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2008年3月 9日 (日)

金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉

 

天正八年(1580年)閏3月9日、織田信長・配下の柴田勝家佐久間盛政が、加賀一向一揆の拠点・金沢御坊に突入!・・・ここに、約100年間続いた加賀一向一揆が終わりを告げました

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Odanobunaga400a 天正元年(1580年)に、越前朝倉(8月20日参照>>)近江浅井(8月27日参照>>)を倒してノリノリの織田信長・・・。

このまま、北陸を東へと進攻したいところですが、そこに大きく立ちはだかるのは、あの上杉謙信です。

ちょうどこの頃、信長に担いでもらって第15代・室町幕府将軍に君臨できると喜んだものの、大いに当てが外れた足利義昭(7月18日参照>>)が、「打倒!信長」の密書を各地の諸将に乱発していた事もあって、それに答える形で、天正五年(1577年)に謙信は、兵を西に向け、本願寺を味方につけながら、能登・七尾城(石川県)を手中に収め、上洛を決意します(9月13日参照>>)

万事休す・・・信長の勢いもここまでか!・・・と、思いきや、わずか半年後の天正六年(1578年)3月13日に、謙信は急死してしまうのです。

実子がおらず、後継者も決定していなかった上杉家は、すぐさま、上杉景勝(謙信の甥で謙信の養子)上杉景虎(北条氏政の弟で謙信の養子)・・・この二人の養子の間での後継者争い・「御館の乱」が勃発します(3月17日>>)

約二年間に渡って繰り広げられたこの後継者争い・・・当然の事ながら、上杉傘下の北陸の諸将たちは、ぶつかり合いがある度に出陣要請を受け、自身の城を離れては越後に赴く事が多くなります。

当の景勝と景虎ら自身も、己の事で精一杯・・・外敵に気を配る余裕もありません。

こんな絶好のチャンスを信長が指を加えて見ているワケがありません。

御館の乱の勃発後、わずか1ヶ月後の4月には、もともと越中(富山)の出身であった神保長住佐々長秋の支援を得て、飛騨の山中を通って越中に侵入

さらに8月には、謙信によって七尾城を追われていた長続連(ちょうつぐつら)の三男・長連龍(ちょうつらたつ)柴田勝家の支援を受けて進撃を開始します。

そして、いよいよ10月には、信長直属の忠臣・斉藤新五(斉藤龍興の弟とされ、後に本能寺で信長に殉死する)尾張・美濃の軍勢を率いて進攻(9月24日参照>>)・・・次々と、越中の支城を落していくのですが、実は、合戦らしい合戦があったのは、この最初の頃だけ・・・。

明けて天正七年(1579年)3月には、景虎の自刃により、ようやく御館の乱が終焉を見せ始め、謙信の後継者も上杉景勝に落ち着きますが、時すでに遅し・・・ウチワモメしてる間に越中の諸将の上杉離れが相次いだ事も手伝って、ほとんど戦う事なく、越中の大半を手中に収めてしまうという、織田勢にとっては、このうえないラッキーな展開となりました。

やがて、その年の末になって、あの十年に及ぶ石山本願寺との合戦(8月2日参照>>)が、正規町(おうぎまち)天皇妙向尼(みょうこうに・森蘭丸の母)が入る形で、講和に向かい始めた事で、未だ占拠され続けている加賀一向一揆の討伐に本腰を入れようと信長は考えます。

先ほどの越中に展開する軍勢に加え、柴田勝家佐久間盛政ら1万5千を、加賀(石川県南部)へと進攻させる信長・・・・。

ご存知のように加賀は、長享二年(1488年)に守護であった富樫政親(とがしまさちか)が籠る高尾城本願寺門徒が取り囲み、自刃に追い込んで(6月9日参照>>)以来、あの蓮如(2月25日参照>>)の息子たちである蓮悟(れんご)蓮綱(れんこう)蓮誓(れんせい)らを中心とする一向一揆の国となっていたのです。

その本拠地・金沢御坊は、その名を尾山御坊金沢坊舎とも呼ばれているものの、後に金沢城として生まれ変る事でもわかるように、その造りはまるで城と呼ぶにふさわしい物でした。

しかも、その強固な城砦に、松永丹波をはじめ、鈴木出羽守親子や富樫氏鏑木(かぶらぎ)といった面々が詰めているのですから、もはや農民相手の決戦ではありません。

勝家・盛政らは慎重に、周囲の拠点を一つ一つ崩して行き、徐々に金沢御坊を孤立させていきます。

そして、いよいよ天正八年(1580年)閏3月9日、織田勢が金沢御坊を包囲する中、盛政の軍勢が突入を開始し、一気に落城させます。

この日の戦いぶりを評価した信長は、この金沢御坊を盛政に与え、盛政はこれを尾山城と改め、ここを拠点に、この日逃走した一揆の残党を、さらに討伐する事となります(11月17日参照>>)

この後も、翌年の天正九年(1581年)の10月頃までは、一揆の残党がくすぶり続けますが、この金沢御坊の落城をきっかけに、高尾城の攻防戦以来、100年近く続いた本願寺門徒の国は、この世から消滅する事になったのです。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

謙信は死ぬまで独身男ですね、やはり硬派な武将ですね。
信長も浅井と朝倉倒しても余裕はすごいや!
滋賀と福井はとなりですよね。4年前、福井旅行へ行きました。福井といえば、竹人形に、ちりとてちんの箸だね。

昨日、私は昼に、くのいち黒ビキニ描いたり(更新)、夜は、懇親会でちゃんこ鍋食べました。
ちゃんこ鍋は、食べたことありますか。

投稿: sisi | 2008年3月 9日 (日) 21時27分

sisiさん、こんばんは~

謙信の死は、北陸の諸将に多大な影響を与えたようです。

さすがの信長も、謙信と信玄にだけは戦いを避けていたような気がします。

ちゃんこは、未だ食べる機会がありません。
うどんすきはしょっちゅう食べてますが・・・

投稿: 茶々 | 2008年3月 9日 (日) 23時53分

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