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2008年5月 4日 (日)

荒木村重・謀反の真意は?

 

天正十四年(1586年)5月4日、利休七哲の一人荒木村重が52歳でこの世を去りました

・・・・・・・・・・

荒木村重・・・この人ほど、人生の前半と後半で生き方が変わった人はいないのではないか?と思うくらい、見事な転身をした人です。

まずは、主君・池田家の内紛に乗じて、池田勝政(勝正)高野山へ追放して、池田家を乗っ取ります

その後、池田家と肩を並べる和田家伊丹家を滅ぼして、摂津(大阪・兵庫)を統合し、一武将から大名へとのし上がるのです。

この斉藤道三を彷彿とさせる下克上ぶりを、あの織田信長は大いに気に入った様子で、そんな村重を特別待遇で、自らの傘下に迎え入れます。

元亀元年(1570年)に勃発した石山本願寺との合戦でも大活躍・・・天正元年(1573年)に浅井長政を滅ぼした時には、摂津守(せっつのかみ)という官位も授かっています。

Arakimurasige600a ところが、天正六年(1578年)の10月21日・・・いきなり、信長に反旗をひるがえし、本願寺+毛利方に寝返るのです。

信長に対して、一方的に『本願寺+毛利派に味方する宣言』を発して、居城・有岡城(兵庫県伊丹市)籠ってしまう村重・・・。

さすがの信長も、その真意がわからず、何度も使者を派遣して(12月8日まん中部分参照>>)、その心の内を探ろうとしたり、「籠城なんてやめな!帰って来いよ~」説得したりしています

あの信長さんが、ブチ切れずに、説得してる時点で、いかに村重が優遇されていたかがわかるのですが、信長さんじゃなくても、わからないのは、そんなに大事にされていた信長に謀反を起した彼の心理です。

本当のところは、もちろん、村重本人に聞くしかないわけですが、今のところの推理は二つ・・・疑惑説と野望説です。

その疑惑説というのは、石山本願寺戦での包囲中に、村重の部下が本願寺に兵糧を横流ししていた事と、毛利方の神吉城(兵庫県加古川市)で敵兵を逃がしてやった事・・・もちろん、この疑惑の真偽のほどもわかりません。

ただ、信長の息子・信忠が、(上記の件の事を)誰かにチクられて仕方なく籠城したんだよね」と、村重を慰めるような手紙を送ったとの記録もあり、ホントかウソかに関わらず、信長に疑いをかけられた時点で、「もう、後に退けない」と思った可能性もあります。

もう一つの野望説は、あの宣教師・ルイス・フロイス・・・。

フロイスは「信長に敵対するのが、その時、天下を取る一番の近道であった事を彼(村重)は知っていたのだ」という風な事を書いています。

確かに、信長の傘下にいる限り、村重は摂津一国の主でしかありません。

しかし、もし、現在戦っている石山本願寺戦で、本願寺+毛利が勝ったら、自分は、信長とその重臣たちの上へ行ける事になります。

うまくいけば、畿内一円を牛耳る事も不可能ではないかも知れません。

本願寺+毛利の勝利という思惑が、絵空事ではない事は、この時、高槻城主高山友照が、村重に同調した事からも推測できます。

もちろん、友照だけではなく、摂津や播磨(兵庫県)多くの武将が、この時点で毛利に寝返るのですから、やはり、それだけ勝算があったという事でしょう。

現に、この村重の寝返りで、信長はかなり窮地に立たされる事になるのです。

しかし、信長のほうが一枚上手でした。

信長は、翌11月、即座に朝廷を通じて、石山本願寺に和睦を申し込むのです。

この和解は、結局、本願寺側が拒否したため、合戦がこの時点で終る事はありませんでしたが、時間は稼げます。

そう、信長はその間に、村重に同調した者たちへの切り崩し作戦に入るのです。

武将一人一人に、再び、味方になるように説得します。

この時、茨木城主中川清秀をはじめ、先ほどの友照の息子・高山右近も、悩んだ末、親子断絶覚悟で、信長についています(1月5日参照>>)

そうしておいて、信長は、自らが率いる大軍で、有岡城に攻撃を仕掛けるのです。

そんな中、一年近く踏ん張った村重でしたが、頼みにしていた毛利の援軍も来ない事がわかった天正七年(1579年)の9月さすがに負けを覚悟し、自刃か?・・・と思いきや、わずかな重臣だけを連れて、有岡城を抜け出し、息子のいる尼崎城へと逃亡を計るのです。

この時の、村重の格好がイケてます。

背中には、兵庫壷と呼ばれる茶壷を背負い、腰には立桐鼓という鼓(つづみ)をくくりつけての決死の脱出!

冒頭に書きましたように彼は、『利休七哲の一人』・・・茶の湯の道具とお能の道具は命の次に大切な物・・・「離すもんか!」と身体に固定していたのです。

そして、城主のいなくなった有岡城は、村重が脱出してから、わずか1ヶ月後の10月16日に開城されるのですが、当然、謀反を起した張本人がいない事にお怒りの信長さん・・・。
(ちなみに、この時、幽閉されていた黒田官兵衛(孝高・除如水)が救出されてます=10月16日参照>>

残っていた重臣が、信長と話し合い、「村重の降伏と、尼崎城の開城を条件に、現在、有岡城内にいる者の命を助ける」という約束を、何とか取り付けました。

しかし、何と、村重はこれを拒否し、そのまま、尼崎城からも姿をくらまします。

つまり・・・城内に残った妻子や家臣を見捨てた事になるワケです。

結果、開城から2ヵ月後の12月16日・・・当然の事ながら、荒木一族の妻子や兵はもちろん、女中にいたるまでの約600人は、京の市中を引き回され、斬首やはりつけ、火あぶりによって処刑されてしまうのです(12月16日参照>>)

その後も、点々と逃亡生活を送る村重・・・(3月2日参照>>)

やがて、再び姿を現すのは・・・そう、本能寺の変で信長が死に、豊臣秀吉の天下がやって来た頃です。

出家して道薫と号していた村重は、趣味の茶の湯の関係からに住み、やがて、秀吉のお伽衆(主君の話し相手となる側近)となるのですが、もう、その頃には、茶道も能楽もプロ並み・・・というよりは、もはや芸術家として大成し、その後は、茶会に明け暮れる余生を送ったのです。

なんせ、利休七哲の一人ですから・・・。

確かに、有岡城を脱出する時の、一件を見れば、茶の湯や能を大事にしていたのはわかりますが、まるで、武将としての再起を、まったく忘れたかのようにも見えるのです。

もし、信長への敵対の要因が疑惑にあるのなら、信長が呼び戻そうとした時に、戻る事もできたはず・・・逆に、その要因が野望にあるなら、妻子と家臣を見捨ててまで、命永らえたのですから、是非とも再起を計っていただきたかった・・・。

そんな村重さんは、天正十四年(1586年)5月4日、主君を倒して下克上を成した頃とは、別人のように、芸術家・茶道家として、52歳の生涯を閉じるのです。

ホント・・・心の読めない人です。

もしかしたら、まったく違った要因が、まだ、隠されているのかもしれませんが・・・。
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コメント

 荒木村重は剃髪した当初は、自虐的に「道糞」と名乗ったそうですが、豊臣秀吉の配慮で「道薫」に改めたそうですね。逃亡の際の経緯は「へうげもの」で見ました。
 この記事では触れていませんが、江戸時代初頭の絵師の岩佐又兵衛は村重の忘れ形見です。

投稿: えびすこ | 2011年12月13日 (火) 16時12分

えびすこさん、こんばん~

>岩佐又兵衛は村重の忘れ形見…

海北友松の人生と似てますね。
やはり、心の底には、武士の魂を持っていたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2011年12月13日 (火) 17時54分

茶々様、こんばんは。

大河ドラマ「軍師官兵衛」に荒木村重、清水宗治出て来ますが、あまりにも対照的な二人ですね。

荒木村重の奥さん「だしさん」可哀そうでしたよ。

妻子、家臣を見捨ててまでして、何をしたかったんでしょうね。

投稿: 新発田重家 | 2014年7月13日 (日) 23時38分

新発田重家さん、こんばんは~

大抵のドラマでは信長さんが魔王のように描かれるので、女子供含む全員の処刑が残酷なイメージを受けますが、そもそも「開城したら助けたる」という説得に村重が耳を貸さず、その後も自分だけ逃げ回ったための見せしめですからね~

おっしゃる通り、そこまでして命ながらえたワリには、野心がまったく消えたかのような晩年が不可思議ですね。

投稿: 茶々 | 2014年7月14日 (月) 02時26分

村重は、信長に茶道具一式を献上させられるのがいやで頑張ったのでは。

その逃亡の仕方から、家族の命より茶道具の方が大事なことがわかりますよね。

投稿: bassa | 2014年12月13日 (土) 16時50分

bassaさん、こんばんは~

何か、「もう意地でも!!」って感じですよね~

投稿: 茶々 | 2014年12月14日 (日) 01時35分

相当決まり悪かったのか、“道糞”と名乗ったんですよね~。最初は。私の親も、大河ドラマを見て、「村重はひどいなぁ…。」と言ってます。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月 3日 (日) 14時48分

クオ・ヴァディスさん、こんにちは~

私も、「なんで?そこまで突っぱるかな~」なんて思いますね。

以前、「荒木村重の妻子の処刑」のページ>>でも書かせていただいてますが、信長は、「こうすれば許す」「あぁすれば許す」と何度も提案してるにも関わらず、かたくなに拒否して、夜逃げのように姿くらましますからね~
どーしちゃったんでしょ??

投稿: 茶々 | 2015年5月 3日 (日) 16時26分

「グズっぷり、ビビりもここまで極めれば立派!」と、某掲示板では大人気なんですよね。
村重さん…。
しかし置き去りにされただしさん達にはたまったものじゃありません。
岩佐又兵衛はお父さんをどう思っていたのか、気になる所です。

投稿: パイナップル | 2017年6月10日 (土) 00時07分

パイナップルさん、こんばんは~

村重の奥さんたちの時世の句を聞くと涙誘われますね~皆、自分の事より子供の事を気にしているのが尚更…

岩佐又兵衛に関しては…
以前ブログにも書いたんですが>>、本当に大坂の陣黒田屏風の制作を黒田一成が又兵衛に頼んでてくれたらウレシイなと思います。
あくまで希望ですが…

投稿: 茶々 | 2017年6月10日 (土) 02時32分

大変ご無沙汰しております。荒木村重が、下剋上経験者だったとは知らなかったです。村重に対する私の印象ですが、明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)のように、中途採用組の印象しかありません。村重が、織田信長に対して謀反を起こしたのは、おそらく、将来への不安と反骨精神が複合的に絡みあったのかもしれません。晩年になってからの村重は、道薫と名乗って、茶人になったようですが、不可解な物を感じましたね。もし、村重の主君が、徳川家康だったら、違った人生を歩んでいたのではないでしょうか。


投稿: トト | 2020年1月15日 (水) 19時56分

トトさん、こんばんは~

ホント村重さんは心の中が読めませんね~
あれだけ信長が説得しても受け入れなかったのですから、何かしらの強い信念があったのだとは思いますが…

投稿: 茶々 | 2020年1月16日 (木) 01時50分

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