永禄三年(1560年)5月19日は、あの桶狭間の戦いのあった日です。
・・・と、昨年の5月19日も、桶狭間について書かせていただいたのですが、この合戦は、「天下を狙える位置にいた大大名・今川義元が、一田舎大名・織田信長に合戦の場で討ち取られる」という、下克上の戦国と言えど、まれに見る出来事である事から、戦国屈指の奇襲戦として、有名、かつ、ドラマチックに描かれます。
*桶狭間関連のページ
●【一か八かの桶狭間の戦い】>>
●【二つの桶狭間古戦場】>>
●【義元を討った毛利良勝と服部一忠】>>
当時、天下に一番近かった今川義元は討死し、うつけの織田信長が一気に全国ネットの舞台に踊り出る・・・この戦いは、二人の人生を大きく変えました。
そして、もう一人・・・この戦いで、人生を大きく変えた人がいます。
昨年もチラッとだけ、その事を書かせていただきましたが、この桶狭間の合戦で、13年間の人質生活にピリオドを打った松平元康=後の徳川家康です。
では、家康はその運命の日に、どのような行動したのか?・・・今日は、その日の家康さんについて書かせていただきましょう。
(文中の名前の表記は家康さんで統一させていただきます)
・・・・・・・・・・
昨年の記事でupした桶狭間の合戦図を見ていただくとわかりやすいと思いますが・・・
(ここをクリックすると合戦図が別窓で開きます>>)
当時、今川の傘下である大高城・鳴海城のまわりに、いくつもの砦(とりで)があるのが確認できます。
実は、もともと大高城・鳴海城は、織田傘下の城だったのです。
信長の父・織田信秀の時代は、まだ尾張一国の中で、群雄割拠していた時代・・・父が亡くなり、信長が家督を継いで、尾張統一に向かって走りはじめますが、それでも、傘下の国人たちの離反が相次いでいたのです。
そんな、父・信秀の死をきっかけに、織田から今川に寝返ったうちの一人が、鳴海城主・山口教継(のりつぐ)・・・彼は、自身の城だけでなく、大高城をも落し、この二つの城が今川の傘下となります。(4月17日参照>>)
そこで、信長は、これらの城を再び奪回すべく、城の攻撃の拠点となる砦を、城のまわりに構築したわけです。
それが、丹下砦・善照寺砦・中島砦・鷲津砦・丸根砦といった砦で、それらの織田方の砦に、義元の先発隊が攻撃を仕掛ける形で桶狭間の合戦はスタートします。
・・・という事で、桶狭間の戦いと言えば、何かと、義元が首をとられるアノ場所に話題が集中しますが、義元率いる大軍は、いくつもの場所に分散され、同時に合戦が行われていたのです。
しかし、砦はあくまで砦・・・城ではありませんし、その砦への支援も信長は行っていませんので、丸根・鷲津の両砦への攻撃は、今川方の大勝・・・砦は、またたく間に落とされてしまう事になるのですが、そんな先鋒の役を荷っていた一人が家康でした。
わずか2年前に、寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦いで初陣を飾った(2月5日参照>>)ばかりの家康ではありましたが、今回は、大高城への兵糧の運び込みという大役までまかされていました。
義元は、今回の織田攻めの拠点となる城を大高城に決めていたようで、そうなると、長期滞在するための兵糧確保が必要となります。
しかし、まわりに砦があるという事は=敵がウヨウヨいるという事で、その中を大勢の小荷駄隊(輸送隊)が進む事は容易ではありません。
家康は早速、大高城へ向けての道筋を偵察させますが、やはり、「道筋には多くの織田方の兵が見張りを立てていて、ここを突破するのは難しい」との報告を受けます。
しかし、偵察隊の一人・杉浦勝吉は・・・
「俺らが麓を通っても、山の上におる兵は、来ませんでした・・・これは、兵の数が少ない証拠・・・戦うほどの数はいないものと見ます」
と、進言。
家康は、この意見を採用し、輸送隊を多くの兵で守らせて出発させ、自分は、19日未明に丸根砦への攻撃を開始し、兵を砦に引きつけます。
籠城をやめ、決死の覚悟で野戦に撃って出る丸根砦の織田勢でしたが、兵の数は、わずか400・・・対する家康側は1000・・・
かくして、無事に兵糧は大高城へと運ばれ、激戦の末、丸根砦も壊滅状態となります。
一方、丸根砦の攻撃と同時に開始されていたのが、鷲津砦への攻撃・・・。
こちらは、今川の重臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)率いる2000の軍勢です。
鷲津砦では籠城策が取られましたが、やはりこちらも、砦を守る兵は400程度。
さきほど書いたように、信長が砦への援軍を派遣する事はありませんでしたから、そうなると時間の問題・・・次々に、討死するか敗走するかの状態となり、やがて陥落します。
丸根・鷲津の両砦が陥落したのは、19日の9時~10時頃・・・いずれも、午前中に決着が着いた事になります。
・・・で、昨年書かせていただいたように、勝利の知らせを聞いた義元・本隊は桶狭間にて昼休憩を取り、信長は家臣が止めるのを振り切って、一か八かの出陣をする事となる(2015年5月19日参照>>)わけですが、この時の家康は・・・
やはり、早朝から頑張った兵を休ませるために、先ほど兵糧を送り込んだ大高城へと入城し、自らも身体を休めながら、間もなく来るであろう義元・本隊の到着を待つ事にします。
ところが、そこに・・・「義元討死」の知らせが舞込んで来るのです。
にわかに信じ難いこの報告・・・「すわ!織田が攻めて来るゾ!」と、城中があわただしくなる中、さすがの家康は、「戦場では情報が錯綜する物だ」と、冷静な判断・・・しばらく様子を見る事に・・・。
そこへ、家康の伯父・水野信元の使者と名乗る浅井道忠という武士がやってきます。
「義元様がお討ち死になされましたので、明日にもここには織田勢が攻めて来るものと思われます」
しかし、信元は伯父とは言え、現在は織田の傘下に入ってる人物ですから、それでも、なお、疑いは拭い去れません。
結局、確認のために派遣していた自らの部下の報告で、やっと義元の死を信じる事となった家康・・・
「そうとなっては、この城(大高城)を守る意味がない」
と、城を退却する決意をしますが、外は夕闇迫る頃・・・
主君が討ち取られた今となっては、午前中の勝利もかき消され、もはや敗者の撤退となるわけで、これほど難しいものはありません。
家康は、夜を待って、闇にまぎれ、父・広忠が亡くなって以来、今川の物となっていた、もともとの本拠地・岡崎城へと戻る事を決意します。
深夜、撤退を開始する家康・・・「義元死す」のニュースはまたたく間に駆け巡ったと見え、周囲の土豪たちが、すでに織田の配下となっている中、先ほどの浅井道忠を道案内に一路・岡崎へ・・・。
しかし、その途中、三河の池鯉鮒(ちりゅう)という場所で、賞金首狙いの落ち武者狩りをしている土豪たち1000人余りに囲まれてしまいました。
絶体絶命のピンチ!
・・・と、ここで、
「我こそは、水野信元が家臣・浅井道忠である。主君より、今川勢の追撃をおおせつかっている!道を開けよ!」
道忠、一世一代の大芝居で、見事、ピンチを切り抜けたご一行・・・。
やがて、岡崎に到着し、まずは、岡崎城から数キロ離れた大樹寺というお寺に留まり、城の様子を探ります。
その時は、まだ残っていた今川の城番の兵たちも、織田の追撃を恐れ、数日後には、次々と退去・・・やがて城はカラになってしまいます。
おもむろに、状況を確認した家康・・・
「やだな~こんなところに城がおっこってるよん。
捨ててあるんなら拾っちゃお~っと、」
と、悠々と岡崎城を手に入れたのです。
6歳で織田の人質に出され、その後、今川の人質に・・・
あれから13年・・・19歳になったばかりの若き家康は、ここで人生で初めて城主となったのです。
最後に一つ・・・
義元が討ち取られたとは言え、今川の本拠地である駿府には、義元からすでに家督を継いでいる嫡男・今川氏真(うじざね)もいるわけで、人質の身でありながら、なぜ?家康は駿府に戻らなかったのか?
そこは、想像の域を出ない物ではありますが、やはり、家康本人が、氏真に勝つ自信があったから・・・という事でしょう。
この先の直接対決=掛川城攻防戦(12月27日参照>>)を予想してたかどうかはともかく、義元亡き後の今川家の行く末を、すでに見抜いていたのかも知れませんね。
だからこそ、家康は駿府に戻らず、岡崎を目指した・・・永禄三年(1560年)5月19日、この日は、家康にとって、運命の歯車が切り替わった日でした。
*今川に残された家康の妻子=築山殿(瀬名姫)&竹千代(後の信康)についてはコチラ↓のそれぞれのページからどうぞo(_ _)oペコッ
●【家康の妻=築山殿の汚名を晴らしたい】>>
●【家康はなぜ?信康を殺したのか】>>
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