織田家生き残りの織田信雄~人間・普通が一番?
寛永七年(1630年)4月30日、織田信長の次男・織田信雄が、73歳の生涯を閉じました。
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あの織田信長の息子として記録されている人は12~3人いますが、よく知られているのは三人・・・長男・信忠と次男・信雄(のぶかつ・のぶお)と三男・信孝。
・・・で、この三人のうち、長男の信忠と次男の信雄のお母さんは生駒氏の出身、三男の信孝のお母さんは坂氏の出身・・・
先日の【丹羽長秀さんのご命日】のページ(4月16日参照>>)でも、少し書かせていただいたように、この生駒氏と坂氏では、かなり身分の差がありました。
それで信長自身は、自分の後継者としては、一番には長男・信忠、次に次男・信雄・・・そして、三男の信孝は、やはり、あくまで、3番手で、むしろ自分が平定した伊勢の神戸(かんべ)氏を継がせるべく養子に出して、神戸信孝を名乗らせていました。
ただし、武士としての力量は、信孝はなかなのもので、それには、信長も一目置いていたらしく、本能寺の変の直前にも、四国攻めの総大将に彼を据えています。
一方の後継ぎ候補の長男と次男・・・これも、長男・信忠は、なかなかのもので、特に武田氏との戦いにおいては、岩村城を攻略しましたし、勝頼を自刃に追い込んだ天目山の総大将も彼・信忠でした(3月11日参照>>)。
そんな中で、本日の主役の次男・信雄さん・・・数々の落ちこぼれぶりを発揮してくれるオモシロイ人ではあります。
(注:落ちこぼれとは、あくまで戦国武将として・・・という意味で、人としての良し悪しではありませんので、お許しを・・・)
天正七年(1579年)には、惣国による自治を開始した伊賀の土豪たちに対して、父・信長に無断で攻め込み、見事敗退・・・命からがら逃げ帰るという失態を起こし、お父さんからこっぴどく叱られたりしています。
そんなこんなの天正十年(1582年)・・・運命の一大事件=本能寺の変が起こります(6月2日参照>>)。
一家の主として君臨していた父・信長が死に、すでに家督を継いでいた(11月28日参照>>)長男・信忠も、明智光秀に攻められ自刃してしまいます。
この時、三男・信孝は、中国から帰還した羽柴(豊臣)秀吉と合流し、山崎の合戦にて、父の仇である光秀を破ります(6月13日参照>>)。
一方の信雄は・・・一応、明智軍に備えて出陣をしますが、その後、間もなく山崎の合戦の勝敗が決したため、そのまま伊勢へと戻っています。
以前は、この時、父と兄の死を知って、慌てふためくあまり、安土城に火を放ち、すべてを燃やしてしまった・・・との、ありがたくない汚名を着せられていた信雄さんですが、さすがの彼も、そこまで頼りなくはない人で、現在では、安土城に火を放ったのは、光秀の娘婿の明智秀満(三宅弥平次)であったというのが一般的です。
しかし、そんな噂が囁かれるくらい、やはり、信雄さんはちょっと頼りなかったようで、この後の清洲会議(6月27日参照>>)では、柴田勝家・推薦の信孝と、秀吉・推薦の三法師(信忠の長男)との間で、信長の後継者をめぐって争われる事になるのです。
・・・で、結局、会議で後継者は三法師に決まってしまうワケですが、当然のごとく、信孝と勝家は不満ムンムン!
やがて、その不満が爆発したのが、あの賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)・・・その戦いで、最大のライバルである勝家を滅ぼした秀吉。
残るは、勝家と結託していた信孝ですが、現在の秀吉の立場は、あくまで織田家の家臣・・・さすがに主君・信長の息子を攻める事は、他の家臣の手前ムリ・・・という事で、突如浮上してくるのが、信雄さん。
確かに、信長さんが生きていた頃の順番からいけば、自分は2番手なので、「織田家の後継者としてふさわしいのは自分」との考えもあり、信孝と三法師の間で、後継者を争ってる時点で、彼には不満だったかも・・・
その心理を、うまく秀吉に焚きつけられ、なんと、信雄は弟・信孝を攻めて自刃させてしまうのです(5月2日参照>>)。
しかし、これは、完全に秀吉の思う壷・・・その後の秀吉は、信雄に見向きもせず、自らの天下取りの野望をむき出しにするのです。
「このままでは、秀吉の思い通りになってしまう!」と、脅威を感じた信雄は、第2の実力者・徳川家康を頼ります。
そして、家康の支援を得て、秀吉に立ち向かったのが、小牧・長久手の戦い(3月13日参照>>)です。
ところが、この一連の合戦がおおむね有利に展開していたにも関わらず、またまた秀吉の甘い囁きに誘われて、信雄は、家康に黙って単独で、講和を結んでしまうのです(11月16日参照>>)。
秀吉と信雄の和睦が成立してしまっては、家康に戦う意味がありませんから、当然のごとく、合戦も終わりを告げる事に・・・
結局、ここで、秀吉に従う事になった信雄は、正二位内大臣に昇進し、あの小田原攻め(7月5日参照>>)にも参戦します。
しかし、その北条滅亡後、秀吉から関東への転封を言渡され、これを拒否したために、改易されたうえ、島流しにされてしまい、出家して常真(じょうしん)と号します。
やがて、島流しを許され、大坂にて暮らす信雄でしたが、時代は関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)、大坂の陣(11月29日参照>>)へと移っていきます。
どうやら、この間、大坂に住んでいた信雄さんは、家康に大坂側の動きを知らせていた・・・つまりスパイをやっていたとのウワサ・・・
確たる証拠はありませんが、豊臣滅亡後のわずか2ヶ月後の元和元年(1615年)7月に、家康から大和五万石を与えられて、大名に復帰するところが、かなり臭います。
結局、その後は、息子たちに実務をまかし、事実上の隠居生活に入り、やれ茶の湯だ!鷹狩りだ!と悠々自適の老後を謳歌・・・
そして、寛永七年(1630年)4月30日、当時としては、おそらく天寿を全うしたと言える年齢・73歳でこの世を去ったのです。
あまりにも大きな父の影で、凡人だ!愚将だ!と言われながらも、血で血を洗う戦国時代のさなか、天下を揺るがす大戦に何度も遭遇しながら、決して命を落す事なく、悲惨な死に際の多い織田家の中で、唯一、楽しい老後を迎えた信雄さん。
ある意味これも才能です。
いえ、むしろ、ひとりの人間としては、一番幸せだったのかも知れません。
(これを予想しての行動だとすれば、まさに天才!)
確かに武将としては「?」な方ですが、人としては普通が一番なのかも・・・って考えさせられます~。
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