丹羽長秀・人生最後の抵抗
天正十三年(1585年)4月16日、織田家の重臣・丹羽長秀が51歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・・
少し前の事になりますが、『性格診断テスト・あなたは戦国武将でいうと誰?』という、おもしろそうなのがあったので、やってみたところ・・・私は丹羽長秀という事でした・・・
- 上記のサイトは、リンクフリーだという事ですが、一応URL表示させていただいときます
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazu1110/busyou.html
ちょっとショック・・・
いえいえ、決して長秀さんが嫌いなわけではありませんよ。
ただ何となく、長秀さんは、実直でマジメそうなイメージがあったので、おふざけ人生を送っている私とは、ちょっと違うんじゃない?・・・っていうのと、派手好きで目立ちたがりなもので、自分自身では、どちらかというと“カブキ者系”“バサラ系”の武将を予想しておりまして、予想外・・・という意味でショックを受けたのです。
しかし、これも何かの縁・・・今日は、長秀さんのご命日という事で、思いを込めて、その最期を書かせていただきます。
・・・・・・・・・・・
丹羽長秀と言えば、織田信長に仕えた重臣の中の重臣・・・あの柴田勝家と並んで、織田家家臣のトップをいく人でした。
豊臣秀吉がまだ、木下藤吉郎だった頃、両雄にあやかろうと、柴田勝家の「柴」と、丹羽長秀の「羽」を一字ずつ貰って、「羽柴」と名乗ったなんていう逸話をご存知のかたも多いはず・・・。
そんな長秀さんに、そもそも、私が、“実直でマジメ”というイメージを抱いたのは、主君・信長との官位の「いる・いらない」エピソードからです。
信長が近江(滋賀県)の小谷城を攻めて、浅井長政を滅ぼした時(8月27日参照>>)、朝廷の許可を得て、功績のあった家臣たちに官位を贈った事がありました。
秀吉はご存知、筑前守(ちくぜんのかみ)です。
柴田勝家は修理亮(しゅうりのすけ)
明智光秀は日向守(ひゅうがのかみ)
滝川一益は左近将監(さこんしょうげん)
荒木村重は摂津守(せっつのかみ)
・・・で、信長は、長秀に越前守(えちぜんのかみ)を与えようとします。
ところが、長秀は、「今まで通りで結構です」と言って、かたくなに断り続けます。
実直でマジメな上に、融通がきかない頑固者・・・なんせ、この時は、あの信長さんが折れているんですから・・・。
ところで、そんな信長の家臣団の中には、要領よく立ち回って出世する秀吉の事を快く思わない者もたくさんいました。
その代表格が柴田勝家です。
織田家譜代の家臣たちから見れば、秀吉は新参者・・・しかも、家柄が家柄ですから、格式とプライドを重んじる彼らにとって、秀吉の出世がおもしろくないのは当然です。
しかし、そんな中でも、長秀は、秀吉にやさしく、昔からの家臣と差別する事なく接していたようです。
やがて、運命の時がやってきます。
そう、本能寺の変(6月2日参照>>)です。
この時、柴田勝家は北陸の魚津城で(6月3日参照>>)、
羽柴秀吉は備中(岡山県)高松城で(4月27日参照>>)、
滝川一益は上野(群馬県)で北条と(6月18日参照>>)、
それぞれ交戦中・・・。
長秀は、信長の三男・神戸信孝の補佐役として、ともに四国征伐を開始する直前で、大坂・堺に滞在中でした。
・・・て、事は、上記の重臣たちの中では、一番近くに・・・しかも、信長の息子とともにいた事になるわけですが・・・ご存知のように、主君の仇を討つのは、中国から神がかり的スピードで戻ってきた秀吉と合流してからです。
実は、この時、長秀とともに信長の急を聞いた信孝が、野田城(大阪市福島区)にいた津田信澄を襲って殺害しています。
明智光秀の娘婿だった信澄を、本能寺の変に関与していると考えての行動ですが、行動したのはここまで・・・このまま単独で、光秀軍本隊に迫る事はなかったのです。
なぜなら、信長の死を知った信孝軍は、ことのほか動揺してしまい、大混乱となったため、脱走する者が後を絶たず、最終的に残ったのは5000ほどの兵で、とても、光秀本隊を迎え撃つ事ができなかったのです。
かくして、摂津富田で、秀吉軍と合流した信孝と長秀は、ともに山崎の合戦(6月13日参照>>)に挑みます。
・・・と、ここで以前、山崎の合戦のページにupした布陣図を確認していただきたい(ココをクリックすると別窓で開きます>>)。
合戦の場合、多く大将が最後尾に位置し、それを守るかのように、それぞれの武将が陣を立てる事になりますが、山崎の古戦場は、淀川と天王山に挟まれた、実に狭い場所にあるので、総勢・35000となった軍は、縦長に布陣するしかなく、その並びが実にわかりやすい・・・大将の位置である最後尾に神戸信孝、その次に丹羽長秀、そして、羽柴秀吉です。
もちろん、これは秀吉の意見によるもの・・・つまり、この山崎の合戦の大将は信孝、副将は長秀で、自分はその次ぎだと・・・。
数では圧倒的に多い自分が身を引いて、信長の遺児を大将に、そして、織田家家臣の中で自分より地位のある重臣を副将に・・・と、言えばカッコイイですが、実は、この布陣も、信長の仇を討つという大義名分を、全面的に強調するための秀吉の作戦です。
こちらは、正統な官軍で、光秀は謀反を起した賊軍という印象を植え付けるためなのです。
これが、秀吉の作戦であった事は、山崎の合戦で勝利した後、信長の後継者を決めるべく開かれた清洲会議(6月27日参照>>)で明らかとなります。
合戦に挑んだ時の秀吉同様、信長の後継者として、息子の信孝を推す柴田勝家・・・ところが、秀吉は、本能寺の変で信長とともに死んだ長男・信忠の息子でわずか3歳の三法師を推すのです。
3歳の子供の後見人となって権勢を振るおうという魂胆がミエミエの秀吉に、怒りをあらわにする信孝と勝家・・・。
ところが、この時、会議に出席していた長秀は、秀吉の推す三法師に味方するのです。
それには、この会議の前から、秀吉が長秀に根回ししていたからだと言われますが、それよりも、やはり実直でマジメな性格の長秀には、嫡流を重視したという事があったように思います。
なんせ、信長は、すでに天正三年(1575年)に信忠に家督を譲っています(11月28日参照>>)。
多くのドラマが信忠の存在をほぼスル-して描くので少々勘違いしてしまいますが、この清州会議は、あくまで織田家の後継者を決める会議であって、その時点で信長が天下取りに一番近い位置にいたかどうかは別問題・・・
本能寺の寸前の信長は、朝廷から何やら重要な役どころを打診されていたという話のありますが、もし本当に、そんな話があったとしても、それは信長本人に対しての物で、織田家の家督を継いだ人に付録のようについて来る物ではありません。
なので、長秀が「例え幼くとも、当主である信忠の遺児の三法師が正統」と思うのは、いたって自然・・・長秀にとって、最優先は信長と織田家なのですから・・・
とは言え・・・
やがて、そんなマジメで実直な長秀を、秀吉が怒らせる出来事がやってきます。
秀吉は、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)で勝家を倒すと、信長の次男・織田信雄を丸め込んで、勝家が推していた信孝を自害に追い込んでしまうのです。
♪昔より 主を討つ身の 野間なれば
報いを待てや 羽柴筑前♪
これは、信孝の辞世の句だと言われています。
野間とは、かの平治の乱で敗走した源義朝が、家来を頼って落ちのびた時、恩賞に目がくらんだ家臣が、逆に義朝を殺害した場所です(1月4日参照>>)。
その因縁の地で自刃させられる事になった信孝・・・ただ、ここまで名指しの露骨な怨み節を詠んだかどうかは疑わしいですが、もし、本当に信孝の辞世であったなら、織田家大事の長秀は、どのような思いでこの叫びを聞いたのでしょうか?
しかし、この一件・・・直接、信孝を自刃に追い込んだのは、兄の信雄ですから、ここで長秀が秀吉を責める事は、信雄をも責める事になります。
とりあえず、ここでは、じっと我慢の長秀・・・しかし、それだけでは終りませんでした。
今度は、信孝を追い込むために利用した信雄を軽視し、信雄相手に小牧・長久手の戦い(3月13日参照>>)を勃発させます。
ここで、長秀はブチ切れるのです。
長秀にとって、あくまで主君は織田家・・・以前は、秀吉が織田家の家臣であったから味方をしていたわけで、秀吉に臣従する気持ちなんて、さらさら無いのです。
この時から、長秀は、秀吉の再三の呼び出しに応じる事なく、越前(福井県)府中の居城に引きこもってしまうのです。
しかし、天下はすでに、秀吉の手中にある事も、すでに彼にはわかっています。
そこで、長秀は、ひとり・・・自問自答するのです。
勝家のように、秀吉と戦う事のできない自分・・・
前田利家や滝川一益のように、すべてを吹っ切って秀吉の家臣となる事のできない自分・・・
心の中で、葛藤を繰り返すうち、年齢とともに持病の胃がんが悪化していきます。
やがて、床を離れる事もできなくなった長秀・・・
悩み抜いた長秀は、天正十三年(1585年)4月16日、その右手に握った刀で割腹・・・握りこぶし大に腫れあがった腫瘍を取り出し、壮絶な最期を遂げるのです。
そして、その病根は、彼の遺言に従って、遺書とともに、秀吉のもとに送り届けられます。
丹羽長秀・51歳・・・生涯、織田家の一家臣。
人生の最後の最後に見せた、秀吉への抵抗でした。
とは言え、実は、この自刃のお話は『秀吉譜(ひでよしふ)』に書かれた内容・・・
これ以外にも、「武士たる者が腹の中の虫に殺されてたまるか!」とばかりに、虫(病根)を退治すべく割腹して、その2日後に亡くなった・・・なんて事も言われますが、結局は、やはり、ガンの悪化による病死であろうというのが一般的な意見のようです。
.
「 戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 伊達政宗の大崎攻め~窪田の激戦IN郡山合戦(2024.07.04)
- 関東管領か?北条か?揺れる小山秀綱の生き残り作戦(2024.06.26)
- 本能寺の変の後に…「信長様は生きている」~味方に出した秀吉のウソ手紙(2024.06.05)
- 本能寺の余波~佐々成政の賤ヶ岳…弓庄城の攻防(2024.04.03)
コメント
遺書の内容はどんなモノだったんでしょう?遺されてるなら見てみたいです。
投稿: マー君 | 2008年4月16日 (水) 09時23分
いいじゃないですかあ。私は大友宗麟ですよ~(泣)なんか、キリシタンでありながら、好色だった彼。わがままもたくさんしていたようで、印象悪~!と思っていたところ。私もそうだったのね、、、。残念です、、、
投稿: Kyoko | 2008年4月16日 (水) 12時54分
>マー君さん、こんにちは~
そうなんです・・・私も、この丹羽さんの逸話を耳にしてから、その遺書がどんな物か気になって・・・
ネットもウロウロしてみましたが、載ってないんです~
最近になって、10年ほど前に広済堂から出版されている「戦国武将の遺書」という本の目次項目で「丹羽長秀の遺書」と書いてあるを見つけ、手に入れたいと思っているのですが、本屋さんでは、すでに絶版の売り切れで手に入らないようです。
あとは、古本屋・・・気長に探してみます・・。
投稿: 茶々 | 2008年4月16日 (水) 17時41分
>Kyokoさん、こんにちは~
大友宗麟・・・カッコイイじゃないですか~
九州に一大王国を夢見たドン・フランシスコですよ~
いったい、あの問題で何て答えたら、織田信長とか伊達政宗とか、最初にデカイ文字で書かれてる人になるんでしょうかね?
それも気になる・・・
投稿: 茶々 | 2008年4月16日 (水) 17時52分
私は、家族から長秀の肖像画にそっくりということで、性格を調べてみたら、このブログに、たどり着きました。
家紋も、同じらしいです。(樋扇)
ブログの性格もそっくりだったのにもびっくり。
おかしなものです。
投稿: 丹羽 | 2012年8月19日 (日) 21時12分
丹羽さん、こんにちは~
て事は、何かのご縁でつながっているかも知れませんね。
イロイロ調べていくと楽しいかも…
投稿: 茶々 | 2012年8月20日 (月) 12時16分
こんばんは~
木綿藤吉、米五郎三、掛かれ柴田に...なんてキャッチフレーズがあったそうですが、世渡り上手、なんて私が勝手に抱いたイメージしかなかった長秀さん。
いや~、秀吉の本性が知れて嫌ですね。
なかなか男気のあった長秀さん、いいですね。
義の精神がといったところで、力がものを言う戦国の世のこと、盟約を誓い義を尽くすべき仲間もまた義という名にはほど遠い感...。
秀吉のために上杉家の気高さも薄れる気がします。
ただ強いものに仲良くくっついていき、危ない時は乗り換え、チャンスがあれば自分が上に。
よくまぁ、家康存命中に秀吉が都合よく死んでくれたもの、もしかして毒殺説とかはないのでしょうか?
ところで、柴田勝家もいいですね、フロイスの記録によると、秀吉方につくことになるかつての家臣前田利家に、自分のような間違いはするなと優しい言葉を掛けたとか。
投稿: 仁丹男爵 | 2013年4月16日 (火) 19時34分
仁丹男爵さん、こんばんは~
賤ヶ岳の時の柴田勝家と前田利家のイイ話は『前田創業記』にも書かれていて、そのお話をもとに、私も4月23日のページ>>に書かせていただきました。
助命運動もありましたからね~
投稿: 茶々 | 2013年4月17日 (水) 02時35分
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、織田信長に仕える以前から、織田家に仕え続けた丹羽長秀は、本質的には、律儀者だったのだと思います。だからこそ、清洲会議において、秀吉が三法師(後の織田秀信)を織田家の当主にした方が良いという考えに、長秀が賛同したのは、当然のことだったのでしょう。しかし、秀吉が天下人としての野心をむき出しにした上で、秀信ら織田家の人々をないがしろにしていく姿に、長秀は、自分なりに我慢できなかったにちがいありません。そのため、腹を切った上で、腫瘍を秀吉に送りつけるという、最後の抗議行動をしたのでしょうね。
投稿: トト | 2016年1月11日 (月) 18時57分
トトさん、こんばんは~
律儀な人だったんだろうなぁ~というのは同感です。
投稿: 茶々 | 2016年1月12日 (火) 01時25分