ミス日本に選ばれて退学処分~日本初のミスコン
明治四十年(1907年)3月5日、この日、日本初の美人コンテストが開催され、「ミス日本」が決定した事を記念して、今日3月5日は『ミスコンの日』という記念日なのだそうです。
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・・・といっても、現在のように、美人が一箇所に大集合して、水着やウォーキングを行っての審査ではなく、写真による審査のみではありますが・・・。
それは、アメリカのシカゴ・トリビューンという新聞社が「世界一の美女を決めるコンテストを開催するので、日本代表を決めてくれないか?」と、日本の新聞社・時事新報に頼み込んできた事から始まりました。
とは言え、優勝賞品は18金のダイヤモンド指輪=300円相当と超豪華!
しかも審査員は、彫刻家の高村光雲、歌舞伎役者の中村歌右衛門、新派の河合武雄などなど・・・各界の一流どころがズラリと勢ぞろいです。
女優・芸妓その他、容色を売る者は除外とされ、あくまで素人の未婚の女性が対象・・・まさに、ミス・コンテストです。
そして、いよいよ明治四十年(1907年)3月5日、その第一位が発表されました。
栄冠に輝いたのは・・・ドゥルドゥルドゥル・・・ジャ~ン!
小倉市長・末弘道方さんの娘さん・末弘ヒロ子さん、当時16歳!
本人にはナイショにして、姉の夫が勝手に送った写真で、見事一位を獲得したというオーディションの王道ともいうパターンでの当選でした。
しかし、今時のアイドル・オーデションと違って、どうやら彼女の場合は、本当に知らなかったようで、一位に決まった時は本人もかなりとまどった様子でした。
しかも、彼女は当時、学習院中等科に在学中のお嬢様・・
友人などは、わざわざ新聞の切り抜きを学校に持参して、彼女に見せつけながら・・・
「ごきげんよう、あなたの写真が、新聞に載っておりますわよ」
「いえいえ、これはワタクシではございませんワ、ごきげんよう」
・・・てな、庶民にはあり得ない雰囲気で大騒ぎとなってしまいます。
騒ぎを警戒した学校側は、「美人投票など校風にそぐわず」として、彼女に自主退学を迫ります。
なんせ、その時の校長は日露戦争で第三軍を指揮した、あの伝説のカタブツ・乃木希典(9月13日参照>>)さんですから・・・。
主催者側の時事新報は、その新聞紙上で「退学要請とは厳しすぎる!」と学校側を強く批判しますが、学校の姿勢は変わる事なく、とうとうヒロ子さんは、自ら退学を申し出る事になってしまいました。
お気の毒に・・・
ただし、さすがは乃木大将・・・公には、否定しておきながらも、影ではちゃんとフォローしてます。
今は必ずしもそうとは言えなくなりましたが、この時代のお嬢様の最高の幸せと言えば、素晴らしい相手との結婚・・・。
この時代の女性にとっては、学校に行くのも、知識を磨くと同時に、ある意味、嫁入り道具みたいな物ですからね。
しかし、これだけ大騒ぎをして中途退学してしまった彼女には、この先、良縁が舞い込んで来ることは、まずありません。
希典さんは、そっと、戦友の野津道貫侯爵に、「息子・鎮之助の嫁にどうだ?」と彼女の写真を見せるのです。
そりゃぁ、日本一の美女の写真を見せられちゃぁ、もう、野津家は二つ返事でOK!
ヒロ子さんは、めでたく侯爵夫人に納まって万々歳!といったところでしょうか。
それにしても、カワユイ・・・
今、見てもかなりの美人!
若き日の大原麗子さんのようだワ・・・「少~し愛して、長~く愛して」
昔の、美人と言われる女性の場合、「当時の美人の尺度は、今とは違うな」と思う事が時々あったりするのですが、彼女の場合は、もう別格です~。
今だと、写真審査のみなら、騙される確立高いですが・・・特に写メとプリクラは・・・
でも、これなら、そりゃ、一位になりますワ
長~く愛されて、幸せになったのなら良かった良かった・・・。
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