室が勝頼の妹・真理姫(真龍院)であった事から、この寝返りでの動揺は武田氏を揺るがします。

怒った真理姫が、木曽の山中に隠れてしまう事でも、その影響度がわかろうという物・・・。

もちろん、勝頼としても、義兄弟の寝返りを見逃すわけがなく、すぐに兵を差し向けますが、結局、討伐に失敗・・・さらに、これは絶好のチャンス!とばかりに、織田・徳川・北条が動きます(2月9日参照>>)

まずは、信長の長男・織田信忠信濃南部から、家康が駿河から、そして氏政は関東から、武田配下の信濃高遠城に狙いを定めます。

3月2日・・・この高遠城攻めで先陣を切ったのは、あの森蘭丸の兄・森長可(ながよし)・・・高遠城の屋根に登り、彼が屋根を剥がして鉄砲を撃ち込むと同時に、重臣・各務元正(かがみもとまさ)が、降り注ぐ矢をかいくぐって城内へ殴りこみ!

長可らの奇襲作戦を進行させると同時に、開城を促する使者を高遠城主・仁科盛信(勝頼の弟)に送る信忠・・・しかし、盛信は、この開城要請を突っぱねて、壮絶な自害を遂げます(3月2日参照>>)

この高遠城は、次々と敵方に寝返る武田の武将の中で、唯一、その信念を貫き通した城でもありました。

しかし、一方では、この前日に、武田氏の一族である穴山梅雪(信君)が、家康を通じて織田方に寝返るという出来事も起こっています(3月1日参照>>)

世は戦国・・・主君と運命をともにするも武士、先を読んで有利に進むも武士
どちらが正しいとは言えないのが戦国です。

やがて、梅雪を案内人に、甲斐の領内へと進攻する家康・・・。

結局、勝頼は継室(2番目の正室)桂林院や息子・信勝らとともに、新府城に火を放ち、重臣・小山田信茂の居城・岩殿山城(山梨県大月市)へと逃走・・・(くわしくは2021年3月3日のページで>>)

織田・徳川を防御する目的で構築された新府城は、その役目を一度も果たす事なく、炎に包まれる事になってしまいました。

この時点での勝頼ご一行は、約500名・・・しかし、この中には、奥さん子供はもちろん、侍女までもが頭数に入っていますから、もはや、ワラをもすがる思いで、何とか態勢を立て直そうとたどりついた岩殿山城で、彼らは思いも寄らぬ仕打ちを受ける事になります。

城に近い笹子峠を行く彼らに、何と矢玉が射掛けられたのです。
頼みの信茂も、すでに織田方に寝返っていました。

もはや、行く当てを失い、武田氏の先祖が自害したと伝えられる天目山を目指す勝頼たち・・・。

その道すがら、一人減り、二人減り・・・とうとう、その人数が50人ほどになってしまった頃、天目山を目前にした田野の地で勝頼一行を射程距離に納めたのは、信長配下の滝川一益でした。

「主君を討ち取られてはならぬ」とばかりに、追いすがる敵に立ち向かうは、信玄の頃からの重臣・土屋昌恒・・・この時、急な崖を背に戦う昌恒は、片手でツタを握りしめ、片手で奮戦した事から、「片手千人斬り」という伝説も生まれました。

そして、もう一人、主君の不利を聞きつけて急遽天目山に参上した小宮山友晴・・・実は、友晴は、長篠の合戦の後、そのズバズバと包み隠さず物を言う性格が災いして、勝頼から咎めを受け、その主従関係を切られていたにも関わらずの参戦です。

自身の身を盾にして、主君の最後の花道を造り出そうとする昌恒・・・。

見切りをつけて去って行った家臣が数多くいる中、勘当をものともせず戻って来た友晴・・・。

勝頼の心情はいかばかりであったでしょうか。

天正十年(1582年)3月11日・・・そんな二人の、壮絶な最期と前後して、武田勝頼は桂林院・信勝らとともに自刃します

この勝頼の継室・桂林院は北条氏康の娘・・・そのまま実家に戻れば、その命を永らえる事ができた物を、彼女はここで、夫と運命をともにし、わずか19年の生涯を閉じるのです(2010年3月11日参照>>)

ここに、戦国屈指の大名・武田氏は滅亡しました。

この後の出来事としては、信長による論功行賞をとともに、新領地に関する訓令を発布(3月24日参照>>)・・・武田の旧臣が脱げ込んだ恵林寺への攻撃(4月3日参照>>)と続きます。

Kozakuraasiodosicc_2 今日のイラストは、
武田家代々の家督継承の証しであった源義光伝来の『小桜葦威鎧(こざくらあしおどしよろい)の紋様を、春らしい色合いで描いてみました。

楯が無くてもやりや刀を通さないという意味で、別名『盾無鎧(たてなしのよろい)とも呼ばれるこの桜模様の美しい鎧・・・敵に奪われる事を案じた勝頼は、天目山に向かう途中、この鎧を外して近くのお寺に隠したという事です。

現在、その小桜葦威鎧は、甲府市の菅田天神社の国宝として大切に保存されています。

補足:『常山紀談』をベースにした2012年3月11日【天目山~武田勝頼の最期】もどうぞ>>
 .
 

いつも応援ありがとうございますo(_ _)oペコッ!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 日本の火葬の習慣はいつから? | トップページ | あをによし奈良の都のお水取り »

戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

武田勝頼が、天目山の戦いにおいて悲惨な最期を遂げてしまったのは、たびたびコメントをしましたが、やはり、父親の武田信玄の同盟相手である今川義元が、桶狭間の戦いで戦死したことがきっかけとなった上で、異母兄の武田義信が幽閉&自害したからでしょう。本来、勝頼は信玄の命令で、諏訪家の家督を継いでいたわけですから、義元が戦死することがなければ、諏訪家の当主として平穏に生きられたのではないでしょうか。それこそ、勝頼の人生は、一寸先は闇と言えるかもしれません。

投稿: トト | 2017年2月28日 (火) 05時47分

トトさん、こんにちは~

勝った信長も、この3ヶ月後に亡くなるわけですから、世の中、何がどうなるかわかりませんね。

投稿: 茶々 | 2017年2月28日 (火) 10時21分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 武田勝頼、天目山に散る:

» 高天神城 [日本の城ブログ]
城名:高天神城、鶴舞城 築城年:15世紀後半〜16世紀初頭? 築城者:不明 城区分:山城 所在地:〒〒437-1434 静岡県掛川市下土方 電話:0537-21-1149(掛川市役所商工観光課) URL:http://lgportal.city.kakegawa.shizuoka.jp/kanko /south/takatenjin/takatenjin.jsp コメント:『高天神を制するものは遠州を制する』と言われ、徳川、武田の間で攻防が繰り返された難航... [続きを読む]

受信: 2008年3月12日 (水) 01時05分

« 日本の火葬の習慣はいつから? | トップページ | あをによし奈良の都のお水取り »