三浦按針・漂着す~そしてヤン・ヨーステンの名は…
慶長五年(1600年)3月16日、二年前にオランダを出航した東インド会社の船・5隻が暴風雨に襲われ、そのうちの1隻・リーフデ号が豊後(大分県)に漂着しました。
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慶長五年3月と言えば、あの関ヶ原の合戦の半年前・・・
このニュースを聞きつけて、早速、乗組員たちと会見した徳川家康は、天文学や造船にくわしいイギリス人航海師のウイリアム・アダムスと、海外事情にくわしいオランダ人のヤン・ヨーステンの二人を外国・貿易顧問に任命し、手厚く迎えます。
そのうち、ウイリアム・アダムスは、三浦半島に250石の領地をもらい、日本人妻と結婚し、三浦按針(あんじん・羅針盤を使う人の意味)と名乗り、この後も、江戸と長崎を行き来し、日本が鎖国へと向かう情勢の中、イギリスの平戸商館の設立など、外交での大きな役割を果たす事になるのですが(5月12日参照>>)、もう一人のヤン・ヨーステンのほうは、同じように優遇されながらも、あまり、その名を聞きませんよね。
私の持ってる「日本史人物事典」(受験研究社)にも、アダムスは載ってますが、ヨーステンは載ってません。
日本では、耶楊子(やようす)と名乗り、江戸城の近くに家を与えられ、通訳などしていたそうですが・・・
どうやら、彼は、オランダでもかなりの名家の生まれで、その育ちのせいか、ちょっと高飛車なところがあって扱い難かったとか・・・結局、2代将軍・徳川秀忠とも、側近の老中たちとも、あまりウマくいかなかったようです。
しかし、人間、どこで、どう転ぶか、わからないものです。
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」と言いますが、確かに、人物事典に載っている以上、アダムスさんは「歴史に名を残した」事になります。
そして、彼・・・ヨーステンさんは、別の形で名を残しました。
アダムスさんが住んでいた日本橋に近い一角は、江戸時代を通じて「按針町」と呼ばれていましたが、残念ながら、この町名は昭和七年(1932年)に無くなり、現在は日本橋室町一丁目となってしまいました。
そう、有名な話なので、ご存知のかたも多いでしょうが、ヨーステンさんは、地名として、その名が残っているのです。
ヨーステンさんの邸宅のあったその場所は、当時、彼の名前をとって「耶楊子河岸(やよすがし)」と呼ばれていました。
それが、「八代河岸」→「八重洲河岸」と変化。
江戸の初めの頃は、現在の日比谷あたりが入り江となっていて、船が発着する河岸となっていました。
明治の初め頃の地図には、現在の丸の内の南半分のあたり一帯が「八重洲町」となっているそうです。
当時、その東側にあたる外堀には、呉服橋と鍛冶橋という二つの橋が架かっていて、その橋を渡らないと、堀の外へ出る事はできませんでした。
やがて、明治十七年(1884年)に、その二つの橋のまん中に八重洲橋という橋が架けられ、さらに、明治の末、鉄道が通って、そこに東京駅ができると、東京駅の八重洲橋方面へと出る出口の事を「八重洲口」と呼ぶようになります。
結局、堀は埋められて外堀通りとなり、八重洲橋も姿を消し、東京駅の西側に位置していた、もともとの八重洲町という町名も廃止され、丸の内になってしまいますが、東京駅の八重洲口という呼び方は変わる事なく、逆に駅の東側に八重洲という地名が生まれました。
都市の成長とともに、別の位置に変わってしまった八重洲ですが、この平成の世にも、しっかり、その名を残す事になりました。
ヤン・ヨーステンさん、おめでとうございます。
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コメント
日本に伝わることが外人パワーがありますな。
私は昨日、大阪城で梅と桜見物し、めっちゃきれいやわ!
淀君&ねねの花見散歩を描いたんだ。(更新)
投稿: sisi | 2008年3月17日 (月) 19時53分
sisiさん、こんばんは~
♪梅は咲いたか、桜なまだかいな~♪
もう、春ですね~
ちょうど3月15日は、秀吉最後の花見・醍醐の花見が催された日・・・まもなくの桜の季節には、大阪城天守閣も開館時間が延長されるようなので、楽しみです。
投稿: 茶々 | 2008年3月17日 (月) 21時13分