陸軍禁野火薬庫大爆発~未来への記憶・枚方平和の日
昭和十四年(1939年)3月1日、当時、大阪・枚方にあった陸軍禁野火薬庫で、爆発事故が起こり、多くの犠牲者が出ました。
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大阪府枚方市・・・京阪電車の枚方(ひらかた)市駅から京都方面へ向かうと、次ぎの駅は御殿山(ごてんやま)駅になります。
平安の昔、枚方一帯は交野(かたの)ヶ原と呼ばれていて、京の都に近い遊猟地として栄え、多くの貴族たちが、この地で鷹狩りや花見などを楽しみました。
特に、この枚方市駅から御殿山駅にかけてのあたりは、天皇家をはじめとする高貴な身分の人しか狩りをする事が許されず、禁野(きんや)と呼ばれていました。
第55代・文徳天皇の第1皇子だった惟喬(これたか)親王は、時の実力者・藤原良房の娘が生んだ、わずか生後8ヶ月の弟(後の清和天皇)に皇太子の座を奪われた悲運の皇子ですが(12月4日参照>>)、その惟喬親王の別荘・渚の院が、この近くにあり、親王はその寂しさを紛らわすため、あの在原業平(ありわらのなりひら)とともに、よく、この地で狩りをしたと言われています。
今でも周辺には、渚という地名や禁野という地名が残っています。
現在、この枚方市駅から御殿山にかけての高台一帯には、中宮団地という大きな団地が建っていますが、かつては、この団地の一帯が軍の用地でした。
中宮団地のお隣には、小松製作所があるのですが、この小松製作所の前身が『陸軍枚方製造所』です。
枚方製造所は、当時、100万㎡の地に、9つの工場が建ち並び、1万人を超える工員が砲弾の製造に携わっていました。
その枚方製造所の西側の広大な敷地を占めていたのが、『禁野火薬庫』です。
日清戦争の真っ只中の明治二十七年(1894年)に買収を開始した用地に、急ピッチで建設が進められ、火薬庫が完成したのは明治二十九年(1898年)の事でした。
あの伊藤博文がハルピンで暗殺された明治四十二年(1909年)には、ダイナマイトの自然発火による爆発事故を起こし、10名の負傷者と周囲の家屋・約1500戸が半壊する事態となり、火薬庫の危険性を感じた周辺住民からは、再三再四、反対の声が寄せられますが、戦争の足音とともに、むしろ火薬庫は、どんどんと拡張されていったのです。
その拡張に伴い、危険を感じた住民は自ら移転をしたり、あるいは、高台にあった家などは、「火薬庫内部が覗けるのではないか?」と疑われ、軍によって強制的に転居させられた家もあったそうです。
家だけなら、まだしも、先祖代々のお墓まで移転させられたのだとか・・・当時はまだ土葬だったという事なので、いったいどうしたのか?・・・さぞかし、大変だった事でしょうね。
現在、香里団地の建つ香里ヶ丘には、当時、日本有数の火薬製造所・香里製造所があり、そこから運ばれた火薬が、枚方製造所で砲弾に詰められ、禁野の火薬庫に運ばれるシステムになっていたのです。
砲弾の輸送には、旧国鉄の片町線(学研都市線)が使用され、津田駅からと星田駅から、製造所への鉄道の引き込み線が敷かれていました。
工員の輸送には京阪電車が利用され、周辺には10棟もの寮も完備されていたようで、その規模の大きさがわかるという物です。
しかし、規模が大きければ大きいほど、その危険性も高くなるのは当然の事・・・。
そして、とうとう、昭和十四年(1939年)3月1日、当時、枚方周辺で、最も大きな建物であったであろう禁野火薬庫が、未曾有の大事故を起してしまうのです。
原因は砲弾解体中の発火。
第15号倉庫で燃え上がった火は、保管されていた爆薬に次々と引火し、5時間の間に、29回もの爆発を繰り返し、炎は2日間燃え続けました。
死者・96名、負傷者・604名、家屋への被害は、全半壊含め中宮で300戸以上、禁野で70戸、渚・17戸、磯島・6戸・・・その爆発音は、京阪一帯に響き渡り、爆弾の破片は半径2kmに渡って飛び散ったと言います。
結局、この事故で全焼してしまった禁野火薬庫は、同じ地に再建築される事なく、翌年、少し離れた三山木(京田辺市)に、禁野火薬庫を引き継ぐ形で建設された施設へと移行されたのです。
やがて、昭和三十一年(1956年)、この地は、高度成長期を象徴するかのようなマンモス団地として生まれ代わったのです。
現在の、中宮団地には、火薬庫を囲っていた土塁が、一部、石垣のように残されたいますが、当然の事ながら無くなっていく物もあります。
鉄道の引き込み線は、今は道路となっています。
かつては、渚から禁野に抜ける川で、一部砲弾を船で運んでいた船着場も、今や跡形もありません。
いつしか、禁野火薬庫は人々の記憶から消え去ってしまうのでしょうか・・・。
現在、枚方市は、今日3月1日を『枚方平和の日』とし、かつて引込み線が走っていた道路を『中宮平和ロード』と名付け、未来へと伝えようとしています。
確かに、火薬庫の爆発は事故です。
誰も、わざと爆発させようと思って爆発させたわけではありません。
しかし、日本が太平洋戦争へとまっしぐらに走っていた時代・・・おそらく、この仕事に従事していた労働者には、学徒動員された少年少女や、働き盛りを失った家を守るお年寄りが数多く含まれていたと思われます。
戦地に散った兵士でもなく、空襲で命を落としたわけでもない・・・そんな戦争の犠牲者もいた事を、記憶にとどめておく事も必要なのではないでしょうか。
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