長宗我部元親・初陣!長浜表の戦い
永禄三年(1560年)5月26日、土佐(高知県)中央部をめぐって長宗我部国親VS本山茂辰の長浜表の戦いでの長浜城への攻撃が開始されました。
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四国は土佐の中央部・・・土佐郡や吾川郡を支配する本山氏と、加美郡などを支配する長宗我部氏では、その領地の境界線をめぐって、たびたび争いが繰り返されていました。
しかし、ここにきて、公家の血筋である土佐の国司・一条房家が間に入っての本山清茂の息子・茂辰(しげとき)と、長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)の娘との結婚が成立し、両氏の関係は良好なものになりつつありました。
しかし、永禄三年(1560年)に入って間もなく、茂辰の家臣が、長宗我部方に属する船を襲撃し、船頭を殺害、積荷の米を略奪する・・・という事件が起こってしまいます。
茂辰は、この一件を、一家臣の個人的かつ勝手な行動であり、自らの関与を否定しますが、もともと房家の顔を立てての結婚、はなから仲が悪かった両氏ですから、このような事があると、一発で長宗我部が色めき立つのは当然の事・・・。
ちょうど、その頃の本山氏は、持ち城である長浜城(高知市)の修復中で、この工事に、国親の元家臣・福留右馬丞が関わっている事を知った国親・・・。
早速、城内にいる右馬丞と連絡を取り、永禄三年(1560年)5月26日、この城に夜襲を仕掛けたのです。
味方であると思っていた長宗我部の軍勢に、ふいに襲われた長浜城は、あっけなく陥落します。
寸前のところで奇襲を知り、命からがら脱出した長浜城主・大久保美作守は、すぐに、その足で、茂辰のいる朝倉城へと、敵襲を報告します。
報告を受けた茂辰は、2千の兵を率いて、翌27日、長浜城への救援に駆けつけ、一方の国親も、これを迎え撃つべく千の兵を用意・・・両者は、28日早朝、長浜城外の戸の本でのぶつかりをきっかけに合戦へと突入します。
長浜表(ながはまおもて)の戦いです。
そして、この合戦で、初陣を果たしたのが、国親の息子・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・。
この時、元親、22歳・・・戦国という時代においては、まれに見る遅さの初陣です。
それもそのはず、彼は小さい時から、無口でおとなしい性格・・・人に会っても、まともに挨拶もできないくらい引っ込み思案の子供でした。
さらに、見た目も色白で、いかにもひ弱そう・・・しぐさも女っぽくって、家臣たちからも「姫若子(ひめわこ)」=つまり、おネェ系とバカにされ、父の国親でさえ、彼の事を「うつけ」と呼んでいたのです。
22歳という遅い初陣は、いかに彼が期待されていなかったかの証拠・・・しかも、その時、槍の使い方がわからず、側近の秦泉寺豊後(じんぜんじぶんご)に、慌てて教えてもらったというエピソードも残っていますから、相当、期待されてなかったんでしょうねぇ。
・・・で、とりあえずその秦泉寺さんは・・・
「敵の目を狙って突きなされ!」との指示。
ところが、いざ合戦が始まると、元親は50ほどの手勢を引き連れ、敵のど真ん中に突入!
自らも、その槍で敵・二人を突き倒し、その勢いで本陣にまで突入し、倍ほどの数の差をものともせず、味方を大勝利に導く活躍ぶりでした。
世間の風って、ホント変わり身が早い・・・元親につけられていた「姫若子」のニックネームは、この日をさかいに「土佐の出来人(できひと)」と変わり、彼は一目置かれる存在となるのです。
そして、元親の大活躍で、勝利に終った長浜表の戦いでしたが、そのわずか半月後の6月15日、父・国親は急死してしまいます。
死の直前、彼が、息子・元親に残した遺言は・・・
「ワシへの供養は、本山を討つ事以外にはないと思え!」
・・・って、オヤジも変わり身、早いやんけ!
(こないだまで、「うつけ」て言うてたくせに(^o^;)・・・う~んパパったらぁ)
もちろん、ご存知のように、この後の元親は、「土佐統一」という父の夢を受け継いで、近隣勢力を次々と攻略していく事になるのですが・・・
この続きのお話は4月7日【永遠の好敵手~長宗我部元親と本山親茂】でどうぞ>>。
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コメント
自分の娘と息子が争いの原因ですね。よく現代のドラマに出てきそうな感じだ。家族のための戦いは激しいもんだ。
歴史人物の水着姿たち(ブログ)も続々と更新してます。仁徳天皇の母、おあん物語の主人公など更新です。
投稿: sisi | 2008年5月26日 (月) 16時33分
sisiさま、こんにちは~
相変わらず、描き上げられるペースがスゴイですね・・・
投稿: 茶々 | 2008年5月26日 (月) 18時17分
どうもw
相変わらず勉強になります!
元親が好きな私にはたまらないないようです+.゚(*´∀`)b゚+.゚
初陣ですかぁ。。。
いいですねww(何が
これからもがんばってくださいねw
投稿: 宗兼 彩 | 2008年5月26日 (月) 22時48分
宗兼 彩さま、コメントありがとうございます~
>初陣ですかぁ。。。・・・
何となくわかります。
初陣・・・初舞台・・・
何か、イイ響きです(#^o^#)
これからも、よろしくお願いします
投稿: 茶々 | 2008年5月27日 (火) 00時28分
泰泉寺豊後の守、タイセンジ、ではなく、
秦泉寺豊後守、ジンゼンジ豊後守、実名が泰惟です。土佐郡秦泉寺城主。父親の掃部カモンは本山氏に仕えたが弘治2年に国親の攻撃をうけて降伏した。以後、長宗我部氏に属したそうです。
(出典、長宗我部元親その謎と生涯、山本大著。新人物文庫。この文庫本には長宗我部の家臣の家臣団の人名が107名あって簡単な説明があります♪)
投稿: 青ゴムぞうり | 2012年5月22日 (火) 23時24分
申し訳ありません。あいさつ無しで書き込みして失礼いたしまいました。
いくさや人物の説明が分かりやすくて、面白いです。それに関連武将の戦いのリンクがあるので、便利です。
読みながら興味の流れに従ってパッと行けました。元に戻りやすいし、ありがたい配慮だと思いました。
長宗我部が四国の山を越えて伊予に行くには、馬の世話繁殖とかの技術の進化があったのかもです。
美濃から嫁をとった時に一緒に子馬か馬役を連れて来たのかもしれません。それまで四国が知らなかった本州の馬方さんテクで人や荷を運べたのかも知れないなあ、と勝手に想像しています。
投稿: 青いゴムぞうり | 2012年5月22日 (火) 23時54分
青いゴムぞうりさん、ありがとうございます。
一つめのコメントをいただいて、今、訂正させていただいたところでした。
ご指摘をいただいて、「私の持ってる本は?」
と思って読み直してみたところ、
漢字は「秦泉寺」なのに、ふりがなが「たいせんじ」とふってありました(爆)
読んだ時には、ふりがなのせいで、漢字も「泰泉寺」だと思いこんでしまっていたようです。
ありがとうございましたm(_ _)m
また、お気づきの箇所がありましたら、お知らせください。
PS:四国はもともと名馬の生産地ですからね。
そこに技術が加われば、鬼に金棒だったかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2012年5月23日 (水) 00時14分