戦国屈指の夜襲・河越夜戦で公方壊滅
天文十五年(1546年)4月20日、戦国屈指の夜戦・・・『河越夜戦』がありました。
・・・・・・・・・
室町幕府が関東を管理するために置いた鎌倉公方と、その補佐役・関東管領・・・
鎌倉公方は足利氏の支族が代々務め、管領職は扇谷(おうぎがやつ)上杉家と山内上杉家が交代で務めていたのですが、幕府将軍6代目・足利義教(よしのり)と公方4代目・足利持氏(もちうじ)の時に、幕府に反発し公方が独自の道を歩み始めた事で、幕府と管領・上杉がタッグを組んで、公方・持氏を排除しました(永享の乱:2018年2月10日参照>>)。
その持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)が、公方職を奪回しようと関東各地で反乱を起こし、幕府に無許可で勝手に名乗ったのが古河(こが)公方です。
・・・で、勝手に名乗られちゃぁ困るって事で、幕府が慌てて派遣した正式な公方が堀越公方だったわけですが、その堀越公方を滅ぼしたのが、彗星のごとく現れ、駿河(静岡県)の今川氏に妹のコネで契約社員となっていた北条早雲です(伊豆討ち入り・10月11日参照>>)。
ここで、伊豆を支配するようになった北条氏ですが、やがて、先の古河公方の3代目・足利高基(たかもと)の代になって、兄・高基に反発した弟・足利義明(よしあき)が古河を離れ、無許可のさらに無許可となる小弓(おゆみ)公方を名乗り始めます。
すでにこの頃、鎌倉を支配し、江戸城近くまで勢力を伸ばしつつあった早雲の息子・二代目北条氏綱(うじつな)は、見事、小弓公方を倒し、さらに関東での支配を広げます(国府台合戦・10月7日参照>>)。
早雲・氏綱の親子2代で、堀越・小弓と来て、さぁ・・・最後に残ったのは古河公方・・・。
そんな天文十一年(1541年)7月、その氏綱が病死し、息子・北条氏康(うじやす)が家督を継ぎます。
この3代目の氏康が、まだ年若かった事で、「これは絶好のチャンス!」と見て取ったのが、その古河公方と管領である両上杉氏です。
古河公方4代目・足利晴氏(はるうじ)にとっては、これ以上、北条の北進を許すわけにはいきません。
晴氏と、それに同調する山内上杉憲政(のりまさ)と扇谷上杉朝定(ともさだ)らは、その年の10月、関東中央部の北条の拠点である武蔵河越城(埼玉県川越市)の包囲に取り掛かります。
この河越城は、もともと朝定が居城としていた城・・・それを氏綱が奪って、娘婿の北条綱成(つなしげ)(5月6日参照>>)に守らせていた(7月15日参照>>)のですから、晴氏としても、是非ともこの機会に取り返したい!
河越城の北側には晴氏、西側と南側が両上杉氏、東側には、あの太田道灌(どうかん)の曾孫・太田資正(すけまさ)(9月8日参照>>)・・・総勢8万と記録にはありますが、これはオーバー過ぎ、その半分くらいと見ておいたほうがいいでしょう。
守る河越城内は、城主・綱成をはじめとする約3千と、氏康が派遣した救援部隊が8千・・・それでも、数の差は歴然です。
しかし、その数の差のわりには、公方・管領側が何度攻撃を仕掛けても、河越城はなかなか落ちません。
小競り合いを続ける中、明けて天文十五年(1546年)3月頃に、晴氏たちは、「一度体制を整えなおして再戦」と、ばかりに、一時攻撃を休止します。
それを見た氏康は、自らが、更なる救援隊を率いて、近くの金窪(かなくぼ・川越市)に陣を敷き、即座に晴氏に和睦を申し入れます。
しかし、この和睦は敵を油断させるための氏康の作戦・・・
案の定、配下の者に敵情を視察させたところ、晴氏たちは、数の上で大幅に勝っている事、相手が和睦を申し入れてきた事で、「もはや、この戦いは終るだろう」と、完全にくつろぎの表情を見せているとの事・・・。
その報告を聞いた氏康・・・「やった!今夜だ!」
と、ばかりに、天文十五年(1546年)4月20日、夜遅く、まずは、朝定の陣にだけ夜襲をかけます。
ふいを突かれた朝定は、あっさりと討ち取られ、陣は壊滅状態となります。
その勢いに乗って、こんどは上杉憲政の陣へ突入!
敵将・憲政の首こそ取れなかったものの、皆散り散りに敗走し、こちらの陣も壊滅状態となります。
この氏康の奇襲を知った城内の綱成は、城兵総出で、晴氏の陣へ討って出ます。
あれよあれよという間に、総崩れとなってしまった陣を目の当たりにした晴氏は、北条側へ降伏を申し入れ、この戦いは北条の勝利に終ります。
包囲されている側が、城外に到着した援軍と合わせて、何倍もの大軍を討ち果たした・・・まれに見るこの合戦は、厳島(10月1日参照>>)・桶狭間(5月19日参照>>)の二つの奇襲とともに戦国屈指の夜襲『河越夜戦』として語り継がれる事となりました。
後に、晴氏は古河公方の座を追われる事になり、この時、上野平井城(群馬県)の逃れた憲政も、もはや関東管領は名ばかりの地位となってしまいます。
この憲政が、上杉謙信(長尾景虎)のもとに身を寄せて、その憲政のお供という形で、謙信が関東に乗り込んでくるのは、この後、16年後の永禄三年(1560年)7月の事・・・もう少し待たねばなりません。
.
「 戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事
- 窪之庄城を守れ!奈良の戦国~窪城氏の生き残り作戦(2023.07.17)
- 北条早雲、相模へ進出~上杉朝良と上田政盛の権現山城の戦い(2023.07.11)
- 武田信玄の諏訪侵攻~諏訪頼重との桑原城の戦い(2023.07.03)
- 細川・三好・篠原・長宗我部~小少将の数奇な運命by勝瑞城(2023.06.17)
- 三河統一を狙う松平清康と牧野信成~吉田城の戦い(2023.05.28)
コメント