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2008年5月21日 (水)

長篠の戦い・もう一人の伝令~信長勝利の鍵

 

天正三年(1575年)5月21日は、鉄砲の出現によって、戦国の合戦を大きく変えたと言われる長篠設楽ヶ原の戦いのあった日です。

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この長篠設楽ヶ原の合戦の流れについては、2011年のページ>>で見ていただくとして・・・

本日は、
どうしても派手に目立つ鉄砲の使用と、武田騎馬隊を見事に防いだ馬防柵(まぼうさく)に注目が集まり、それらばかりを勝因と思いがちな長篠の戦いの中で、実は、長篠城に籠る奥平貞昌織田信長との連携プレーが、この戦いに大きく関わっていたのだというお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・

先日、武田軍に囲まれて風前の灯となった長篠城(4月21日参照>>)から、岡崎城にいる徳川家康のもとへ、史上最強の伝令・鳥居強右衛門(すねえもん)が、救援要請に走った事を書かせていただきました(5月16日参照>>)

そのページでは、強右衛門が長篠城へ戻る途中に武田方に捕まり、磔(はりつけ)にされた事、その2日後の18日に、信長・家康率いる大軍が決戦の地である設楽原(したらがはら)に姿を見せたところまでお話させていただきました。

実は、信長・家康が設楽原に到着したタイミングに合わせて、もう一人の伝令が、長篠城からこの大軍へ向けて派遣されていたのです。

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長篠合戦図屏風(犬山城白帝文庫蔵)

その18日、長篠城の西に広がる設楽原の向うに、信長・家康率いる3万の大軍の黒い影を確認する勝頼・・・と同時に、長篠城内にいる奥平貞昌も、その影を確認する事になります。

援軍の到着に士気あがる長篠城内・・・

しかし、先日の救援要請の時に、強右衛門に「長篠の兵糧は、あと4~5日しかもたないので一刻も早く救援を・・・」という連絡を持たせましたが、実際に、この日になってみると、意外に兵糧は長持ちし、まだ数日は大丈夫な状況でした。

貞昌は考えます。
「城が危ないから一刻も早く・・・とばかりに、援軍がムリな攻撃に出ては元も子もない」
と・・・。

そこで、名乗り出たのが、鈴木金七という男でした。

それこそ、強右衛門が磔にされたのを目の当たりにしたばかり・・・相当な勇気がいった事でしょうが、彼は・・・
「城は、まだ大丈夫。
本当に危ない時は鐘を鳴らすから、それまでは、そちらのタイミングで作戦を練って攻撃に出てほしい。」

という貞昌の言葉を携えて、強右衛門同様、長篠城の排水口から脱出し、武田の包囲をくぐり抜け、一路、信長・家康連合軍のもとへと、ひた走ったのです。

途中、危ない場面が一度だけありました。

金七が鳴子(なるこ)を足にひっかけてしまい大きな音が鳴り響いてしまったのです。

鳴子とは、時代劇などでもお馴染みの、ロープに竹や板をくくりつけて、あたりに張りめぐらして、ロープに引っかかると音が鳴る・・・本来は、田畑を動物から守るための仕掛けです。

ところが、その鳴子の音を聞いた武田の兵は、「川の水の流れが強いせいだろう」と、まったく気にしなかったのです。

設楽原は「原」との名前はついているものの、いくつもの細流が走っていて(昨年の合戦図参照>>別窓で開きます)、しかも、旧暦の5月後半と言えば、梅雨の真っ只中・・・連日の雨で、おそらく、実際に水かさが増えていたのでしょうが、つい先日、強右衛門にも、一度は包囲網を突破されちゃってるんですから、「ちょっとは気をつけろよ!」と言いたい気もします。

・・・が、とにかく、この田の兵ののほほんさで、このピンチを切り抜けた金七は、その夜のうちに無事、徳川軍の陣に到着し、貞昌の言葉を伝える事ができたのです。

実は、この事が、長篠の戦いにおいて、とても重要な事・・・。

そうです。
もし、「長篠城が危ないから」と、信長が、設楽原に到着後、すぐに決戦に挑んでいたら、当然、あの馬防柵は造れないワケですから・・・。

この伝令のおかげで、信長は、ゆっくりと馬防柵を講じ、当初の計画通りの作戦を決行する事ができたわけです。

信長の作戦は、長篠城を囲んでいる武田勢を、こちらの設楽原におびき出して、ここで戦う事でした。

そのために、まずは、「準備が整っていない」「兵士の士気が低下している」などのウワサを流して、勝頼が、設楽原へ撃って出るよう画策します。

これには、信長の重臣・佐久間信盛が、武田に寝返るふりをして密書を送ったなどとも言われていますが、それが事実で無かったとしても、勝頼がこの時点で、「信長は弱い」と思い込んでいた事が確認できる家臣への手紙が残っている事から、この作戦は成功していたと言えるでしょう。

事実、武田軍は、一部の軍を長篠城の包囲に残しただけで、ほとんどの軍勢を設楽原へと進軍させているわけですから・・・。

もちろん、この間に、かの馬防柵も構築します。

さらに、戦いの前日の深夜には、そうやって設楽原に出て来る武田軍を背後から脅かすべく、鳶ヶ巣山砦に奇襲を決行する別働隊も発進させたのです(5月20日参照>>)

伝令によって余裕ができた事で、ここまで準備万端整える事ができたわけですが、さらにもう一つ・・・それは、天候です。

先ほども書きましたように、旧暦では、この時期は、梅雨の真っ最中・・・そう、雨が降ったら鉄砲は使えないわけです。

本来なら、この梅雨時に鉄砲を大量に使用する戦い方など、絶対にできないのです。

信長や勝頼に限らず、この頃の戦国武将は、もうすでに多くの鉄砲を所持していました。

にも関わらず、あまり鉄砲が主流にならなかったのは、それが、かなり天候に左右される点がネックになっていたからです。

伝令によって日付に余裕が生まれた事で、信長は梅雨の晴れ間の快晴の日を選んで合戦に挑む事ができたのです。

つまり、この伝令がなければ、武田軍が設楽原に出る事も、そして馬防柵も鉄砲も無かったし、・・・当然、信長・家康連合軍の勝利も無かったかもしれないのです。

この長篠の戦いの後、奥平貞昌が、信長の一字をもらって信昌と改名するのも、一城主から美濃加納10万石の大名へと大出世するのも、ひとえに、その成功の鍵が、かの伝令にあったからではないでしょうか。

ちなみに、余談ですが、伝令の大役を果たした金七さん・・・強右衛門の事もあり、決戦が間もなくである事も踏まえて、「城に戻る必要は無い」という信長の命により、そのまま、徳川軍に留まったという事で、再び危険にさらされる事はなかったそうです。
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