太田道灌とライバル・長尾景春~用土原の戦い
文明九年(1477年)5月13日、あの諸葛孔明の再来とうたわれた太田道灌の、後半生の最大のライバルであろう長尾景春・・・この二人の一戦=『用土原の戦い』がありました。
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永享十一年(1439年)に起こった『永享の乱』(2018年2月10日参照>>)において、第4代鎌倉公方・足利持氏が破れ、自刃しました。
しかし、その後、その持氏の遺児・足利成氏が、勝手に古河(こが)公方を名乗りはじめ、公方の座を奪回すべく関東一円で乱を連発し、大暴れしはじめたのです。
そのために、関東管領(公方の補佐役)・扇谷(おうぎがやつ)上杉定正の執事であった太田道灌(どうかん・資長)が、その古河公方から関東を守るべく江戸城を建築・・・と、このお話は以前に書かせていただきました(4月8日参照>>)。
当時、関東管領職をあずかっていたのは、その扇谷上杉家と山内(やまのうち)上杉家・・・ともに上杉という同族の両家ではありましたが、その力関係においては、完全に山内のほうが上で、扇谷は、あくまで山内の補佐のような役回りでしたが、やはり、そこは同族・・・対立する事はなく、強力タッグを組んで、古河公方との激戦をこなしていました。
その山内上杉家の執事だったのが、長尾家です。
そんなこんなの文明五年(1473年)、一連の古河公方との合戦で、長尾家の当主・長尾景信が亡くなってしまいます。
・・・で、家督は景信の嫡男である長尾景春(かげはる)に・・・と、すんなり決まればよかったのですが、ここに物言いをつけたのが主君である山内上杉顕定(あきさだ)です。
執事とは言え、かなりの勢力を持っている長尾家は、主君から見れば少し不安・・・ここは一つ、嫡流への相続を止めさせ、その力を分散させるためにも、景信の弟・長尾忠景(ただかげ)に、家督を継がせようとしたのです。
当然、景春は、怒り心頭・・・主君・上杉相手に反乱を起す計画を立てはじめます。
もともと、顕定が不安に思うくらいの力を持っていた景信の息子である景春・・・しかも彼自身がなかなかの勇将ですから、ひとたび、「乱を起こすゾ!」と声をかければ、彼のもとには上杉に不満を持つ者たちが続々と集まってきます。
そして、文明八年(1476年)6月、乱の旗があがり、その勢力は徐々に拡大されていったのです。
- これを『長尾景春の乱』と言い、今回の用土原の戦いもその乱の中の戦いの一つです。
この状況を見て、「これはマズイ!」と思った道灌は、定正と顕定に・・・
「景春と仲直りするか、それとも潰すか・・・とにかく、早く手を打たねば・・・」
と、進言するのですが、その時、定正と顕定は、来るべき古河公方との決戦をひかえて、武蔵(埼玉県)五十子(いかつこ)に布陣の真っ最中・・・。
「そんなモン、相手してられるか!こっちは、古河相手に必死なんじゃ!」
と、一蹴されてしまいます。
ところが、翌・文明九年の正月・・・その五十子の陣に、景春率いる2500騎が奇襲をかけたのです。
それ以前から、景春の反乱を知って、そっちに乗り換える者や、戦線を離脱する者が相次いでいたうえ、奇襲をかけられた事で、五十子の陣はあっけなく落とされてしまいます。
命からがら上野(こうずけ・群馬県)へ亡命する定正と顕定・・・道灌も、彼らとともに一旦、上野へと向かいます。
勢いに乗った景春には、関東の国人や地侍が次々と味方になります。
その中には、太田氏に旧領を奪われていた鎌倉幕府の名門・豊島氏もいましたが、4月に『江古田・沼袋の戦い』(4月13日参照>>)で、この豊島氏を破った道灌は、何とか五十子を奪回し、定正と顕定を五十子に復帰させる事に成功します。
しかし、状況は未だ一触即発・・・しかも、景春側が明らかに有利な状況は変わりません。
この状況を一変すべく、チャンスをうかがう道灌・・・そこへ、景春が梅沢(埼玉県本庄市)に向けて出陣したとの知らせが舞込んできます。
文明九年(1477年)5月13日、知らせを聞いて即座に出陣し、景春の背後に迫る道灌・・・それに気づいた景春は、居城・鉢形城へと軍を戻そうとしますが、武蔵・用土原(埼玉県深谷市)の針金において、道灌の軍勢とぶつかります。
その戦況は・・・
不意を突かれた形になった景春の軍勢は浮き足立ち、またたく間に総崩れとなってしまい、道灌にとってはラッキーな大勝利となったのです。
その後、鉢形城へと逃走した景春を囲んだ道灌でしたが、こんな時に限って、例の古河公方が動きはじめ、この時は、それ以上景春を追い詰める事はできませんでした。
この、道灌と景春との戦いは、途中、景春と同族の長尾為景(ためかげ・上杉謙信の父)らを巻き込みながら、翌年、道灌が鉢形城を落し、景春が古河公方を頼って落ち延びるまで、何度となく繰り返される事になりますが、景春が頼った古河公方も、その頃には、最初に大暴れした頃のテンションはなく、長期に渡る合戦続きでややお疲れ気味・・・。
結局、文明十四年(1482年)には、古河公方が両上杉氏と和睦する事になり、一連の合戦は終焉へと向かいます。
しかし、こうして一連のなりゆきを、最後まで、ご覧になってくださったあなた・・・
「両上杉は何やっとんじゃ!ガンバってんのは道灌ばっかりやん!」
と思いませんでしたか?
実は、そう思ったのは私たちだけではありません。
道灌の主君である扇谷上杉定正・・・彼も、この事に気づいていました。
道灌の強さに驚き、それに脅威を抱いた定正は、いつか取って変わられるのではないか?という不安にかられ、結局、道灌はこの主君の手によって、入浴中に襲われ、その命を落す事になるのです(7月26日参照>>)。
冒頭に書いたように、諸葛孔明の再来と言われるほど戦い方がうまかった道灌・・・お風呂での謀殺は、「そんな道灌らしくない死に方だ」と、よく言われますが、それだけ、合戦以外の場所で、主君に殺されるとは、考えてもみなかったのかも知れません。
入浴中は無防備だからなぁ・・・特にシャンプー中は要注意!ですね。
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