« さらば…近藤勇 | トップページ | 武蔵坊弁慶=架空人物説について… »

2008年4月27日 (日)

上杉謙信・2度の上洛の意味は?

 

永禄二年(1559年)4月27日、越後(新潟県)長尾景虎(後の上杉謙信)2度目の上洛を果たし、将軍・足利義輝に謁見しました。

・・・・・・・・・・

「京を制する者は天下を制す」と言われた戦国時代・・・と、このブログでも度々書いておりますが、実際に、天下取りを目的として上洛を果たした戦国武将は、ほとんどいません。

海道一の弓取りと呼ばれた今川義元も、あの桶狭間の合戦(5月19日参照>>)の時に、上洛しようとしていたとも言われますが、ご存知のように織田信長に討たれ、その真意は明らかではありません。

武田信玄も、三方ヶ原徳川家康を破って、さらに西へ向かい、上洛目前となりましたが、野田城攻防戦を最後に体調不良のため帰国を余儀なくされ、そのまま帰らぬ人となってしまいます(1月11日参照>>)

「天下を制したい」という目的を持って軍を進め、実際に、上洛を果たす事ができたのは、織田信長くらいのものです(9月7日参照>>)

そして、確かに信長は、本能寺において志半ばで倒れるものの、ご存知の通り、天下に最も近い位置にまで上りつめました。

そんな中、上杉謙信は、天文二十二年(1553年)9月と、永禄二年(1559年)4月2回、上洛を果たしています。

ただし、謙信の目的は「天下を制する事」ではありません。

彼は義の人です。

敵であるはずの信玄が「何かあったら謙信を頼れ」と言い残したり、北条氏康「裏表の無い人間だ」と言わせてみたり、川中島へと突入する更級八幡の戦い(4月22日参照>>)でも、上杉憲政に頼られ、村上義清に頼られ・・・と頼られっぱなしな事をみても、やはり、相当信頼のおける人物だったという事でしょう。

だからこそ、真偽のほどはともかく、「敵に塩を送る」という逸話も、謙信らしい話として後世に伝えられているわけですからね。

先に書きましたように、最初の上洛は、天文二十二年(1553年)の9月・・・その更級八幡の戦いからなだれ込むような感じで起こった、布施の戦い(=第一次・川中島の合戦(9月1日参照>>)のすぐ後になります。

この時は、時の天皇、第105代・後奈良天皇に謁見して、少し前に従五位下・弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任ぜられたお礼を、直接述べるために上洛しています。

このタイミングは明らかに、信玄との合戦を意識していると思われます。

自分が天皇に謁見する事で、こちらが言わば官軍であり、この後、行われる合戦は、不正な侵略行為を働く信玄に、正義の鉄槌を下すための戦である事を、内外に知らしめるためであったのではないでしょうか?

現に謙信は、その時、天皇から『戦乱平定の綸旨(天皇の命令書)を授かっています。

その大義名分があってこそ、心置きなく戦えるというものなのでしょう。

弘治元年(1555年)に、やはり信玄と相まみえた犀川の戦い(第二次・川中島の合戦)のすぐ後には、謙信は突然、「隠居する~!」と言って春日山城を飛び出し、比叡山(もしくは高野山)に籠ってしまっています(6月28日参照>>)

この理由については、明確ではありませんが、一説には、当時起きていた家内での内紛に耐えられなかったからだとも言われています。

この時は、結局、家臣に説得されて、謙信は戻るわけですが、おそらく、この内紛が、彼の中の「義の定義」にあてはまらない物であったと考えるのが妥当ではないでしょうか?

「義の無い争いはしたくない」
「そこは絶対に譲れない」

・・・という主張をしているかのように見えます。

そして、次に、謙信が上洛するのが、永禄二年(1559年)4月27日です。

これは、上野原の戦い(第三次・川中島の合戦)と、八幡原の戦い(第四次・川中島の合戦)(9月10日参照>>の間で、ちょうど、その時に信玄が、来るべき決戦に備えて海津城(長野市)を構築したとされている頃で、信玄も、そして謙信も、大きな戦いの予感のような物を感じていたのかも知れません。

そのナイスなタイミングで、第13代室町幕府将軍・足利義輝からの「上洛要請」です(11月27日参照>>)

天皇に続いて将軍・・・またしても、大きな義が得られる事になります。

義輝に謁見した謙信は、「関東管領・上杉家の家督の相続、並びに職務の継続をせよ」との内示と、「北信濃・争乱の平定の御内書」を授かっています(6月26日参照>>)

さらに、5月1日には、時の天皇・第106代・正親町(おおぎまち)天皇から従四位・近衛少将(このえしょうしょう)に任ぜられ、盃と剣をプレゼントされています。

これで、正真正銘の官軍です。

この夜、謙信は関白・近衛前嗣(まさつぐ)と、夜明けまでお酒を酌み交わし、大いに酔ったと言います。

とても楽しい酒だったと・・・。

謙信にとっては、義こそが、行動を起す最大の理由だったのでしょう。

多くの武将が天下を制するための上洛を夢見たのに対して、謙信の上洛は、権威を得るために・・・「権威が欲しい・・・」と言えば、ちょっと聞こえが悪いですが、その権威こそ、彼にとっては内外に認められた証であり、揺るぎない正義の印であったという事なのでしょう。

Kensinbazyouhaicc
今日のイラストは、
酒豪の謙信さんが愛用していたと言われている『中国製の馬上杯』を・・・

謙信は、いつも、お酒を一杯呑んで、出陣したのだとか・・・しかし、決して泥酔する事のない良いお酒だったようです。
 .

あなたの応援で元気でます!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« さらば…近藤勇 | トップページ | 武蔵坊弁慶=架空人物説について… »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

関東管領になり「上杉」を継ぐ人ですから、余命わずかの室町幕府の「一員」としての自負もあったんでしょうね。ところで「長尾家」は分家格として、江戸時代も存続していたでしょうか?江戸時代の大名・武士で長尾と言う人を聞かないので。

話題変わってこれは実話です。去年、「天地人」の視聴者で春日山に行った人が、「春日山城に洞窟がない」事に気づいて、ガッカリしたらしいです。(架空の)スタジオセットを本物と信じこんだ人がいるんですね。春日山城の見取り図を把握していれば、誤解しなかったんですが。

投稿: えびすこ | 2010年7月13日 (火) 16時13分

えびすこさん、こんばんは~

上田長男家は景勝が上杉を名乗ったし、古志長尾家は景虎に味方して御館の乱で滅亡したし…さらなる分家はあったのでしょうか?
確かに、長尾の名前はあまり聞きませんね~

>春日山に行った人が、「春日山城に洞窟がない」事に…

例の「毘沙門堂」が「毘沙門洞」になってたヤツですね(>_<)
なんで、洞窟である必要があったのかが、よくわかりませんね。

投稿: 茶々 | 2010年7月14日 (水) 02時03分

拍手

投稿: 越後では、謙信公は観音様の御子であるという伝説がある | 2011年2月10日 (木) 00時46分

越後では、謙信公は観音様の御子であるという伝説があるさん、コメントありがとうございましたo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2011年2月10日 (木) 02時00分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 上杉謙信・2度の上洛の意味は?:

« さらば…近藤勇 | トップページ | 武蔵坊弁慶=架空人物説について… »