応仁の乱・勃発
応仁元年(1467年)5月20日、東軍・細川勝元VS西軍・山名宗全の天下分け目の大乱『応仁の乱』が勃発しました。
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以前、『御霊合戦・勃発』(1月17日参照>>)のところで、書かせていただいたように、何を以って「応仁の乱の勃発」とするか?というのは、ビミョーなところではあります。
そもそもは、室町幕府8代将軍・足利義政と日野富子夫婦の間に男の子が生まれず、実子をあきらめた義政が、弟・義視(よしみ)を後継者に決定したにも関わらず、直後に長男・義尚が生まれ、わが子かわいさで、どうしてもあきらめきれない母・富子が起した次期将軍を巡っての後継者争いです(1月7日参照>>)。
御霊合戦以前にも、義尚の養育者である伊勢貞親(さだちか)が、正統な後継者である義視を亡き者にしようとした暗殺計画が発覚し、都を追放されるという事件も起こっています(1月21日参照>>)。
そんな中、勃発した先の御霊合戦は、その家督を巡っての、畠山政長(細川勝元派)と畠山義就(山名宗全派)による畠山家内の争い(12月12日参照>>)・・・しかし、「他家の争いには関与するな」という義政の言葉で、手を貸さなかった細川勝元は、そのせいで配下の政長が自刃寸前にまで追い込まれた事を反省し、危機一髪の政長を脱出させ、再起を約束します。
京都を脱出した政長は諸国を巡り、各地の武将に勝元のもとに馳せ参ずるように働きかけ、細川派に招集された兵は16万・・・対する山名派も11万を集め、大乱の予感を感じさせはじめます。
その間に勝元は、将軍を味方につけようと画策・・・。
もともと、勝元が政長を推せば政長を畠山氏のトップと認め、次に山名宗全(3月18日参照>>)が失脚中の畠山義就を連れてくれば、義就を畠山のトップに戻すといった具合に、あっちにいい顔、こっちにいい顔と八方美人的な事をやっていた義政の逆手をとって、勝元は、将軍の住まう花の御所に細川の陣を敷いたのです。
都はすでに、大乱の予感ムンムンですから、戦火から御所を守るという名目で御所を陣取り、義政から強引に「都を荒らす山名方追討」の命令を取り付け、錦の御旗ならぬ将軍旗を掲げる事に成功し、その総大将に義視を任命したのです。
これが、5月の出来事・・・つまり、5月20日を勃発とするのは、この出来事を以って勃発と判断しているワケです。
・・・で、対抗する宗全は、花の御所から数百メートル西の自宅に陣を構えます。
ここが、現在も織物で有名な西陣です。
以後、御所を陣とした細川派は東軍、その西に陣を構えた山名派は西軍となります。
都のあちこちに放火などを繰り返しつつ、やがて秋に、勝元が相国寺に本陣を構えると、それと前後して、西軍に大内政弘が参戦します。
山陽の雄の参戦に士気あがる西軍は、その勢いのまま10月3日に、勝元の本陣・相国寺に総攻撃を仕掛けます(10月3日参照>>)。
しかし、相国寺は全焼するものの、合戦自体は引き分け・・・ともに、敵に大打撃を与えるまでには至りませんでした。
しかも、本気モードの京都の市街戦は、この最初の一年でほぼ終了・・・集まった各地の武将が徐々に地元に帰りはじめたため、戦場の範囲は広がるものの、雌雄を決するような大きな合戦は起きる事はなかったのです。
御霊合戦のページで、「これだけ長期にわたって、これだけ多くの大軍が対峙したにも関わらず、名のある大将が命を落とす事もなく、最終的に決着さえ着かなかったとても不思議な乱」と書かせていただいたのは、こういう事です。
日本史上に残る十一年に及ぶ大乱なのに・・・。
というのも、地方の武士たちには、東軍が勝っても西軍が勝っても、都での勝敗は、地方に帰れば、意味のない事だったのです。
たとえば、以前、郵政民営化問題で政界が揺れた事がありましたが、当時、小泉チルドレンと騒がれた人が、たとえ、全国で自民党が圧勝したとしても、実際に地元の選挙で勝たなければ、その人自身は議員になれない・・・という感じでしょうか?
結局、この合戦の勝敗で決まるのは、将軍の後継者と、勝元が強いか宗全が強いかといった漠然とした物だけ・・・って事で、乱はどんどんウヤムヤな雰囲気になっていくのです。
それなら、当の将軍の後継者争いは?
実は、先に書いた、勝元が御所を陣取って、山名追討命令をもらった・・・というくだり。
ここで、一番困っていたのは、富子だったのです。
正統な後継者として義視を支持する勝元に対抗すべく、同等の実力者である宗全に、わが子義尚を支持するように画策していたのですから・・・。
なのに、将軍の住まう御所・・・つまり、富子もここに住んでいるわけで、彼女は、敵である勝元に守られながら、わが子を支持してくれる宗全の追討を見守る事になってしまう事になり、こんなシャクな事はありません。
そこで、さすがは強気の富子・・・考えれば、彼女の標的は義視ただ一人・・・他の誰が味方しようが、敵に回ろうが、義視さえいなくなれば、次期将軍は、わが子に回ってくる事になります。
富子は、内部からのかく乱作戦に出ます。
あの追放されていた伊勢貞親を復帰させるのです。
富子の予想通り、自分の暗殺計画を立てた男の復帰を認めた兄・義政に対して、不信感を抱きはじめた義視は、何と!総大将をほっぽり投げて、都を出て行ってしまうのです。
やっとこさ、説得されて戻って来た一年後には、もはや御所内に彼の場所はありません。
そこで、義視も考えます。
「結局、勝ったほうが将軍になれるんなら、東軍でも西軍でも関係ないじゃん!」
と、いきなり、西軍へ寝返るのです。
しかし、さすがに、これは、世間の反感を買ってしまう結果に・・・結局、この出来事で義視は官位を剥奪され、9代将軍の座は必然的に義尚の物に・・・。
富子の作戦勝ちといったところでしょうか・・・。
・・・で、このように将軍家の争いも終焉に向かう中、勝元・宗全という二本の柱が相次いで亡くなり、決着らしい決着も着かないまま、文明九年(1477年)に、応仁の乱は終わりを迎える事になります。
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