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2008年4月25日 (金)

さらば…近藤勇

 

慶応四年(明治元年・1868年)4月25日、東京・板橋の処刑場にて、新撰組組長・近藤勇が斬首の刑に処せられました。

・・・・・・・・・・・

もはや、多くを語らずとも、広く知られた新撰組・・・このブログでも、イロイロとご紹介させていただいてます。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」
この言葉は、まさに維新の動乱によって生まれた言葉です。

明治から後、勝った薩長=新政府は善として語り継がれ、負けた幕府と新撰組は、勧善懲悪の時代劇の中で、悪の部分として描かれ続けました。

しかし、昭和の時代になって、やっと彼らに陽が当たるようになります。

時代劇の楽しさは、勧善懲悪だけではないのだ・・・という事。

滅び行く者の美しさや、負けを知ってなおも挑む武士(もののふ)の心が、古来より、日本人の心の奥底に、受け継がれてきた「判官びいき」を奮い立たせるのです。

かの徳川家康は、武田滅亡後、その「武田の赤備え(あかぞなえ)を、そっくりそのまま井伊直政に受け継がせて「井伊の赤備え」にした(10月29日参照>>)ように、

また、「甲州水軍」を、そっくりそのまま受け継いで自身の水軍にした(11月7日参照>>)ように、多くの武田の家臣を抱えますが、さすがに、全員を自軍に抱え込む事はできませんでした。

当時、強力タッグを組んでいた織田信長よりも、むしろ武田信玄こそが誠の武将と尊敬していた家康は、雇いきれない武田の家臣たちに、将軍のお膝元で農業を営むべき土地を与えます。

そこが、武蔵(埼玉・東京)の国・多摩・・・この地の農民の多くは、武田家臣の子孫たちでした。

Dscn2833a700 その多摩で、幼い頃から、『三国志』関羽に憧れ、「いつか武士になりたい」と願いながら、剣の道に励む毎日を送っていた近藤勇は、陰りが見え始めた幕府に雇われ、京都守護職・松平容保(かたもり)傘下の新撰組として、夢にまで見た武士としての活躍の場を与えられる事になります(2月23日参照>>)

禁門の変(7月19日参照>>)により、第121代・孝明天皇から、一時は朝敵(天皇家の敵)のレッテルを貼られた長州・・・しかし、そんな長州と薩摩が組んで錦の御旗を掲げ、慶応四年(1868年)正月に鳥羽伏見の戦いに勝利(1月9日参照>>)すると、今度は、一転して敗れた幕府が朝敵となったのです。

幕府傘下の新撰組も、当然、朝敵=賊軍となります。

錦の御旗を掲げて、なおも東に進攻する新政府軍・・・「このままではいかん!」と、幕府・幹部の勝海舟は、新政府軍を甲州(山梨県)で迎え撃つべく、近藤以下・新撰組隊士を中心とした甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織します。

しかし、わずか170名の鎮撫隊は、板垣退助率いる1200名の新政府軍の、圧倒的な数と最新鋭の兵器のもとに破れ、やむなく敗走する事になります(3月6日参照>>)

やがて4月・・・下総(千葉県)流山の味噌製造元・長岡屋に身をよせていた近藤を、新政府が包囲します。

この時の近藤は、慌てふためく事もなく、堂々とした態度で、大久保大和と名乗って投降しました。

この時の落ち着きは、死を覚悟した悟りからか?
はたまた、やましき事のない心の証しなのか?

その心中は計り知れませんが・・・

しかし、元新撰組の伊東甲子太郎を暗殺した油小路の変(11月18日参照>>)で、近藤の顔を見知っていた加納鷲雄がいた事で、かの大久保大和が近藤勇である事は、すぐに新政府軍の知るところとなります。

当時、前年に起こった坂本龍馬の暗殺(11月15日参照>>)が、新撰組の仕業ではないか?と疑われていた時期・・・土佐藩の谷干城は、近藤に対して執拗に自白を強要しますが、近藤は断固として否認し続けます。

しかし、結局、土佐藩の連中の報復とも取れる意見に押し切られ、慶応四年(1868年)4月25日、東京・板橋の処刑場にて、新撰組総長・近藤勇の首は一刀のもとに落とされたのです。

胴体は近藤の兄に渡され、一方の首は京へと送られました。

近藤の首は、京の三条河原にさらされますが、焼酎に漬けて運ばれたその首は、まるで生きているかのようで、京都の人々を驚かせたと言います。

しかし、その首は、まもなく盗まれてしまうのです。

「京都・粟田口の刑場に捨てられていた」との噂が立ったり、何ヶ所か近藤の首塚なる場所もありますが、未だ確認には至っていません

そう、今、現在も、近藤勇の首は見つかっていないのです。

それは、悪意による物か、それとも好意による物か・・・

やっぱり、私は後者であると信じたい。

その昔・・・源平の合戦で破れ、般若寺にさらされていた夫・平重衡の首を手に入れて供養した妻・輔子(3月10日参照>>)のように・・・

滅び行く幕府に忠誠を誓った最後の武士が、武士らしい自刃という方法で死ねなかった、その無念を、近藤に代わって誰かが訴えてくれたのだと・・・

そう、思いたいではありませんか。

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今日のイラストは、
やはり、新撰組の近藤総長で・・・

以前から、近藤さんは描きたい人だったので、今日の日にイラストが間に合ってホッとしてます~
 .

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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

茶々さん こんばんは^^

近藤勇を取り上げて頂いて嬉しいです。
首級についてはいろいろな説がありますが、
どこにあるのかは今だわからずじまいですね。
でもこの時代になって新たに発見されていることもありますので、
いつかわかる日も来るのではないかと思っています。

この近藤勇の絵は凛々しくてステキですね!
いつの日か、今度は土方さんも描いて頂けると嬉しいです^^

投稿: ルンちゃん | 2008年4月25日 (金) 20時41分

かっこいい近藤さんですね~~(^^)
近藤さんにはカリスマ性というよりも(カリスマは土方さんかな)「父性」を感じますね。
自分をちゃんと見てくれてそうな。
懐は広かったと思います。
この季節はちょっとファンには切ないですね。

投稿: 味のり | 2008年4月25日 (金) 22時12分

>ルンちゃんさん、こんばんは~

新撰組どっぷりのルンちゃんさんから見れば、もの足りない文章かと思いますが、義経・義仲・幸村・・・と歴代・判官びいきの私としては、やはり新撰組には感情を込めてしまいます~。

土方さんは、かなり男前に描かないといけないですね~
大河ドラマの山本君がピッタリとハマリ過ぎていて、イメージが偏ってしまいそうです。

投稿: 茶々 | 2008年4月25日 (金) 23時15分

>味のりさん、こんばんは~

1歳年上だった事で、近藤さんが総長、土方さんが副長・・・って思ってましたが、じっくりと二人の生き様を見直してみると、やっぱりリーダーは近藤さんですね。
おっしゃる通り、お父さんのような・・・

土方さんは、兄貴のような感じ・・・

この総長と副長の関係はなるべくしてなった・・・って感じがします。

投稿: 茶々 | 2008年4月25日 (金) 23時22分

今日会津に行って参りました。
近藤さんのお墓に参らせていただき、まさしくお父さんのような近藤さんの笑顔が見えたような気がしました。お隣のお墓の土方さんからは、説教をくらったような気がします。Σ( ̄ロ ̄lll)

投稿: Ikuya | 2011年8月21日 (日) 21時15分

Ikuyaさん、こんばんは~

おぉ、会津に行って来られたのですか?
良い夏休みでしたね。

幕末ファンにとっては、会津は外せない場所ですね。

投稿: 茶々 | 2011年8月21日 (日) 22時51分

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