秀吉の紀州征伐と根来寺の数奇な運命
天正十三年(1585年)3月21日、羽柴(豊臣)秀吉が、紀伊に進撃!・・・『紀州征伐』を開始しました。
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織田信長の死後、孫の三法師を後継ぎに祭り上げ、その後見人となって実権を握る羽柴(豊臣)秀吉は、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で織田家重臣・柴田勝家を破った後、信長の三男・神戸信孝を自刃に追いやり(5月2日参照>>)、次々とライバルを消去していきます。
その勢いに脅威を感じた信長の次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)が、徳川家康を頼った事によって、天正十二年(1584年)3月に秀吉VS家康+信雄の小牧・長久手の戦いが勃発した事は、つい先日、書かせていただきました(3月13日参照>>)。
その小牧・長久手の戦いの時に、家康や信雄とともに、秀吉を悩ませたのが、当時、未だ手付かずで自治区のような状態になっていた紀伊(和歌山県)でした。
合戦の時には、根来寺の雑兵を中心とする根来衆と、紀伊に根を置く雑賀(さいが・さいか)衆や太田党といった者たちが、家康の呼びかけに答えて、大坂でゲリラ的なテロ行為を行ったり、羽柴方の岸和田城を襲ったり(3月22日参照>>)という事を繰り返していたのです。
ところが、その後、合戦の決着がついていないにも関わらず、秀吉の誘いに乗ってしまった信雄が単独で講和をしてしまい、小牧長久手の戦いは、勝敗がウヤムヤのまま一連の合戦の幕は下ろされてしまいます(11月11日参照>>)。
翌年になって、安芸(広島県西部)の毛利輝元や小早川隆景の参戦を取り付けた秀吉は、その報復とばかりに、紀伊へ手を伸ばすのです。
天正十三年(1585年)3月21日、輝元と隆景の水軍が紀州沖で構える中、秀吉は6万(10万とも)の大軍を率いて進撃を開始・・・その日のうちに泉州千石堀城を落します。(くわしくは3月24日参照>>)
この知らせを聞いた根来衆は、自ら、和泉畠中城に火を放ち退却・・・羽柴軍は、その勢いに乗って、次々を砦を落して進軍していきます。
その間に、もともと内紛を抱えていた雑賀衆を寝返らせ、23日には、根来衆の本拠地・根来寺を焼き討ちするのです。
坊舎2700、僧侶6千人・・・当時、全盛期であった根来寺は、一山ことごとく焼き払われ、学頭の玄宥(げんゆう)僧正は、命からがら高野山へと身を隠します。
雑賀党が寝返り、根来が焼け、残ったのは太田党のみ・・・。
太田党の武士千人と心を寄せる領民・・・合わせて3千が籠る紀伊太田城を、いよいよ羽柴の大軍が取り囲みます。
以前から度々書かせていただいているように、城攻めは秀吉の得意分野・・・ここで慌てて力攻めに走るような事はいたしません。
秀吉にとって幸いな事に、太田城は紀ノ川べりに構築された平城。
そうです。
あの備中高松城攻め(4月27日参照>>)で行った『水攻め』を決行するのです。
秀吉から、その命を受けた明石則実(のりざね)は、3月25日から堤防の構築を開始し、高さ3m~5m、延長6kmにも及ぶ堤防を、わずか6日間で完成させ、4月1日には川をせき止めて水が入り始めます。
おりからの雨も相まって、またたく間に太田城は湖中の孤立状態となってしまいました。
そこへ、船で押し寄せる羽柴軍と、ゲリラ的に船底に穴を開けて転覆させる太田党・・・。
しかし、孤立した城の籠城という物には、やはり限りがあります。
長引けば長引くだけ、城内の士気も低下し、餓死者の数も日を追うごとにどんどん増えていくのは必至。
やがて4月22日、太田城主・太田左近は降伏・・・左近ら主要メンバー50人余りが自刃し、太田城は開城され、秀吉の紀州征伐は終了しました(3月28日参照>>)。
ところで、秀吉によって焼き尽くされてしまった根来寺・・・。
秀吉の後に天下を取った家康は、大坂夏の陣(5月8日参照>>)で大坂城を落城させたすぐ後、生前の秀吉が幼くして亡くなった愛児・鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺を、そっくりそのまま、根来寺の復興のために寄進します。
祥雲禅寺は、その名を五百仏頂山(いほぶつちょうざん)根来寺智積院と改められる事になります。
そう、現在、京都の七条通りに東の端に位置する智積院(ちしゃくいん)です。
幾度かの火災に遭い、金堂などを失ってしまいますが、その美しい庭園には、一部、祥雲禅寺時代に造られた部分も残っていて、華やかな桃山文化の面影を今に残しています(2月24日参照>>)。
↑智積院の庭園(祥雲禅寺時代のあたり)
秀吉から家康へのバトンタッチで、歴史の波に消えたお寺が、再び歴史の波で浮上する・・・その数奇な運命は、まさに、戦国の世を痛感させられます。
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