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2008年5月 6日 (火)

後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣

 

元和元年(1615年)5月6日、大坂夏の陣の道明寺・誉田の戦いにおいて、後藤又兵衛基次が壮絶な討死を遂げました

合戦の流れに関しては、昨年の5月6日に書かせていただきましたので(昨年の5月6日参照>>)、そちらで、見ていただくとして・・・今日は、後藤又兵衛基次さんを中心にお話を進めさせていただきます。

・・・・・・・・・・

大坂冬の陣の和睦が成立(12月19日参照>>)して、この夏の陣が勃発するまでの間、大坂城は、ひとときの平和に包まれます。

この時、大坂城内で、基次の背中を流した長沢黒兵衛は、彼の全身に無数の刀傷・矢弾の跡を見つけます・・・それとなく、数えてみると53ヶ所も・・・。

Gotoumototugu600 そう、後藤基次は、この生き馬の目を抜く戦国の世を、おのれの槍一本で生き抜いてきたツワモノ・・・もともとは、黒田孝高(如水)長政父子に仕えた重臣でした。

九州征伐をはじめ、文禄・慶長の役関ヶ原の合戦でも、数々の武功をあげ、大隈城1万3千石を預かっていました。

しかし、慶長十六年(1611年)、突如として黒田家を離れるのです。

どうやら基次さん・・・お父さんの孝高さんとは大丈夫だったものの、息子の長政さんの事は、好きじゃなかったようです。

長政の小姓をやっていた基次の息子・基則が宴会の席にて、長政の命で小鼓を打ったのを・・・
「ワシの息子は芸人か!」
と怒ってみたり・・。

長政が、九州征伐で失態を犯し、反省の証しに頭を坊主にしたら・・・
「失敗するたんびに毛ぇ剃っとったら、死ぬまでにマゲ結われへんでぇ」
とからかってみたり・・・。

長政が敵将と戦ってる時に、助け舟を出さず見てるだけだったり・・・。

もちろん、それは長政さんサイドからも言える事で・・・。

朝鮮での戦いの最中に、基次がトラを斬った時・・・
「サムライのする事か!兵を斬れ!兵を・・・」
と、怒ってみたり・・・。

あくまで一城主に過ぎなかった基次が、ともに戦った大名たちに慣れ慣れしく話すのを
「タメ口やめろや!友達か!」
と、イラついてみたり・・・。

こういうのを犬猿の仲って言うんでしょうね。

・・・で、結局、腕に覚えのあった基次は、
「なにも、このまま、いやいや黒田家に仕えなくたって、俺ほどの武将・・・なんぼでも仕官の口はあるわい!」
と、ばかりに、バッサリと縁を切って浪人の身になったワケです。

しかし、意外にもなかなか仕官の口が見つからない・・・

いえ、実はあったんです。

それこそ、基次ほどの人物ですから、小倉細川忠興や、広島福島正則らが、フリーになった彼を獲得しようと、動き始めていたのですが、仕官の話が出るたんびに、それをぶっ潰していたのが、かの長政・・・大手プロダクションとケンカ別れしたタレントには、なかなか次の仕事が回って来ないワケですよ。

しかも、彼は、バリバリの4番打者・・・それなりの自信もあります。

せっかく、フリーになったんだから、大リーグ並みの・・・それ相当の年棒でなければ、そのプライドが許しません。

しかし、どんなに腕が立っても、仕官しなければ、ただの浪人・・・あーだ、こーだ、と言ってるうちに、彼は落ちぶれるだけ落ちぶれて、京の都で、物乞いまでするハメに・・・。

そんなこんなの慶長十九年(1624年)、例の方広寺鐘銘事件(7月21日参照>>)が勃発し、豊臣と徳川の間に不穏な空気が流れはじめ、大坂城には続々と、浪人たちが集まりはじめるのです。

すると、どこでどう聞きつけたのか・・・あの九度山に幽閉されていた真田幸村のもとに使者が訪れたように(10月9日参照>>)、基次にも、「大将として迎え入れる用意がある」との知らせがやって来るのです。

ここに、豪傑・後藤又兵衛基次、復活!
良かった・・・おめでとう!後藤君・・・

一度、底辺を見・・・そして、這い上がって来た男は、最後の主君・豊臣秀頼と大坂城を守るために、命を賭けて戦う事になるのです。

かくして、元和元年(1615年)5月6日一足早く大坂城を抜け出し、真田幸村とともに、撃って出る決意を固めた基次は、道明寺近くの最前線に陣取り、怒涛のごとく浴びせられた鉄砲に、その胸を撃ち抜かれて壮絶な最期を遂げるのです(2016年4月30日参照>>)

・・・と言っても、その波乱万丈の人生を裏付けるかのように、生存説が・・・そう、結局、どこを探しても彼の首は見つかりませんでした。

Dscf1036a600 幸村とともに、秀頼を守って薩摩(鹿児島県)に落ち延びたとも(5月8日参照>>)、数年後に再び京に戻って来たとも、四国の道後温泉で湯治をしていたとも・・・噂は様々に語り継がれています。

現在の大分県には、彼の戒名と同じ名前のお墓があるのだそうで、それならば、ご命日は承応三年(1654年)1月29日となるのですが・・・死してなお、世間を騒がせるのは、大物の大物たる証拠と言えるものでしょうね。

追記:生存説ついでに、又兵衛・出生の秘密の噂もあります→後藤又兵衛は黒田官兵衛の実の息子?>>
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