戦国最後の天皇~後水尾天皇・徳川相手に王の意地
慶長十六年(1611年)4月12日、第108代・後水尾天皇が即位しました。
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上記の西暦でもおわかりの通り、戦国時代末期の天皇です。
とかく、武士の時代の天皇さんというのは、何となく影が薄い・・・(失礼な事言ってゴメンナサイ)
学生時代から持ってる歴史副読本の天皇家系図では、重要な天皇が太字になっているのですが、案の定、第96代・後醍醐天皇から122代・明治天皇まで、太字が無い・・・
それでも南北朝の時代は、なんだかんだとお目にもかかりますが、室町幕府が崩壊して、戦国に突入してからは、天皇も公家も、その時々に権力を握った武将に、少なからず影響され、従わざるを得ない状況となる事も多々あった事でしょう。
そんな中、本日の第108代・後水尾(ごみずのお)天皇・・・
開かれたばかりの江戸幕府に立ち向かい、前代未聞の譲位をやってのける天皇です。
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先代の後陽成(ごようぜい)天皇の第三皇子として生まれた後水尾天皇でしたが、なぜか父とはそりが合わず、先代天皇は弟・智仁(としひと)親王(12月29日参照>>)に後を継がせようとします。
しかし、ここに徳川の意向が・・・
そう、実は、徳川家康の後押しによって、慶長十六年(1611年)4月12日、第108代・後水尾天皇は即位するのです。
つまり、この時点では、実に徳川とは仲が良かった天皇・・・3年後の慶長十九年(1614年)には、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘・和子(6月15日参照>>)との結婚も決まります。
和子の母親は、ご存知、浅井長政とお市の方の娘・於江与(おえよ・江)さん・・・あの淀殿の妹ですから、家系にも申し分ない上、何より莫大な持参金がついて来る。
なんせ、この時代のお公家さんたちは、まともな収入源には期待できませんからねぇ。
徳川家にとっても、和子さんが生んだ皇子が次期天皇にでもなってくれたら、それこそ、あの藤原一族も、平清盛もがやっきになった外戚(天皇の母方の実家)をゲットできるわけですから、たとえこの時代でも、それは権威の象徴と言えるものです。
この結婚は、双方の利害関係が一致した、実に万々歳の縁組だったのです。
ところが、ご存知のように元和元年(1615年)5月・・・あの大坂夏の陣(5月8日参照>>)で豊臣家が滅亡してしまいます。
豊臣秀吉が、自分の出自が貧しい分、天皇家のような高貴な血筋への憧れが強く、生前は何かと天皇家を尊重していてくれていた事から、天皇はかなり豊臣家に好意を持っていたようで、この時の、秀頼と淀殿の自害には、少なからずショックを受けます。
しかも、その二年前の慶長十八年(1613年)6月16日に、徳川幕府は『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を発布していて、すでに天皇家への圧迫を強めていたのです。
「武家諸法度」じゃないですよ!
「公家諸法度」・・・つまり、天皇家の法律を武家が決めちゃったワケです。
政治だけではなく、元号の制定をはじめとする朝廷の事、宮中の事にも、すべて幕府が統制を取る・・・何をするにも幕府の許可がいるという事なのです。
前代未聞のこの法律に、天皇が反発しないわけがありません。
大坂の陣のゴタゴタや、家康の死によって、のびのびになっていた和子との結婚を、今度は天皇が引き伸ばしにかかります。
お酒を飲み、乱行を重ね、宮中の女官に手を出して、あろう事か皇子が誕生してしまいます。
さらに、翌年には、女の子も誕生・・・。
これを知った将軍・秀忠がブチ切れ、天皇の側近を次々と処分・・・と、またまた天皇がブチ切れ、「退位する~!」とゴネまくります。
何とか天皇をなだめて、元和六年(1620年)、やっとこさ、和子さんが入内します。
その間に、先の女官との間に生まれたかわいい皇子は原因不明の急死・・・徳川によって抹消されたとの噂の中、それでも、3年後には、和子との間に女の子・女一宮(おんないちのみや)が生まれ、その2年後には、待望の男の子・高仁(すけひと)親王が生まれました。
「どや!どや!これで思い通りやろが!」とばかりに、天皇は、「今度こそ退位する~!」と宣言。
先に書かせていただいたように、この結婚の徳川側の最大のメリットは、天皇の外戚ゲットですから、ここのところは、当然すんなりとOK!
高仁親王が次ぎの天皇になるべく準備が進められます。
ところが、その翌年、その高仁親王が亡くなってしまうのです。
公家諸法度に縛られっぱなしの天皇を一刻も早くやめたい天皇は・・・
「じゃぁ・・・女一宮でいいやんか」と幕府に提案します。
確かに女一宮は天皇と和子の子供・・・しかし、幕府にとって、それは、ちとマズイ・・・。
なぜなら、彼女が即位するとあの奈良時代、藤原家がその地位を守るために苦肉の策で天皇に即位させた第46代・孝謙天皇(7月4日参照>>)以来、859年ぶりの女性天皇の誕生になってしまうからです。
何か、徳川家が無理やり即位させた感の残るカッコ悪さ満載の天皇になってしまい、やっぱり、それは避けたい・・・なんせ、まだ、和子さんは20歳そこそこですから、この先、男の子を産む可能性も充分考えられます。
あせる事はありません。
その後も、天皇は何度も女一宮への譲位を打診しますが、その度に幕府は反対し続けました。
しかし、とうとう・・・というか、ついに・・・というか、
やっぱり・・・というか、
寛永四年(1629年)11月8日、天皇は、幕府に無断で、女一宮への譲位を決行!
天皇の堪忍袋の緒を切ったのは、あの春日局(3代将軍・家光の乳母)でした。
彼女は、その1ヶ月前の10月、無位無冠で天皇に拝謁するという、徳川の横暴もはなはだしい事をやってのけ、それに天皇は激怒してしまったとの噂・・・
女一宮は、第109代・明正(めいしょう)天皇として即位します(11月10日参照>>)。
さすがに、この春日局の前代未聞の出来事には、幕府もマズイと思ったのか、「天皇のおおせの通りに・・・」と、おとなしく引き下がりました。
結局、秀忠亡き後、第3代将軍となった徳川家光によって、後水尾上皇の院政が承認されて、やっと・・・天皇家と徳川幕府の間のギクシャク間が無くなるのです。
江戸幕府がゆるぎない物となる前の、戦国最後の時代に天皇となった後水尾天皇・・・なかなかのゴネぶりに、天皇家のプライドを垣間見せてくれましたね。
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コメント
歴史秘話ヒストリアなどを観た後に,ちょこチョコお邪魔しています。これからもよろしくです。
投稿: ハーブの住人 | 2014年9月17日 (水) 23時58分
ハーブの住人さん、こんばんは~
ヒストリアは録画していて、まだ見てないんですが、どんな感じだったんでしょうね?
見るのが楽しみです。
また、お暇な時に遊びに来てくださいませo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2014年9月18日 (木) 01時07分
私は高槻市の禅寺で日曜ごとの座禅に参加しています。隠元禅師が黄檗山万福寺を徳川幕府より賜るまで、高槻の普門寺で説かれていました。
やがて高槻の荒廃したお寺の数か所の復旧に尽力されました。私が通う禅寺もごみの天皇や隠元禅師や龍渓禅師によって復興されました。
お寺にはごみのお天皇の持念仏や書き物も多く残されています。
ごみのお天皇も波乱の多い時代をきっと座禅を通して心強く生き抜かれたのではと推察するのです。
私も座禅を通してごみのお天皇が83歳という長寿を全うされ後世に多くのものを残していただいたと思っています。
戦国最後の天皇~後水尾天皇・徳川相手に王の意地を読ませていただきさらに理解を深めさせていただきありがとうございました。
投稿: 中尾弘子 | 2017年6月 8日 (木) 15時30分
中尾弘子さん、こんばんは~
この時代の天皇家は仏教徒ですから、御寺との交流も深かったでしょうね。
コメントありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2017年6月 9日 (金) 02時01分