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2008年4月23日 (水)

戦国の伝達システム~のろしと密書と髻の綸旨の話

 

明治三十年(1897年)4月23日、前日の八王子の大火の報道に、東京朝日新聞が初めて伝書鳩で記事を送ったのだそうです。

最近でこそ、通信の発達で、伝書鳩と言えば、もっぱらレースで競われる趣味の世界となりましたが、ほんの50年くらい前までは、通信手段の一つとして大いに利用されていたんです。

なんせ、無線通信だと、言葉だけですが、鳩だと、写真のフィルムなどのちょっとした物品を運んでくれますから、ファックスの無い時代には、かなり重宝されてたワケですよね。

・・・と、言いながらも、私がそれほど伝書鳩にくわしく無い事は、お察しの通り・・・って事で、今日は、昔・特に戦国の通信・伝達システムについて書かせていただきます。

・・・・・・・・

世界の歴史では、シュメールエジプトの時代に、すでに上記の伝書鳩での伝達が行われていたようですが、それから見ると、意外な事に、日本で伝書鳩が使用されはじめるのは江戸時代・・・しかも、一部の大坂商人の間で、米相場などの伝達に使われていただだったようです。

だからこそ、明治三十年(1897年)4月23日、東京朝日新聞が初めて伝書鳩で・・・」ってな事になるワケで、それが記録として残るくらい、それまで使用されていなかった事になります。

では、日本人は、どんな伝達手段を使っていたのでしょうか?・・・って、もう、皆さんご存知ですよね。

そう、有名な『烽火(のろし)ってヤツです。

古代の日本では『飛ぶ火』とも呼ばれていたそうですが、すでに、飛鳥時代には、例の百済を通しての朝鮮半島との怪しい雲行きの中、対・朝鮮半島の最前線である対馬から、瀬戸内海沿いの山々を経由して大和へと続く、烽火連絡網が出来上がっていたといいますから、たかが烽火と言っても侮れません。

Dscf2444a600 そんな、烽火も、時代とともに発達していきます。
(写真→は関ヶ原古戦場の岡山烽火場=狼煙台…4月12日参照>>

烽火が最も頻繁に使われるようになる戦国時代には、カラーの烽火を含め、様々な上げ方工夫され、まるで、野球のサインのように・・・いや、ひょっとしたら、もっと細かく暗号のように使用されていたらしく、かなり複雑な内容まで、烽火で伝達できるようになります。

以前、豊臣秀吉伏見城のページ(8月31日参照>>)でも、少し書かせていただきましたが、秀吉が伏見に築いたこの城は、約100mの小高い丘に、8階建てという壮大な天守を持ち、晴れた日には、大坂城との通信が充分可能なように設計されていたと言います。

確かに、今でも、天王山のあたりから大阪城が見えますから、おそらく、伏見城からも見えただろうと思いますね。

この伏見城の場合は、烽火はもちろん、鏡などでモールス信号のような使い方もされていたようですが、上記の通り、この伝達方式は、あくまで、晴れた日に限られます。

・・・で、烽火が使えない時は、音での伝達が中心となります。

ドラマの合戦シーンでお馴染みの、太鼓ほら貝などが使われました。

戦国時代も前半の兵農が分離されていない頃には・・・

  1. ほら貝が鳴ったら、農作業をやめて家に戻る。
  2. 鐘が鳴ったら、合戦に出る準備をする。
  3. 太鼓が鳴ったら、武装して城(砦)に集合する。

などの、ルールが決まっていたという記録も残っています。

ちなみに、狼煙と書いてのろしと読むのもありますが、これは、オオカミの糞がよく煙を出すので、オオカミの糞を、烽火の材料に用いたからだそうですが、実際には、そんなに多くのオオカミの糞は集められなかったでしょうね。

もちろん、上記以外にも、伝書鳩のように手紙そのものを運ぶ伝達方法もあります。

日本では、鳩ではなく犬・・・つまり、伝書犬が使われたようですが(9月8日参照>>)、ホントにちゃんと届くのかなぁ・・・って気がしないでもありません。

その点、早馬はバッチリです。
なんせ、人間乗ってますから・・・。

ところで、「使者が密書を持って・・・」という伝達と言えば、有名な『髻の綸旨(もとどりのりんじ)ですが・・・

これは、あの南北朝時代に、後醍醐天皇綸旨(天皇の命令書)を送り届けた時の逸話から来ている物だそうで・・・

亘理新左衛門(わたりしんざえもん)なる武士が、後醍醐天皇の綸旨を、ちょんまげにくくりつけて泳いだ」
という、『太平記』に書かれていた事に由来するものです。

この太平記の記述から、後世には、敵の目にふれないよう、密かに運ぶ小型の密書の事「髻の綸旨」あるいは「髻文書」と呼ばれるようになり、あたかも、密書はまげにくくりつけて運ぶのが最もポピュラーなように思われていますが、これは、どうやら、後世の人の勘違いらしいです。

この太平記の部分は、足利尊氏によって幽閉されていた後醍醐天皇が吉野へと脱出して(12月21日参照>>)、そこに、続々と忠臣たちが集まって来ていて、「もうすぐ挙兵するゾ!」って事を、越前(福井県)金崎城交戦中(3月6日参照>>)新田義貞らに知らせる密書を運んでいた新左衛門が、この時、海に面した金崎城に泳いで近づいて行ったために、水に濡れないように「くくりつけて泳いだ」という苦肉の策だったワケで・・・

本来、天皇の綸旨や主君の手紙などを、を自分の髪にくくりつけるなんて行為は、とても恐れ多くて失礼な事・・・なので、通常は、どちらかと言うと、大事に大事に扱いながら、うやうやしくく運んでいたようですが、まぁ、どうしても見つからないようにしたい場合もありますからね~

また、戦国時代では、関ヶ原の合戦(9月16日参照>>)の時に、徳川家康から送られた東軍への寝返り最速の手紙に対して、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)「OK!寝返るよ」の返事を持った使者が、あまりにも土佐弁丸出しだったため、西軍に見つかって密書を奪われてしまい、合戦当日の盛親は、動くに動けなかった・・・なんて話もあるので、密書を運ぶ人の人選も大事かも知れません。

今や、通信と言えば光の時代・・・光ファイバーだと、普通の電話なんかの電気信号での通信の数千倍~数万倍の量の通信を送る事ができるのだそうです・・・早いワケだ!

これで、もう、髪の毛にくくる必要も、犬に持たせて不安にかられる必要も、標準語の練習もしなくてよくなったって事ですね。
よかった、よかった・・・
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