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2008年5月 8日 (木)

大坂城・落城~脱出した秀頼の娘は…

 

慶長二十年(1615年)5月8日は、大坂夏の陣での大坂城・落城の日・・・

このブログでは
落城の経緯や秀頼・生存説(2007年5月8日参照>>)
淀殿・生存説(2009年5月8日参照>>)
なんてのも書かせていただいておりますが、ご承知の通り、生存説はあくまで俗説・・・

やはり豊臣秀頼と、その母・淀殿は、この日、大坂城と運命をともにしたはずです。

Moerusiro110 そして、この時、燃え盛る大坂城から脱出したのが、秀頼の正室となっていた徳川家康の孫・千姫・・・以前書かせていただいたように、彼女は、秀頼と淀殿の命乞いのために、決死の脱出を試みるワケですが、残念ながら、その願いは叶えられませんでした(2月6日参照>>)

・・・と、このように、千姫は、わずか7歳の時に、親の勝手で決められた政略結婚にも関わらず、夫・秀頼の事、そして豊臣家の事を、かなり良いように思っていた事がうかがえます。

ままごとのような結婚ではありましたが、意外に仲睦まじかった二人・・・しかし、ご存知のように、秀頼と千姫の間には子供がありません。

ただし、秀頼は、側室との間に、
8歳になる男児・国松
7歳になる女児の二人の子供をもうけていました。
もう1人男児がいたというお話は下記リンクの【国松・斬首】のページ>>で紹介しています)

そう、この千姫と前後して、この秀頼の子供たち二人も、燃え盛る大坂城から脱出していたのです。

どうやら家康は、秀頼に子供がいた事を知らなかったようで、落城後、数日経ってから、慌てて捜索の命令を出しています。

やがて5月21日国松は伏見にかくれていたところを発見され、京中引き回しの上、六条河原で斬首されてしまいます(10月17日参照>>)

・・・で、女の子のほうは・・・
実は、国松が発見されるより早く、5月12日に京極忠高によって発見されています。

忠高は、あの京極高次の側室の息子・・・つまり、義母は、淀殿の妹・です。

初は、先の国松も、徳川にわからぬようにこっそりと育てていたようですで、おそらく、この少女の居所も把握していた物と思われますが、もはや勝敗が決してしまった以上、永遠に隠し続ける事はできないと判断したのかも知れません。

しかし、この少女を体をはって助けようという人が現れます。
そう、先ほどの千姫です。

秀頼と淀殿の命を救うという願いを託され、決死の脱出を計りながら、叶える事ができなかったその思い・・・彼女の心残りが、いっそう、そのような行動に駆り立てたのかも知れませんが、とにかく、千姫は、祖父・家康に訴えるのです。

「この子は、私が育てます。どうか命だけは・・・」と・・・。

自分が攻撃した城から、命からがら脱出してきたカワイイ孫娘が、涙ながらに訴える姿・・・もう、ジィチャンの男心を、100%くすぐりまくりです。

かくして、女の子は千姫の養女となり、彼女のもとでしばらくの間、過ごす事になります。

やがて、一年後、8歳になった彼女は、鎌倉松ヶ岡東慶寺に入る事なりました。

彼女が、尼になるにあたって、家康は・・・
「何か願いはないか?」
とたずねます。

すると、彼女は・・・
「東慶寺は、開山以来、女性の救済を掲げている寺だと聞きました。
できれば、その女性の救済がより強く、そして永遠に続くよう・・・私の願いは、それだけでございます。」

家康は、「承知した」と・・・

やがて、成長した彼女は、それまでは、ただ単に、困った女性が尼寺へ逃げ込むだけにしか過ぎず、何の権限もなかったシステムから、寺が女性に代わって離縁の調停を行い、夫が応じるまでの間、女性を寺で預かり、必ず解決するという、はっきりとした女性救済のための『縁切り寺法』の確立に尽力するのです。

縁切り寺=駆け込み寺です。

最初は、いくつかあった駆け込み寺も、何やかやと縮小され、結局、江戸時代を通じて、その権限が幕府から認められていたのは、全国に2ヶ所・・・この東慶寺と、上野(群馬県)満徳寺・・・。

それは、この二つの寺にだけ与えられた特権でした。

いつも、どんな時でも、彼女が出家した時に家康としたあの日の約束・・・「家康様のご意向である」というのが、東慶寺の寺法をゆるぎない物にしていたのです。

そして、彼女は、東慶寺中興(復興させた人)の大和尚と呼ばれるようになります。

東慶寺二十世・天秀尼が、その人です。

しかし、彼女は、その東慶寺の隆盛が確実に成ったであろう正保二年(1645年)、その役目を終えたかのように、まだ、37歳という若さでこの世を去ります。

尼僧ですから、もちろん、子供はいません。

ここに、豊臣の直系の血筋は、完全に絶えてしまうのです。

戦国という世に生まれ、自身の思いとはかけ離れたところで、自分の意志とは無関係の出来事に翻弄された女性たち・・・彼女は、そのような女性たちが、救われる道を切り開く事に、その生涯を捧げたのでしょう。

ところで、東慶寺と同じく、江戸時代を通じて治外法権を守りきったもう一つのお寺・満徳寺・・・ここは、あの時、幼い天秀尼を体をはって守った千姫の入ったお寺です。

ここにも、彼女たち、二人の姫の間に、目に見えない糸がつながっている気がするのは、私だけでしょうか。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

本文に書いてないですが、秀頼の娘の本名は不明ですか?今年の豊臣秀頼と千姫の配役が気になります。誰になるんでしょうか?「江 姫たちの戦国」はマラソンで言うと14キロ地点を通過(3分の1を消化)。

投稿: えびすこ | 2011年5月 5日 (木) 16時39分

えびすこさん、こんばんは~

そうですね。
戦国の女性は、よほど何かした人でないと、この方のように、出家後の法名が残るだけですね~。

投稿: 茶々 | 2011年5月 5日 (木) 22時49分

秀頼の娘の本名が気になって調べてみたら、「奈阿姫」か「千代姫」と呼ばれてたらしいです。2000年の大河ドラマ・
「葵 徳川三代」では別の名前(こちらの方はおそらく役名)でした。参考としていただければ幸いです。

投稿: えびすこ | 2011年5月 6日 (金) 16時56分

えびすこさん、

情報ありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2011年5月 6日 (金) 18時36分

こんばんは~

家康が二十歳で暗殺されたとする影武者説をとれば、二郎三郎にとり今川家からきた築山殿と自分の実子でない信康には愛着が湧かないのも自然であり、千姫救出も徳川存続のポーズとして感じられます。
豊富家を絶やしかった彼からすれば、織田家もまた絶えてほしかったのかも知れません。だとすると家光の母が江だというのは建前で、やはり春日局と家康の子では...?
なんて。

天秀尼が八歳で仏門に入ったのも、やはりそれしか生きる道が許されはいなかったのでしょうね。
兄の国松は、まだ幼いのに京中引き回しの上斬首...。
これでは私も仏門にすがるしかなかったに違いありません。

影武者説はどうなんでしょう?あまり説得力はなさそうですが、暗殺した者とそれを切り捨てた家臣の名前が出て来る文献もあるようですが...

投稿: ダルタ湾 | 2013年4月 7日 (日) 23時12分

ダルタ湾さん、こんばんは~

>影武者説はどうなんでしょう?

家康の影武者説ですか?
確かに、堺の南宗寺にはお墓があって、その横には山岡鉄舟が「慶喜公が(家康のお墓だと)認めた」という内容を刻んだ石板もあるので、それを見ちゃうと、ちょっと信じてしまいますが、一方では、家康を討ったのは、前日に死んでるはずの後藤又兵衛って事になってますから…
謎ですね~

投稿: 茶々 | 2013年4月 8日 (月) 03時13分

茶々様、こんにちは

えっ、鉄舟が?
知らなかったな~

徳川家では語り継がれていた、ということですね...

清康の暗殺者が実は家康暗殺者とする説もあるようですね。
いずれにしろ、徳川家側の記録はかなり実情の隠蔽工作があるようですね。

では

投稿: ダルタ湾 | 2013年4月 8日 (月) 06時17分

ダルタ湾さん、こんにちは~

私も南宗寺へ行ってはじめて知りました~
謎ですね。。。

投稿: 茶々 | 2013年4月 8日 (月) 14時40分

茶々様、こんばんは~

又兵衛も生存説があるくらいではっきりしませんね~
いずれにしろ、やはり真田幸村に追い込まれたとき、ということでしょうか?
こちらの説だと家康死の一年前で、まあ、天海の下での短期間の影武者なら有り得る感じがしますね。二、三代将軍も墓参りに来てるようですね。

いや~しかし関西は史跡が多くてうらやましいですね。

因みに、本日亡くなられたマーガレット・サッチヤーも女傑では?一票...?なんて、実はイマイチ、フォークランド紛争が分かっていない私。

ではでは

投稿: ダルタ湾 | 2013年4月 9日 (火) 23時05分

ダルタ湾さん、こんばんは~

私は、外国の事はサッパリわかりません。

投稿: 茶々 | 2013年4月10日 (水) 01時07分

茶々さん、
何時も楽しくためになる記事をありがとうございます。

ところで、
<忠高は、あの京極高次の息子・・・つまり、お母さんは、淀殿の妹・初です。>

ではない,のでは?

京極高次と常高院との間に子供はいないはずです。
また、Wikiに以下のような逸話もありました。

文禄2年(1593年)、高次の侍女於崎が忠高を懐妊すると、初(常高院)は嫉妬し殺害を企てた。高次の家臣・磯野信高は、忠高を預かって浪人となり、初の機嫌が和らぐ文禄4年(1595年)まで幼い忠高をかくまったという。松江歴史館学芸員・西島太郎が、『高島町史』編纂の過程で発見された高次の書状や「磯野家由緒書」を調べた結果として、2011年に同館の研究要綱で発表した。

投稿: ケンさん | 2018年1月 9日 (火) 04時56分

ケンさん、こんにちは~

ありゃま、ホント、変な書き方してましたね~申し訳ないです。

wiki見るまでもなく、このブログの他のページにも散々書いております通り、高次と初の間には子供は無く、側室の子ですね。
10年前のページなので、記憶は無いのですが、「京極家のお袋様と嫡男」という意味で、そんな書き方になったのかしら??(言いわけですが( ̄◆ ̄;)

取りあえず、教えていただいてありがとうございます。
ちゃんと訂正させていただいておきます。

投稿: 茶々 | 2018年1月 9日 (火) 17時15分

会津騒動で、豊臣家最後の戦い。さすがは淀殿の孫

投稿: 乙 | 2020年7月11日 (土) 10時11分

乙さん、こんばんは~

会津騒動の時に堀主水が妻子を東慶寺に預けて…という話の事ですか?

会津騒動の頃は天秀尼さんは、すでに亡くなってますし、騒動に絡んでる加藤明成も堀主水も徳川家光も、もともと徳川方の方なので、豊臣家最後の戦い??というのは存知ませんが、東慶寺に敵対した事が最終的な処分のキッカケではありますので、中興の祖である天秀尼が東慶寺を盛り上げてくれたおかげという事になるでしょうね。

投稿: 茶々 | 2020年7月12日 (日) 02時29分

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