毛利輝元・広島城を築城~その出会いと別れ
天正十七年(1589年)4月15日、毛利輝元が広島城の築城に取り掛かりました。
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先代・毛利元就の『三矢の教え』(11月25日参照>>)で有名な安芸(広島県西部)の戦国大名・毛利氏。
その元就が、まだ尼子氏の配下の一大名であった頃から、山陽・山陰に一大勢力を誇る大大名となり、さらに、その孫の輝元が後を継いだこの頃まで、毛利の本拠地は、ずっと郡山城でした。
郡山城は山間に造られた山城で、その地形を活かし難攻不落とうたわれた堅固な城です。
先の元就が、尼子氏から独立するきっかけともなった安芸郡山城の攻防戦(1月13日参照>>)でも、大内氏の援軍が到着するまでの4ヶ月間、尼子氏の総勢3万という大軍を、わずか8千で守り抜いた事もありました。
しかし、群雄割拠する戦国武将の中から織田信長が頭一つ出て、さらに豊臣秀吉へと時代が移り変わる中、政権が安定し、合戦自体も少なるうえ、その戦いかたも変化し、同時に城のありようも大きく変わります。
賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)後、天下を手中に治めた秀吉の傘下となった輝元は、天正十六年(1588年)、初めて上洛し、秀吉に謁見します。
その時、目の当たりにした秀吉の大坂城と聚楽第・・・
大きな堀と強固な石垣に守られながら、周囲の発達した水運を活かし、城下町を経済的に発展させ、町とともに栄える大坂城・・・。
館と称しながらも、立派な天守と本格的城郭を持ち、天皇のおわす都で、その権勢を誇るかのように輝く聚楽第・・・。(2月23日参照>>)
どちらも、山にはほど遠い平城です。
「もはや郡山城は古い・・・」
年が明けてまもなくの1月19日、輝元は、新しい時代の新しい城を建築する決意をするのです。
新しい城の建設地に選ばれたのは、当時五箇と呼ばれていた太田川河口の三角州・・・この地は、この後、広島と呼ばれる事となります。
天正十七年(1589年)4月15日に着工された築城工事は、三角州という地盤の弱さから難航を極めますが、おそらく輝元は、将来の水運の発達を最優先に考えたのでしょう。
おかげで、完成した城は、豊かな水量を抱えた掘割を持つ見事な物となります。
堀は大坂城に・・・縄張りは聚楽第に・・・そして、もちろん、城の建設と同時に城下町の整備にも力を入れます。
「広島に行けば、何かの仕事にありつける」
そう言って、人が城下に集まり、さらにお金も城下に集まってきます。
まだ建設途中の広島城を訪れた秀吉は、
「見事だ!わが聚楽第にまさるとも劣らない」
と、絶賛したと言います。
めったに人を褒めない秀吉が絶賛したのですから、さぞかし、すばらしいお城だった事でしょう。
やがて、慶長四年(1599年)、11年かがりの大工事を終え、広島城は完成します。
しかし、その完成の翌年・・・そう、あの天下分け目の関ヶ原の合戦(9月15日参照>>)です。
西軍の大将に担ぎ上げられた輝元自身は、関ヶ原にこそ出陣しなかったものの、代理の従兄弟・毛利秀元や吉川広家は出陣・・・ただし、合戦の前に徳川家康と広家が、「参戦しなければ、領土もそのまま、広島城にもそのまま住んでいいよ」という密約を交わしていたため、実際には合戦に参加しませんでした。
そして、ご存知のように、家康率いる東軍の勝利となり、天下分け目の戦いは終了します。
しかし、先ほどの約束は、密約だった事を口実に、見事に破られます(9月28日参照>>)。
家康によって毛利の領地は、周防・長門(山口県)のみに削られてしまい、広島城には、賤ヶ岳の七本槍としてその名を馳せた豊臣恩顧の武将でありながら、石田三成憎しで、家康の東軍として参戦した福島正則が乗り込んで来たのです。
「城に居座り、あくまでも抵抗すべきだ!」
と、意気あがる家臣たちを説得したのは、他ならぬ輝元でした。
ようやく訪れようとしている平和な時代・・・その流れに逆らえば、毛利の家の存続さえも危うくなるだろう・・・
その後、最後まで城に籠っていた家臣たちも、輝元の再三の説得に応じ、ついに広島城を明渡しました。
時代の流れに沿って誕生した最新鋭の城は、再び時代の流れに乗って本来の城主の手元を、わずか一年で離れていったのです。
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