前田玄以~ただ一人生き残った運命の別れ道
慶長七年(1602年)5月7日、豊臣家五奉行の一人・前田玄以が64歳でこの世を去りました。
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前田玄以(げんい)は、もともと織田信長・信忠父子に仕えていた武将・・・あの本能寺の変(6月2日参照>>)の時も、信忠とともに、二条御所に滞在していましたが、本能寺での父の異変を聞いた信忠の命で、幼い三法師(信忠の嫡男)を連れて、寸前のところで二条御所を脱出し、京の町から清洲城まで、その三法師を守り抜いた人です。
信長・信忠亡き後は、信長の次男・信雄の家臣となりますが、その信雄さんが例のごとく、羽柴(豊臣)秀吉の傘下に入っちゃったものですから(11月16日参照>>)、当然、彼も、秀吉の配下となります。
玄以さんは、根っからのマジメ人間で、ことのほか地道・・・自分の立身出世に対して野望をもくろみ、「スキあらば、のし上がってやろう」というようなところは、まったく無かった人であったらしく、信長も秀吉も、彼の事をことさら信頼していたようです。
秀吉が、その死のまぎわに、「秀頼を頼む・・・頼む・・・」と、くりかえし懇願した五大老と五奉行・・・その五奉行の中に、名を連ねるのも、その信頼の証しと言える物です(8月18日参照>>)。
その五奉行とは・・・
石田三成・浅野長政・増田(ました)長盛・長束正家・前田玄以の五人。
やがて、秀吉亡き後の慶長五年(1600年)、彼ら五奉行の運命の別れ道がやってきます。
そう・・・関ヶ原の合戦です。
上記の五奉行の中で、浅野長政は、秀吉の奥さん・ねねさんとは義兄弟という事で、系図的には最も豊臣家の近くにいるのですが、この少し前に起こった家康暗殺未遂事件に関与しているとの疑いがかけられたため、家督を息子・幸長に譲って隠居し、この関ヶ原の合戦の時には、ご本人は武蔵(埼玉県)に籠りっきりの生活を送っていました。
・・・で、結局、残る四人の中で、かの徳川家康へ向けての軍事行動の大義名分を掲げる書状が作成される事になるわけですが・・・
まずは、毛利輝元に西軍の総大将になってもらうための連署状・・・
これは、三成と大谷吉継との密議によっておおむね決定され、玄以・長盛・正家らの名が連なります。
次に、家康の豊臣に対する悪事を書き連ねたチクリ状である弾劾状・・・(7月18日参照>>)
これも、三成が草案を考え、玄以・長盛・正家らの署名がある物で、諸大名へと配られ、西軍への参戦の檄文の意味も込められていました。
つまり、この四人は、完全に同じ西軍のみこしの上に乗っていた状態となります。
ところが、この四人の中で、ただ一人、玄以だけが関ヶ原の合戦の後も、生き残るのです。
その違いは何なのでしょうか?
結局、関ヶ原の合戦当日、実際に武器を取り、関ヶ原まで出陣したのは、ご存知、石田三成と長束正家・・・残る二人・増田長盛と前田玄以は、豊臣秀頼の側近として、大坂城内に留まっていました。
ご存知のように、合戦の勝敗は、その日のうちに決し、実際に合戦に参加していた三成は捕らえられ斬首(10月1日参照>>)。
長束正家も、西軍壊滅の後に逃走し、居城にたどりつく前に追手に包囲され、その場で自刃してます(10月3日参照>>)。
上記の通り、彼ら二人は、実際に出陣していますから、負けた以上、その死は当然の事のように思いますが、後は、大坂城に残っていた二人です。
確かに、玄以は、スパイとして家康に大坂城内の様子を知らせていたと言われていますが、それなら長盛も同じ・・・いえ、むしろ長盛のほうが、重要な情報を逐一送っていて、その大胆不適なスパイ行為は、大坂城内の噂にもなっていたようで・・・
実際に、長盛の情報は、戦況を左右するような重要な機密であったと言われています。
それなのに、長盛は、まもなく家康によって高野山へ追放され、結局、最後には自害に追い込まれます(5月27日参照>>)。
一方の玄以のほうは、まったくの無傷・・・丹波(京都府・兵庫県)・亀山五万石は、そっくりそのまま残りました。
実は、ただ一つ・・・大坂城内の長盛と玄以に決定的な違いがありました。
それは、病気・・・。
玄以は、この合戦の直前に持病の中風が悪化していたのです。
それは、様子見ぃの仮病ではなく、本当に重症で、決戦の時には、まるで使い物にならないくらいの状況だったそうです。
その心の内はともかく、実際には何もできず・・・イコール大坂城内で中立の立場を取った事になり、所領は安泰・お家存続という結果になったのです。
冒頭に書いた玄以さんの、性格からしても、要領よく立ち回るような人ではなかったような気がしますので、やはり、この時は、本当に病気が辛かった・・・って事だったのでしょうね。
・・・だとすれば、人間、何が幸いするか、わからないものです。
慶長七年(1602年)5月7日という事は、その関ヶ原の合戦の二年後にはお亡くなりになったわけですが、おかげで前田家は残ったのですから・・・
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コメント
前田玄以さん私の中では5奉行の中でも目立たなくて、取り立てて戦功があるようでも、三成さんのような官僚って感じでもなくて
良くわからなかったです。(玄以さん不勉強でごめんなさい。)でも無事生き残ったのですから善行をたくさん積んでいたんだと思います。
投稿: エコリン | 2008年5月 8日 (木) 00時59分
エコリンさん、お早うございます~
前田玄以さん・・・私にとっても同じです。
特に、歴史に興味を持ち始めた頃は、やっぱ、どうしても石田三成さんから入ってしまいますから・・・玄以さんに関してはまったく無知でした。
初めて、二条御所から三法師を連れて脱出した話を聞いた時には、「おぉ!玄以・・・なかなかやるやないかい!」と思ってしまいました~
投稿: 茶々 | 2008年5月 8日 (木) 06時15分
通りすがりですが、記事に書かれている、〜長盛は、家康によって高野山へ追放され、まもなく自害させられています。の部分が気になったので、コメントしていきます。よろしくお願いします。
増田長盛は、“まもなく自害”ではなく、“まもなく改易”→いろいろあって、夏の陣ののち“自害”のようです。
長盛は、夏の陣で、息子が豊臣方につかなければ、そのまま生きていたと思われます。関ヶ原における長盛への罰は、改易であって、自害は夏の陣における罰だと思われます。ただ、“生きのこる=所領安堵”という解釈でいくならば、確かに前田玄以だけが生き残ったといえますね。
投稿: 通りすがり | 2014年1月21日 (火) 02時18分
通りすがりさん、こんにちは~
あ、ホントです…(*´v゚*)ゞ
「まもなく自害」ではなく「まもなく追放」で、その後に「自害」ですね。
訂正させていただいときます。
長盛の自害については、私なりの見解を、そのご命日の5月27日のページ>>に書かせていただいているのですが、はなから、このページにもリンクをしておけば良かったですね(今は、その文面のところにリンクを貼らせていただきました)。
おっしゃる通り「生き残る」というのは、武将としての「家が生き残る」という意味で、個人の生き死にという意味の「生き残る」ではありません。
ややこしくて、申し訳なかったです。
投稿: 茶々 | 2014年1月21日 (火) 12時02分
五奉行の1人であった前田玄以に対する印象は、『地味』ですね。ただし、織田信長に使えていた過去があったことは、知りませんでした。あと、豊臣秀吉が、玄以を五奉行の1人に抜擢したことを考えると、玄以のように、地道で真面目に生きれば、何らかの形で、運命が切り開けるのかもしれません。
投稿: トト | 2016年4月10日 (日) 09時41分
トトさん、こんばんは~
きっと、本当に病気だったんでしょうね~
投稿: 茶々 | 2016年4月11日 (月) 02時55分