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2008年4月 4日 (金)

信長の「上京焼き討ち」の謎

 

元亀四年(天正元年・1573年)4月4日、織田信長二条御所(義昭御所)に籠る足利義昭に対して火を放った『上京焼き討ち』がありました。

・・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月に上洛した織田信長に担がれて、第15代・室町幕府将軍となった足利義昭でしたが、二人の蜜月は短い物でした。

2年後の元亀元年(1570年)1月23日には、信長から「これからは全部、俺がやるさかいに、アンタはおとなしゅーしといて」という将軍の権威もクソもあったもんじゃない手紙(1月23日参照>>)を受け取った義昭は、ついに反・信長派の武将たちに信長打倒を呼びかけ、自らも、三好三人衆松永久秀と結託して、信長に反旗をひるがえしたのです(2月20日参照>>)

そんな義昭の行動に対抗すべく、元亀四年(天正元年・1573年)4月4日、信長は、義昭の籠る二条御所のある上京(かみぎょう)一帯を焼き討ちにします。

ルイス・フロイス『日本史』によると・・・
「その地にあったすべての寺院が家屋もろとも焼失し、周辺の二・三里(一里=4km)、五十の村が焼き尽くされ、まるで最後の審判の日のようだった」・・・そうですが、

あの『信長公記』では・・・
「上京に御放火された」
・・・と、ずいぶんとあっさりとした書きようです。

Odanobunaga400a 織田信長が焼き討ち・・・と、来れば、あの『比叡山焼き討ち』を思い出しますが、この比叡山の焼き討ちについて、その信長公記では・・・
「すべてを焼き尽くし、目も当てられぬ有様」
なんて事が書かれています。

しかし以前、【比叡山焼き討ちは無かった?】のページ(9月12日参照>>)でも書かせていただいたように、近代の地質調査によれば、全山を焼き尽くすほどの火災の跡が残っておらず、今では、書かれているような大規模なものではなかったのではないか?という事が囁かれています。

ですから、今回の上京の焼き討ちも、フロイスが書いているほどの大規模な物だったかどうかは疑わしい面もあるのでしょうが、比叡山がそうであったように、規模の大小はともかく、放火して焼いたという事実があった事は確かでしょう。

もちろん、一番の目的は、先に書いたように、義昭への攻撃であり、彼をビビらせる事・・・

結局、義昭は、この後、宇治槇島城に籠り、信長はそこにも攻撃を仕掛け、最終的に京から追放しています(7月18日参照>>)

ただ、この焼き打ちという行為には、単に、相手は義昭だけだったか?という疑問を呈する意見もあります。

この後、義昭が追放される事でもわかるように、もはや現在の義昭が、自分に抵抗するほどの力を持ち合わせていない事は、信長もわかっていたはずです。

義昭の籠る二条御所を攻撃・・・ならともかく、町ごと焼いてしまう必要があったのでしょうか?

しかも、この日の焼き討ちの予定は、吉田神社の神主・吉田兼和(かねかず)を通じて、正親町(おおぎまち)天皇にも報告されていて、すでに、町でも噂になっていたので、上京の町衆は、信長からの攻撃を免れようと、銀・千三百枚を出す用意をしていたのです。

この時代、「そういう問題をお金で解決する」という事が度々行われていました。

この4年前の永禄十二年(1569年)にも、信長が軍資金を要求し、それに応じなかった堺の町を攻撃した(1月9日参照>>)なんて事もありましたし、事実、今回も下京(しもぎょう)は銀・八百枚で焼き討ちを免れているのです。

なのに、信長は、上京に対しては銀・千三百枚をつき返しています。

そうまでして、信長を焼き討ちにかりたてた物は何だったのでしょうか?

ここで、気になるのは、先の「天皇への事前予告」です。

今でこそ、京都の町の中心は南に下がり、京都駅などもそのあたりにありますが、本来、京の都の中心は、かなり北よりにありました。

当然、天皇の住まう御所も都の北側に位置しています。

それは、「天子は北の闇を背にして南の光に座する」という『天子南面』の思想からきたものだそうで、現在の京都御所などの寝殿造りの建物(12月7日参照>>)を見ても、内裏は南向きに建てられ、天皇の玉座も南に向いていますよね。

・・・で、この時の信長のターゲットは、時の天皇・正親町天皇だったのではないか?とも言われます。

もちろん、天皇を攻撃するというのではなく、威嚇するという目的です。

事前に予告して、その予告どおりに御所に近い上京を焼く・・・

信長は、この少し前から、正親町天皇に譲位を要求したりなんかもしています(10月27日参照>>)

まぁ、これには朝廷内のゴタゴタもあって、うまく世を治められない天皇への少々の不満もあったのかも・・・(11月4日参照>>)なのですが。

信長は、応仁の乱から後、戦乱にあけくれた京の町を復興させたり、貧乏にあえぐ公家を支援したり、正親町天皇の希望にそって「御馬揃え」なる軍事パレードを行ったり(2月18日参照>>)というサービスをする一方で、自らの力を誇示するような事もあったもかも知れません。

私個人的には、信長は、それほど正親町天皇に強圧的な態度をとっていたとは思っていないのですが、下京は中止しておいて上京を焼き打ちした事に関しては、どうしても疑問が残ります。

果たして、この上京焼き討ちは、信長の威嚇か否か?・・・妄想は尽きません。
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