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2008年3月 7日 (金)

德川慶喜の弟・徳川昭武がパリ留学の間に…

 

慶応三年(1867年)3月7日、徳川幕府・名代としてフランスに派遣された徳川昭武がパリに到着しました

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徳川昭武(とくがわあきたけ)は、第9代水戸藩主・斉昭(なりあき)18番目の子供・・・つまり、徳川幕府の最後の将軍=第15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟という事になります。

嘉永四年(1851年)に、ロンドンで第一回が開催されたあの万国博覧会・・・日本がその世界的イベントに初めて参加したのが、慶応三年(1867年)のパリ万博でした。

ちなみに、EXPO博覧会と訳したのは、当時の外国奉行・栗本鋤雲(じょうん)(8月13日参照>>)だと言われていて、フランスからのお誘いに応じた幕府・薩摩藩も、多くの美術品などを出品しましたが、刀や漆器といった日本文化はヨーロッパの人々にも目新しく刺激的で、大絶賛を浴びたそうです。

おりしも幕府は幕末の動乱の真っ只中でしたが、だからこそヨーロッパ諸国との親善も重要であり、結びつきをより強固にしておかねばならない状況でもありました。

そんなパリに親善大使・幕府名代として派遣されたのが昭武だったのです・・・なんせ、彼は将軍の弟ですから・・・。

Tokugawaakitake800a 時に昭武、15歳・・・親善大使としての大役を終えた後は、先の世を見据え、そのままパリに留学する手はずになっていました。

慶応三年(1867年)正月に横浜を出立した昭武くんご一行が、パリに到着したのは3月7日の事でした。

早速、フランス皇帝・ナポレオン3世と謁見し、幕府の代表として国書を読み上げる昭武くん・・・しかし、彼はまだ15歳の少年です。

緊張のあまり、手は奮え、足はガクガク・・・
冷や汗タラタラで、声を出そうにもどのトーンで第一声を発してよいものやら・・・

しかし、さすがは昭武くん、しばらくの沈黙の後、大きく息を吸って、何とか国書を無事読み終えました。

そんな昭武くんも、招待された歓迎パーティでは、ゆっくりと落ち着いていたようで、ヨーロッパのセレブたちの舞踏会の様子を・・・

「音楽に合わせて、男女入り乱れて踊る事が、こちらでは丁寧な歓迎らしいけど、なんだか、田舎の祭りでの酒盛りのようだった」
と、冷静に観察しています。

厳格なお家柄のお坊ちゃまは、やっぱ厳格な雰囲気で、いつもお酒を召し上がってたんでしょうか?

そして、パリの後にはイギリスなども訪問して親善大使の役を終えた後、再びフランスに戻って授業を受けたり、乗馬の練習をしたりなどの留学生活を経験したお坊ちゃま

しかし、その頃、日本では大変な事が起こっていました。

そう、兄貴の慶喜さんが大政を奉還しちゃってました(10月14日参照>>)

しかも、その後、鳥羽伏見の戦いも勃発!(1月2日参照>>)

結局、彼が帰国した翌年の11月は、すでに会津戦争(9月22日参照>>)も終結した後だったのです。

ギリギリセーフのところで、昭武は、第11代・水戸藩主を継ぎますが、お兄さんと同様、彼は最後の水戸藩主となってしまったのです。

せっかくの留学経験・・・この先、彼は活かす事ができたんでしょうか?

留学経験のある人が少ない時代であるだけに、できれば活かしてて欲しいなぁ・・・。

ちなみに、今回の徳川昭武のパリ行きの随行員として、ともにパリに渡った人物の中には、あの函館戦争で敵味方の区別なく治療に当たった医師=高松凌雲(たかまつりょううん)(5月18日参照>>)や、後に「日本資本主義の父」と称される事になる渋沢栄一(しぶさわえいいち)(11月11日参照>>)もいました。
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コメント

パリの人々に日本の伝統文化をわかってほしい伝わりがありますね。
日本の万国博も開催地が吹田で今やエキスポランドになっちゃったね。私は小学生時代、遠足でエキスポランド行きましたよ。

江戸娘・笠森お仙が大江戸プライベートビーチしてたよ。(私のブログに更新)

投稿: sisi | 2008年3月 7日 (金) 19時08分

あの事故以来、エキスポランドが閉鎖になってしまって、大阪周辺の遊園地はひらパーだけになってしまいました。

もちろん、事故は問題ですが、思い出多き場所が無くなっていくのは、やはり寂しいですね。

投稿: 茶々 | 2008年3月 7日 (金) 21時26分

こんにちは。
本日、千葉県松戸市にある「戸定邸」に行って来ました。昭武さんの別邸です。

明治の建物なのに、モダンな感じです。
与謝野晶子の歌碑があります。

http://www.city.matsudo.chiba.jp/tojo/

投稿: やぶひび | 2012年4月10日 (火) 16時29分

やぶひびさん、こんばんは~

>明治の建物なのに、モダンな感じ…

あの頃は、ハイカラな方が多いですよね~

投稿: 茶々 | 2012年4月10日 (火) 21時30分

徳川昭武という方は、15代将軍の徳川慶喜の異母弟で、慶喜の名代として、渋沢栄一らを伴って、フランスに渡ったこと以外は、印象の薄い人物かもしれません。しかし、私の地元の千葉県松戸市に、戸定(とじょう)邸という邸がありまして、明治17年に建てられました。しかも、国の重要文化財に指定されている上に、皇后美智子様が、行幸の際にご覧になられました。さらに、戸定邸では、昭武の家族や慶喜の家族の集合写真や、徳川宗家の16代当主である、徳川家達が訪問した時の写真が残っています。これらの写真は、私が紹介した戸定邸の隣に、戸定歴史館という博物館がありまして、そこで見ることができます。ただし、展示替えがありますので、見れない場合もあります。話が逸れてしまいましたが、昭武は、幕末・明治の松戸市の歴史においては、欠かすことができない人物だと思ってます。

投稿: トト | 2015年9月 6日 (日) 18時58分

トトさん、こんにちは~

>昭武は、幕末・明治の松戸市の歴史においては、欠かすことができない人物

はい、重要人物だと思います。

投稿: 茶々 | 2015年9月 7日 (月) 18時11分

青天を衝けに登場していますね。パリでの様子を今後取り挙げるようなので楽しみです。
徳川昭武はごく短い期間でしたが最後の水戸藩主でありましたね。一般的解釈だと「最後の水戸藩主」は徳川慶篤と思われています。
慶喜と昭武はくしくも「在任期間が短い最後の~」と言う共通点を持つ兄弟ですね。

投稿: えびすこ | 2021年6月21日 (月) 23時11分

えびすこさん、こんばんは~

万博を巡っての薩摩とのドタバタもやってくれるんでしょうね~楽しみです。

投稿: 茶々 | 2021年6月22日 (火) 04時19分

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