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2008年5月19日 (月)

桶狭間の戦い~その時、家康は…

 

永禄三年(1560年)5月19日は、あの桶狭間の戦いのあった日です。

・・・と、昨年の5月19日も、桶狭間について書かせていただいたのですが、この合戦は、「天下を狙える位置にいた大大名・今川義元が、一田舎大名・織田信長に合戦の場で討ち取られる」という、下克上の戦国と言えど、まれに見る出来事である事から、戦国屈指の奇襲戦として、有名、かつ、ドラマチックに描かれます。

*桶狭間関連のページ
【一か八かの桶狭間の戦い】>>
【二つの桶狭間古戦場】>>
【義元を討った毛利良勝と服部一忠】>>

当時、天下に一番近かった今川義元は討死し、うつけの織田信長が一気に全国ネットの舞台に踊り出る・・・この戦いは、二人の人生を大きく変えました。

そして、もう一人・・・この戦いで、人生を大きく変えた人がいます。

Tokugawaieyasu600 昨年もチラッとだけ、その事を書かせていただきましたが、この桶狭間の合戦で、13年間の人質生活にピリオドを打った松平元康=後の徳川家康です。

では、家康はその運命の日に、どのような行動したのか?・・・今日は、その日の家康さんについて書かせていただきましょう。
(文中の名前の表記は家康さんで統一させていただきます)

・・・・・・・・・・

昨年の記事でupした桶狭間の合戦図を見ていただくとわかりやすいと思いますが・・・
(ここをクリックすると合戦図が別窓で開きます>>)

当時、今川の傘下である大高城・鳴海城のまわりに、いくつもの(とりで)があるのが確認できます。

実は、もともと大高城・鳴海城は、織田傘下の城だったのです。

信長の父・織田信秀の時代は、まだ尾張一国の中で、群雄割拠していた時代・・・父が亡くなり、信長が家督を継いで、尾張統一に向かって走りはじめますが、それでも、傘下の国人たちの離反が相次いでいたのです。

そんな、父・信秀の死をきっかけに、織田から今川に寝返ったうちの一人が、鳴海城主・山口教継(のりつぐ)・・・彼は、自身の城だけでなく、大高城をも落し、この二つの城が今川の傘下となります。(4月17日参照>>)

そこで、信長は、これらの城を再び奪回すべく、城の攻撃の拠点となる砦を、城のまわりに構築したわけです。

それが、丹下砦・善照寺砦・中島砦・鷲津砦・丸根砦といった砦で、それらの織田方の砦に、義元の先発隊が攻撃を仕掛ける形で桶狭間の合戦はスタートします。

・・・という事で、桶狭間の戦いと言えば、何かと、義元が首をとられるアノ場所に話題が集中しますが、義元率いる大軍は、いくつもの場所に分散され、同時に合戦が行われていたのです。

しかし、砦はあくまで砦・・・城ではありませんし、その砦への支援も信長は行っていませんので、丸根・鷲津の両砦への攻撃は、今川方の大勝・・・砦は、またたく間に落とされてしまう事になるのですが、そんな先鋒の役を荷っていた一人が家康でした。

わずか2年前に、寺部城(てらべじょう=愛知県豊田市)の戦い初陣を飾った(2月5日参照>>)ばかりの家康ではありましたが、今回は、大高城への兵糧の運び込みという大役までまかされていました。

義元は、今回の織田攻めの拠点となる城を大高城に決めていたようで、そうなると、長期滞在するための兵糧確保が必要となります。

しかし、まわりに砦があるという事は=敵がウヨウヨいるという事で、その中を大勢の小荷駄隊(輸送隊)が進む事は容易ではありません。

家康は早速、大高城へ向けての道筋を偵察させますが、やはり、「道筋には多くの織田方の兵が見張りを立てていて、ここを突破するのは難しい」との報告を受けます。

しかし、偵察隊の一人・杉浦勝吉は・・・
「俺らが麓を通っても、山の上におる兵は、来ませんでした・・・これは、兵の数が少ない証拠・・・戦うほどの数はいないものと見ます」
と、進言。

家康は、この意見を採用し、輸送隊を多くの兵で守らせて出発させ、自分は、19日未明に丸根砦への攻撃を開始し、兵を砦に引きつけます

籠城をやめ、決死の覚悟で野戦に撃って出る丸根砦の織田勢でしたが、兵の数は、わずか400・・・対する家康側は1000・・・

かくして、無事に兵糧は大高城へと運ばれ、激戦の末、丸根砦も壊滅状態となります。

一方、丸根砦の攻撃と同時に開始されていたのが、鷲津砦への攻撃・・・

こちらは、今川の重臣・朝比奈泰朝(あさひなやすとも)率いる2000の軍勢です。

鷲津砦では籠城策が取られましたが、やはりこちらも、砦を守る兵は400程度。

さきほど書いたように、信長が砦への援軍を派遣する事はありませんでしたから、そうなると時間の問題・・・次々に、討死するか敗走するかの状態となり、やがて陥落します。

丸根・鷲津の両砦が陥落したのは、19日の9時~10時頃・・・いずれも、午前中に決着が着いた事になります。

・・・で、昨年書かせていただいたように、勝利の知らせを聞いた義元・本隊は桶狭間にて昼休憩を取り、信長は家臣が止めるのを振り切って、一か八かの出陣をする事となる(2015年5月19日参照>>)わけですが、この時の家康は・・・

やはり、早朝から頑張った兵を休ませるために、先ほど兵糧を送り込んだ大高城へと入城し、自らも身体を休めながら、間もなく来るであろう義元・本隊の到着を待つ事にします。

ところが、そこに・・・「義元討死」の知らせが舞込んで来るのです。

にわかに信じ難いこの報告・・・「すわ!織田が攻めて来るゾ!」と、城中があわただしくなる中、さすがの家康は、「戦場では情報が錯綜する物だ」と、冷静な判断・・・しばらく様子を見る事に・・・。

そこへ、家康の伯父・水野信元の使者と名乗る浅井道忠という武士がやってきます。
「義元様がお討ち死になされましたので、明日にもここには織田勢が攻めて来るものと思われます」

しかし、信元は伯父とは言え、現在は織田の傘下に入ってる人物ですから、それでも、なお、疑いは拭い去れません。

結局、確認のために派遣していた自らの部下の報告で、やっと義元の死を信じる事となった家康・・・

「そうとなっては、この城(大高城)を守る意味がない」
と、城を退却する決意をしますが、外は夕闇迫る頃・・・

主君が討ち取られた今となっては、午前中の勝利もかき消され、もはや敗者の撤退となるわけで、これほど難しいものはありません。

家康は、夜を待って、闇にまぎれ、父・広忠が亡くなって以来、今川の物となっていた、もともとの本拠地・岡崎城へと戻る事を決意します。

深夜、撤退を開始する家康・・・「義元死す」のニュースはまたたく間に駆け巡ったと見え、周囲の土豪たちが、すでに織田の配下となっている中、先ほどの浅井道忠を道案内に一路・岡崎へ・・・。

しかし、その途中、三河の池鯉鮒(ちりゅう)という場所で、賞金首狙いの落ち武者狩りをしている土豪たち1000人余りに囲まれてしまいました

絶体絶命のピンチ!

・・・と、ここで、
「我こそは、水野信元が家臣・浅井道忠である。主君より、今川勢の追撃をおおせつかっている!道を開けよ!」
道忠、一世一代の大芝居で、見事、ピンチを切り抜けたご一行・・・。

やがて、岡崎に到着し、まずは、岡崎城から数キロ離れた大樹寺というお寺に留まり、城の様子を探ります。

その時は、まだ残っていた今川の城番の兵たちも、織田の追撃を恐れ、数日後には、次々と退去・・・やがて城はカラになってしまいます。

おもむろに、状況を確認した家康・・・
「やだな~こんなところに城がおっこってるよん。
捨ててあるんなら拾っちゃお~っと、」

と、悠々と岡崎城を手に入れたのです。

6歳で織田の人質に出され、その後、今川の人質に・・・

あれから13年・・・19歳になったばかりの若き家康は、ここで人生で初めて城主となったのです。

最後に一つ・・・

義元が討ち取られたとは言え、今川の本拠地である駿府には、義元からすでに家督を継いでいる嫡男・今川氏真(うじざね)もいるわけで、人質の身でありながら、なぜ?家康は駿府に戻らなかったのか?

そこは、想像の域を出ない物ではありますが、やはり、家康本人が、氏真に勝つ自信があったから・・・という事でしょう。

この先の直接対決=掛川城攻防戦(12月27日参照>>)を予想してたかどうかはともかく、義元亡き後の今川家の行く末を、すでに見抜いていたのかも知れませんね。

だからこそ、家康は駿府に戻らず、岡崎を目指した・・・永禄三年(1560年)5月19日、この日は、家康にとって、運命の歯車が切り替わった日でした。

*今川に残された家康の妻子築山殿(瀬名姫)竹千代(後の信康)についてはコチラ↓のそれぞれのページからどうぞo(_ _)oペコッ
【家康の妻=築山殿の汚名を晴らしたい】>>
【家康はなぜ?信康を殺したのか】>>
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

おひさしぶりです!
今日は義元と信長の戦いの日ですね。知らなかったです。有名ですからね。

このたび、私は歴史人物水着専門ブログが立ち上げました。毎日更新です。

投稿: sisi | 2008年5月19日 (月) 13時30分

sisiさま、ブログの立ち上げおめでとうございます。

「毎日更新」・・・・か・・・

私のほうは、最近は、なかなか絵を描く時間がとれず苦悩中です~

投稿: 茶々 | 2008年5月19日 (月) 14時42分

小説・「新三河物語」でも触れていますね。
この永禄3年・1560年は、戦国時代の非常に重要な年と言えます。
歴史学者では「1560年体制」と言う言葉を使い、「戦国動乱を終わらせる起点になった」と言う人もいます。織田信長が奇襲らしい奇襲(そうではないとも言われる)をしたのはこの桶狭間だけです。
「1560年代」で見ても、この年代に生まれた有名武将がたくさんいます。この世代は「出世運」がすごくいい人です。躍進ぶりで見るとハイペース・ハイスピードの人が多い。信長・秀吉・家康の「3大横綱級武将」のちょうど1世代後に当る人たち。

私は最近こう考えます。
天文生まれ=明治生まれ
永禄生まれ=大正2ケタ生まれ
天正前半生まれ=団塊の世代
慶長前半生まれ=新人類世代
寛永生まれ=平成2ケタ生まれ
慶長以降に生まれた人から見れば「戦国時代」は遠い昔ですからね。
確かに大久保彦左衛門から見れば、慶長生まれは「(ほとんど戦さを経験していないと言う意味で)苦労知らず」に見えます。

投稿: えびすこ | 2009年11月13日 (金) 09時26分

えびすこさん、こんにちは~

埋もれがちな、以前のページも読んでいただいてありがたいです。

そう言えば、昔「昭和元禄」という言葉もありましたね~

昭和は遠くなりにけり

投稿: 茶々 | 2009年11月13日 (金) 12時13分

昨日の大河、どう感想を書くべきか分からないまま、あちこち読んだ後に基本に立ち戻るべく?ここに辿り着きました。そう、桶狭間の戦いの時の松平勢はこんな感じだったはずで、杉浦勝吉の報告で決行、義元討死後の判断も浅井道忠の報告で決断、そんな“どうする家康”を自分は見たかったと気付きました。次回も視聴後にこちらを見ます。瀬名姫といえば池上季実子の悪印象が強いのですが、擁護記事を読んで有村架純もアリかと思いました。

投稿: 通りすがり | 2023年1月 9日 (月) 23時31分

通りすがりさん、こんばんは~

確かに…今回の「どうする家康」は、ちょっと変わった描き方でしたね。

大河ドラマらしいドラマを見たい気もしますが、
これまで何度も大河に登場した家康さんですから、作り手の方々も「今までとは違う家康を…」という事なのかも知れませんね。

そのワリには、岡田信長が、未だ尾張統一すら果たしていない段階なのに、すでに西洋風のマントを羽織った最終形態のいでたちで登場したのには
「イメージ通りやないかい!」
って突っ込んでしまいましたが…

投稿: 茶々 | 2023年1月10日 (火) 05時25分

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