芸術か?ワイセツか?博覧会の裸体画で大論争
明治二十八年(1895年)4月1日、平安遷都1100年を記念して、京都・岡崎で第4回内国勧業博覧会が開幕しました。
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明治四年(1871年)に、京都の西本願寺で日本初の博覧会が開催されたのを皮切りに、京都博覧会は毎年のように開催されていましたが、その京都博覧会は、京都博覧会社という民間の会社による博覧会・・・。
それに対して、内国勧業博覧会というのは、政府が開催する物で、外国の万国博覧会にならった見本市のような物で、次世代の産業などを広く内外に紹介する大々的な物でした。
それまでの3回は、すべて東京の上野で開催されており、第4回目にして、やっと別の場所に・・・しかし、この時は、大阪もその開催地候補に名乗りをあげていて、京都と大阪で激しい誘致合戦が繰り広げられた結果、開催されるこの年が、平安遷都1100年の記念の年に当たる事がら京都に決定したのです。
ちなみに、内国勧業博覧会は、全部で5回開催され、第四回の次ぎの第五回は大阪で行われています。
・・・で、話を、第四回の京都での博覧会に戻しますが・・・
この頃、京都は衰退の一途をたどっていました。
京都の公家たちが反対する中、とりあえず・・・といった感じで天皇が江戸城に移り、東の京という事で、江戸を東京と改め、あれよあれよという間に、東京が首都のようになってしまいました。
千年の都は、そのままほっぽり出され、京都の人々は落胆します。
しかし、このまま衰退してしまうのは、それこそ千年の都のプライドが許しません。
政府が東京へ行ってしまったのなら、自らの力で町を盛り上げようと、人々は立ち上がります。
以前、書かせていただいた『琵琶湖疏水』(4月9日参照>>)も、その一つです。
琵琶湖から京都を通って、淀川へ抜ける水路を作る事によって、京都の町の飲料水の確保をするとともに、北陸の海産物や、農作物が京都を経由して天下の台所・大阪へと運ばれ、運輸産業が大いに発達する・・・加えて、水力発電を行い、京都の町に電気が灯ります。
そこへ、平安遷都1100年の記念の年に、この内国勧業博覧会の誘致です。
早速、かの電力を利用して、博覧会開催に合わせて『日本初の路面電車』(2月1日参照>>)を走らせます。
その路面電車は、4月1日の開催と同時に、七条ステンションから岡崎の会場まで、たくさんのお客さんを運び、この日から4ヶ月間の会期中、博覧会はのべ113万人の入場者を数えたのです。
ちなみに、この時の博覧会のパビリオンとして建立されてのが、あの平安神宮です(3月15日参照>>)。
このように、路面電車や平安神宮などなど、博覧会にはたくさんの呼び物がありましたが、中でも最大の人気を誇ったのが、会場に展示された「裸体画」だったのです。
それは、「朝、目覚めたばかりの女性が一糸まとわぬ姿で、鏡に向かい髪をとかしている」という裸の美人の姿を描いた油絵でした。
この絵は、博覧会の審査員・黒田清輝の作品。
彼は、9年間フランスに留学して、法学を極め、政界に入るか?官僚になるか?と期待されていた人物でしたが、途中で絵に目覚め、ソシェテ・ナシォナル・ボザールのサロン入選・・・入選作品のその裸体画・『朝妝(ちょうしょう)』を引っさげての、まさに故郷に錦の帰国だったのです。
ところが、「かかる大それた物を、こともあろうに博覧会の会場に持ち出すとは・・・」と、新聞紙上で散々に批判されてしまいます。
確かに、西洋の裸体画は、それまでにも美術館に展示された事がありましたが、それは、特別室など、別の場所で展示され、西洋の美術に通じているごく一部の人だけが見られる状態となっていました。
それを、今回は、いきなりの一般公開となり、老若男女、多くの人が見てしまう・・・この女性の裸体画は、芸術なのか?ワイセツなのか?・・・そこに、問題があったようです。
しかし、清輝は・・・「何を怖がっとんねん!これは時代の最先端やっちゅーねん!
撤回せぇて言うんやったら、今回の全部の出品をはずして、審査員も辞めたる!」
「なんちよ、やっせんぼが!こいや時代の最先端やったっど!
撤回せぇっちゆうんじゃったら、今回の全部の作品をはずしっせぇ、審査員もやむっでね!」
(↑関西弁しかしゃべれない私に代わって『薩摩佐幕派』の味のりさんが、鹿児島弁に訳してくださいました~)
と、強気の発言。
結局、その強気におされた形で、裸体画が外される事はありませんでしたが、それでも、相変わらず新聞紙上では、毎日のように賛否両論入り乱れての大論争が繰り返されます。
しかし、新聞紙上が賑わえば賑わうほど、その裸体画の評判もうなぎのぼり・・・有識者のドタバタとはうらはらに、この裸体画は、開催と同時に評判を呼び、皮肉にも博覧会の一番人気となったのです。
この頃、日本に滞在して、様々な風刺画を描いているフランスのビコーは、「どちらがワイセツか」と題して、着物の裾をまくり上げて、この裸体画に見入る女性を描いています。
フランス人から見たら、全裸より、着物の裾のチラ見せのほうが、よっぽど色っぽかったんでしょうね。
ところで、黒田画伯のこの『朝妝』という作品・・・残念ながら、第二次世界大戦で消失してしまったのだそうです。
う~ん、見てみたかったですね。
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コメント
黒田清輝は我が薩摩の方ですね。
子供のころは地元を田舎くさいと感じていましたから、この人が鹿児島市の出身と知ったときは衝撃でしたww
ということで文中の清輝の台詞を鹿児島弁になおしてみました(^^)
「なんちよ、やっせんぼが!こいや時代の最先端やったっど!撤回せぇっちゆうんじゃったら、今回の全部の作品をはずしっせぇ、審査員もやむっでね!」
うーーーーん。さすが薩摩男児(^^;)
投稿: 味のり | 2008年4月 1日 (火) 23時03分
うゎあ・・・!ありがとうございます!味のりさん。
決してワザとじゃないんです~
一応、学校で国語は習っていますから、普通の文章のほうは、何とか標準語っぽく書けるんですが、セリフとなるとどうしても関西弁になってしまうんです。
時々登場する平家物語のお話でも、出演(?)者がみんな関西弁になってますでしょ?
しゃべってる感じを出そうとすると、そうなってしまうのです(ToT)
家族からは「新聞を読んでも関西弁になってる」と笑われてます。
ありがたいです。
早速、本文のほうに「味のりさん訳」として鹿児島弁のセリフを使わせていただきます。
投稿: 茶々 | 2008年4月 1日 (火) 23時19分
こちらこそでしゃばってしまってすみません~(汗
私はmamaさんの関西弁の会話好きですよ。
だってとても生々しくきこえて(悪い意味じゃなくて)あぁ、この時代に生きてこんな会話してたんだろうな~って思えますから。
その瞬間にのっぺりした浮世絵の絵ではなく、あのよろしでしゃべるんでもなく、生きた「人」という形でぐっと身近になるんです。
これからもどんどん、関西弁使ってくださいね(^^)
ちなみに私、元関西人なんですよ♪
投稿: 味のり | 2008年4月 2日 (水) 00時37分
味のりさん、ありがとうございます・・・
そう言っていただけるとホッとします。
投稿: 茶々 | 2008年4月 2日 (水) 16時44分