宮本武蔵は名人か?非名人か?
慶長十七年(1612年)4月13日、ご存知、宮本武蔵と佐々木小次郎の『巌流島の決闘』がありました。
・・・・・・・・・・・
ご本人の書いた『五輪書(ごりんのしょ)』によれば・・・
「13歳から29歳までに、有名・無名を問わず剣をを交えた回数は60回以上・・・しかも、一度も負けた事がない」のだそうです。
29歳で、それだけの剣の達人であるにも関わらず、さらに・・・
「山に籠り修行を重ね、50歳にして剣の道の極意を極めた」とあります。
しかも、噂によれば、徳川将軍の兵法師範・柳生新陰流の柳生宗矩(やぎゅうむねのり)(3月26日参照>>)よりも強かったのだとか・・・。
しかし、もう、すでに皆さんご存知のように、上記のような、現在の宮本武蔵のイメージは、作家・吉川英治さんの小説によって造られたものです。
以前、【忠臣蔵】(12月14日参照>>)のところのコメントでも書かせていただきましたが、私は、フィクションの否定派ではありません。
歴史は歴史、小説は小説、ドラマはドラマです。
おもしろくなるんなら、むしろ、どんどんフィクションを交えるべきだと思っています。
今年の大河ドラマ・篤姫に関してでも、ネットを見ていると・・・
「身分の違う西郷さんと篤姫が、あんなふうに親しくなるワケがない」なんて意見を聞いたりもします。
確かに、事実としては、そうかも知れませんが、この先々、動乱の中で盛り上がるドラマのクライマックスへの複線としては、最初の時点で知り合いになってたほうが、絶対におもしろいじゃありませんか。
ただし、ドラマや小説を丸々鵜呑みにするのではなく、歴史の事実は事実として知っておいたほうが、ドラマや小説がいっそうおもしろくなると、個人的には思っています。
「あの歴史的事実と、こんなフィクションを・・・なるほど、そうからめてきたか!」と感心させられたり、逆に「最後にこんなふうになるんだったら、あのフィクションは必要だったの?」と落胆させられたり・・・。
小説家や、ドラマの造り手の力量を測る“ものさし”になって、実におもしろいんです。
そんな中で、吉川英治さんは、私にとってダントツの作家さん・・・実は、小説をまったく読まない私ですが、小学校6年から中学にかけての一時だけ、『新平家物語』を読んだ事があります。
小説『宮本武蔵』は連載中からたいへんな人気だったようで、終盤にさしかかり、小説が終わりそうになると、ファンから「終らせないで!」という声が殺到し、またまた、武蔵が武者修行の旅に出るくだりを追加したり・・・なんて事もあったようです。
そんな吉川英治さんも、今回の巌流島の決闘の出所である『二天記』について・・・
「おそらく、その内容はウソだろう」と語っておられます。
巌流島は、関門海峡に浮かぶ船島(ふなしま)という小島・・・決闘相手の佐々木小次郎(2010年4月13日参照>>)が『巌流(がんりゅう)』を名乗ったところから、巌流島と呼ばれるようになったのだとか・・・。
そして、現在、目にする巌流島は、大正時代に三菱重工業が埋め立てた物で、それまでの巌流島は、島と呼ぶにはほど遠い岩礁のような物で、とてもじゃないが、決闘ができるようなスペースは無かったとも言われています。
さらに、巌流島だけではありません。
実は、宮本武蔵に関する史料で、信頼のおけるものは、ほとんど無いのが現状です。
先の、「13歳から29歳までに60回以上戦った」というのも、上記の通り、ご本人の『五輪書』に書いてあるだけなのです。
つまり、近所のおっちゃんが「俺の若い頃は、そうとうなワルでさ~、あだ名は“切れたナイフ”だったぜ!」と言ってるようなもので、誰も証明できないのです。
ちなみに、武蔵さんが自己申告している60回以上の戦いの中で、実際に別の史料などで確認できるのは18回。
さらに、『五輪書』では、すべて真剣で戦った事になってますが、本当に真剣が使用されたのは、吉岡又七郎と宍戸梅軒(家俊)との戦いの2回だけだったらしく、それ以外はほとんど、そのへんに落ちてる棒切れを拾って戦っていたのだそうです。
剣術の腕前も、さほど強くなく、大きな体格をいかして、力まかせに棒でボコボコに叩きまくる・・・というのが彼の戦法だったようです。
だいたい、自己申告のように、本当に剣の達人なら、仕官の口などいくらでもあったでしょうが、常に仕官の口を探していたワリには、晩年になるまで、その願いが叶えられなかったのは、それほどでもなかった・・・という現実があったからなのかも知れません。
しかし、やはり武蔵は歴史に名を残した人・・・剣の腕はそれほどでないにしろ、何かが長けていたに違いない。
「二天記はウソだろう」と言った吉川英治さんも、「武蔵は名人は非名人か?」と聞かれたら「名人だ」と答えていますから、きっと、何かが・・・
そう、実は、彼は、実戦よりも、相手の戦意を喪失させるような事前準備をしたり、相手の意表をついたりするのが得意だったのです。
ズルイとかコスイとか言わないでください。
このブログでの『孫子の兵法シリーズ』(3月11日以下参照>>)を読んでいただいている方には、お解かりいただけるかと思いますが、それこそ合戦の極意・・・戦うために最も重要な事なのです。
孫子・軍争篇(5月20日参照>>)では、はっきりと「事前準備で勝てると判断した時だけ戦え、勝てる見込みがない時は戦うな」と語っています。
思えば、先の『五輪書』の中で、「俺はこんなに強かったんだ」と、オーバーに盛る事も、相手をビビらす上では効果的な作戦です。
400年も前に、武蔵自身が造り上げた虚像である剣豪・宮本武蔵に、あこがれを抱く私たちも、知らず知らずのうちに、すでに武蔵の心理作戦に引っかかっているのかも知れません。
だとしたら、巧みに心理を操り、勝ちだけを狙う・・・やはり、武蔵は豪傑・名人だと言えるでしょう。
もちろん、吉川英治さんという作家の、軽快で巧みで小気味いい『思う壺』にもはめられているワケですが・・・。
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コメント
もし、本当に巌流島の決闘の後に剣豪をやめているのであれば、人生の後半は美術に生きた人ですね。実際に「宮本武蔵筆の水墨画」があります(真贋は不明)。
30歳前後でアスリート(剣豪)からアーチスト(芸術家)への転身。もう1つの意味での「名人」なら、他の人にはできない芸当。
余談ですが、昨年の「天地人」での景勝と景虎が、「武蔵と小次郎」みたく見えたのは、私だけでしょうか?あのいでたちで瞬間的に連想しました。
投稿: えびすこ | 2010年3月 5日 (金) 17時51分
えびすこさん、こんばんは~
景勝と景虎・・・
景虎は、戦国一の男前ですからね~
小次郎のほうは・・・
ジイサンだった可能性もアリです。
投稿: 茶々 | 2010年3月 5日 (金) 19時25分
再来年が「対決400周年」にあたるので、正月時代劇か映画になるでしょうかね?
現地に両雄の銅像がありますが。
投稿: えびすこ | 2010年3月31日 (水) 08時51分
えびすこさん、こんにちは~
現地って、巌流島ですか?
あそこは、大正時代にどこかの企業が何かの建物を建てるために埋め立てた島で、それまでは、小さな岩礁だけだったなんて話を聞きましたが、どうなんでしょうか?
今も、その痕跡は残ってるんでしょうかねぇ。
一度、行ってみたいです。
投稿: 茶々 | 2010年3月31日 (水) 09時59分
こんばんは
以前NHKの特集番組で観たのですが、歴史資料によると当時小次郎は老齢で、さらには木刀で頭を打たれ気絶し武蔵が立ち去った後蘇生し、そこを叢に隠れていた武蔵の門下複数人に撲殺された、とのことでした。
剣術、というよりも、決闘が強かった、と言われると、色々な事が納得できるような気がします。
巌流島というと、私は縁あって城ケ島を連想してしまうのですが、ひょっとして地震か何かで地形が大きく変わっていたのでは?
城ケ島も関東大震災までは風光明媚で、源頼朝が観光に訪れた事も知られていて、大正時代には北原白秋詩の歌の為もあり、大変な賑わいでしたが、震災で隆起した岩礁により絶景とされた酔女が浜という砂浜も景観が損なわれ、行政により土地不足解消の為埋め立て地になりました。
ところで、武勇伝はともかく、武蔵の描いた布袋さんの水墨画、味があると思います。
これも以前、『美の巨匠』みたいな題名の番組で特集してて、この掛け軸の持ち主の、影の権力者みたいな人物が首相候補を茶室に招いて、戦後のこの時期に国を二分するような勢力争いをするなと諭した、なんてエピソードが紹介されてました。
時代を越えて色々な話が絡んでくると楽しいですね~
投稿: ダルタニャン | 2013年4月13日 (土) 19時26分
ダルタニャンさん、こんばんは~
あの絵はスゴイですね~
それこそ、あれがあるからこそ、武蔵を信じられるって感じもありますね。
投稿: 茶々 | 2013年4月13日 (土) 21時35分
「そう、実は、彼は、実戦よりも、相手の戦意を喪失させるような事前準備をしたり、相手の意表をついたりするのが得意だったのです。」 なるほど。巌流島での遅刻も象徴的ですね。相手を棒でボコボコにする武蔵・・・。全く想像出来ない
投稿: ととぽむ | 2015年4月13日 (月) 21時26分
ととぽむさん、こんばんは~
しかも、相手の小次郎はかなりのお爺ちゃんなのに、若い武蔵の弟子数人で、たった一人の小次郎爺ちゃんをボコボコにした…なんて事も言われてますね。
もちろん、その話も、どこまで本当かわかりませんが…
投稿: 茶々 | 2015年4月14日 (火) 02時00分