秀吉の小田原征伐・開始~山中城&韮山城を攻撃
天正十八年(1590年)3月29日、羽柴秀次軍が山中城を、織田信雄らが韮山(にらやま)城を攻撃し、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されました。
・・・・・・・
天正十三年(1585年)に四国を平定し、翌・天正十四年から十五年にかけて九州を平定し、その間に、越後(新潟県)の上杉景勝とも主従関係を結んだ豊臣秀吉は、天正十四年の11月4日付けで『関東惣無事令』を、翌・天正十五年の12月3日付けで『奥両国惣無事令』を発布します。
この奥両国というのは陸奥(東北太平洋側)と出羽(秋田・山形)の事で、つまりは、「関東から陸奥・出羽にいたる東北までの大名同士の私的な争いを禁止する」という物です。
当時の秀吉は関白、その関白の権限で、今まで戦国大名の間で繰り返されていた領地の取り合いを禁止するという事は、まさに、秀吉による豊臣政権の確立を意味していました。
この枠に属さなかったのが、小田原に根を張る北条氏。
天正十七年(1589年)、以前から北条と真田の間で争われていた旧・武田の領地・沼田・・・それを、「もう、争いは禁止」とばかりに、秀吉が間に入って、沼田の地の3分の2を北条に、残りの3分の1を真田に分割したはずだったのですが、その同じ年の10月に、北条氏政の弟・氏邦の家臣・猪俣範直が、真田昌幸の物となったはずの名胡桃(なぐるみ)城を奪い取ってしまったのです(10月23日参照>>)。
明らかに先の『惣無事令』に違反していると同時に、それは、北条氏が豊臣の臣下には入らないという意思表示とも言える行動です。
これによって、北条の意思を確認した秀吉は、直ちに『小田原征伐』を決意・・・11月24日には、氏政宛てに宣戦布告の書状を送りつけ(11月24日参照>>)、続く12月10日には、最初の軍議を開きます(12月10日参照>>)。
当然、北条側も秀吉が行動を起すことは百も承知。
秀吉軍が、東海道を東に進んでくると判断した北条は、本拠地である小田原城はもちろんの事、今や秀吉傘下に納まってしまった徳川家康の領地との国境を意識して、足柄城(神奈川県南足柄市)→山中城(静岡県三島市)→韮山城(静岡県伊豆の国市)のラインで大軍をくい止めようと、城郭の整備、土塁の構築、兵糧の準備に取り掛かります。
かくして先鋒の家康、続いて本多忠勝・井伊直政ら、そして秀吉自身も3万の直属軍を率いて、3月1日に京を出発・・・その27日には沼津に入りました。
翌・28日に、家康とともに山中城を偵察した秀吉は、翌日に山中城と韮山城へ攻撃開始する事を決定します。
そして、いよいよ天正十八年(1590年)3月29日、その火蓋は切られました。
北条の重臣・松永康俊が守る山中城へ向かうのは・・・
秀吉の甥・羽柴秀次を総大将に、中村一氏・山内一豊・田中吉政・堀尾吉晴・一柳直末ら、総勢・6万8千の軍団。
氏政の弟・北条氏規の守る韮山城へ向かうのは・・・
織田信雄・細川忠興・蒲生氏郷・蜂須賀家政・福島正則ら、総勢4万4千。
山中城は、障子堀という北条氏オリジナルの築城法を駆使し造りで、箱根という天然の難所を見事に利用した難攻不落の山城でした。
しかも、玉縄城主・北条氏勝や、有力旗本も助っ人に駆けつけ準備万端・・・のはずだったのですが、悲しいかな、籠城する兵の数が4千~5千とあっては、何とも・・・。
午後3時頃に始まった山中城攻防戦は、わずか2時間ほどで、その日のうちに落城してしまいます(さらに詳しく→2019年3月29日参照>>) 。
一方の韮山城は、約100mほどの丘の上に構築された平城・・・こちらも、籠城側3千6百というわずかな兵に対して、大軍の秀吉側は2重3重の包囲を張り巡らし、もはや、ねずみ一匹たりとも逃さぬ状態となりますが、こちらは、強固に包囲はされたものの、簡単には落ちず、約3ヶ月間粘り続け、6月24日まで持ちこたえています。
しかし、北条側にとって、難攻不落であったはずの山中城が、いとも簡単に落されたのは、かなりのショック。
逆に、落した秀吉側にとっては、士気が高まり勢いづく事となります。
秀吉軍は、その勢いのまま一気に進軍し、4月1日には箱根山に、翌・2日には箱根湯本まで進み、3日には小田原に到着・・・いよいよ小田原城の包囲にとりかかる(4月3日参照>>)事になるのです。
これから、3ヶ月とちょっと・・・城攻めのお天才・秀吉は、攻撃用の対の城・石垣山一夜城(6月26日参照>>)を構築し、籠城おまかせの北条との、それぞれの思惑&駆け引きが展開される事となります。
そして、一方では、忍(おし)城(6月9日参照>>)や八王子城(6月23日参照>>)など、小田原城以外でも、別働隊による秀吉VS北条の攻防戦が繰り広げられる事になります。
★2010年3月29日の【小田原征伐・オモシロ逸話】のページもどうぞ>>
★あなたの応援で元気でます!
↓ブログランキングにも参加しています
「 戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦(2024.07.04)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント
一昨年の「天地人」では、石垣山城を見た北条氏政が仰天する場面がありましたね。敵の「死角」になるように城を作り、城を隠していた木を切って一夜で完成、と言う秀吉一流のパフォーマンス。築城方式が違いますが、若い時の「墨俣の経験」が生きたんでしょうね。
投稿: えびすこ | 2011年5月27日 (金) 09時33分
えびすこさん、こんにちは~
石垣山の一夜城については2008年6月26日>>に書いていますが、調べてみて、意外にちゃんとした造りだったのに驚きました。
付城を本格的に造った事にも驚きましたが、そこまで本格的に造った城を、なぜ、そのまま利用しなかったのかも不思議です。
投稿: 茶々 | 2011年5月27日 (金) 11時47分