姉川の七本槍と旗指物のお話
元亀元年(1570年)6月28日は、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍とがぶつかった『姉川の合戦』のあった日です。
合戦全体の流れについては、昨年のページ>>に書かせていただきましたので、ソチラでご覧いただくとして・・・
本日は、逸話として残る『姉川の七本槍』と、それにまつわる旗指物のお話をさせていただきます。
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七本槍と言えば、ご存知、『賤ヶ岳の七本槍』(4月21日参照>>)と呼ばれる武将たちがいますが、本日の姉川の合戦にも、『姉川の七本槍』と称される一団がいます。
年代からいっても、姉川のほうが早いですし、賤ヶ岳のほうは9人いるのになぜか七本槍ですが、こちらの姉川はちゃんと7人なので、察するところ、この『姉川の七本槍』が先にあって賤ヶ岳のほうも七本槍と呼ばれるようになったのではなかろうか?
今ではすっかり賤ヶ岳のほうが有名になってしまいましたが・・・。
ところで、この姉川の合戦・・・
大人数のわりには、浅井軍に苦戦する織田軍に対して、わずかな人数で応援にかけつけた徳川家康の軍勢の大活躍により、形勢が逆転し、結果的に織田・徳川連合軍の勝利となるというのが、一般的に知られる合戦の流れですが、これは、あくまで徳川家康の言い分・・・。
織田や浅井が『野村合戦』と呼んでいたこの合戦を、『姉川の合戦』という名前に変えたのも、最終的に江戸時代という天下を取った徳川なので、その合戦内容となると、かなり徳川軍をかっこよく描いてる感はぬぐえませんが、今日のところは、徳川軍の・・・それも『姉川の七本槍』の大活躍で・・・という事でお話をさせていただきます。
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この合戦の少し前に、今川を離れ、徳川家康の傘下に入ったばかりの高天神城の城主・小笠原氏助(うじすけ・信興)(5月12日参照>>)は、自ら1000の兵を率いてこの合戦に参戦していました。
徳川軍の先陣を切った酒井忠次隊に続いて、小笠原隊が姉川を渡り、朝倉軍へと突入します。
そんな小笠原隊の中で、ひと際目立つ男がいました。
氏助が今川にいた時から彼に仕えている精鋭部隊・高天神衆のひとり、渡辺金大夫(きんだゆう)です。
金大夫は、真っ赤な唐傘に金色の短冊を18枚もつけた旗指物を差していて、その金色の短冊が日の光に反射してキラキラと輝き、目立つ事この上なし・・・って、戦いぶりで目だってたんやないんかい!
いえいえ、戦いぶりもたいしたものだったのですが、こと大人数が入り乱れる合戦においては、この旗指物で目立つというのは、とても重要な事なのです。
・・・で、ちょっとここで旗指物のお話を・・・
なんせ、戦いぶりが大将の目に止まるか止まらないかで、合戦後の恩賞か決まるわけで・・・。
そもそも戦いの時の旗という物は、壬申の乱での近江側の金旗と大海人側の赤旗、そして源平での源氏の白旗に平家の赤旗のように、奈良&平安の昔から、敵味方の識別をするために使用されていて、戦国時代には武将ごとに独特のデザインで造られるようになります。
(デザインはアンケート規格の【戦国エンブレム選手権】でどうぞ>>)
あの武田信玄の『風林火山』の旗も、軍団を識別する旗です。
それに対して、武将一人ひとりが差す、小ぶりな旗を『指物(差物・さしもの)』と呼んでいましたが、この指物にも、『番指物』と『別指物』の二つがありました。
番指物は、色と形を隊ごとに同じにした物で、上記の旗で識別する軍団をさらに小分けした小隊を識別する物です。
はじめは、まず、この番指物を差して合戦に参加し、いくつかの武功を挙げた後、その功績を認めてもらって、大将から許可をもらい、やっと個人を識別する別指物を差す事ができるのです。
そして今度は、広大な戦場での自分の活躍を、大将の目に止めてもらうため、この別指物を、とにかく目立つように、一人一人個性的なデザインにしてたんですね。
武田勝頼の家臣・落合佐平次が「敵ながらあっぱれ」と、とてもインパクトのある鳥居強右衛門の磔姿をデザインした旗指物は有名です(強右衛門さんがなぜあっぱれなのか?は5月16日参照>>)。
もちろん、絵だけではなく、形もイロイロ・・・四角形の物は「四方(しほう)」、それを縦半分に切った物は「四半(しはん)」、布の端を細かく切った物は「切裂(きりさき)」と言い、派手な絵を書いたり、大きく名前を書いたり・・・。
わざと棹がしなるように作られた物を「撓(しない)」と呼び、これが、馬に乗って颯爽と走った時に、実にカッコんイイですな。
若き日の加藤清正や福島正則が、
「俺らに武功がないのは、指物をしてへんから下っ端に見られて、戦場で、ええ武将に巡り会われへんからなんですわ。指物、差さしてください」
と、秀吉に願い出て
「アホか!お前ら充分下っ端やんけ!まだまだ早いわ!」
と、一蹴された・・・なんて逸話も残ってるくらい、個人の別指物は、若い衆のあこがれだったんですね。
・・・で、話を姉川に戻しますが・・・
この日、織田信長の目に止まったのは、派手な旗指物の金大夫・・・本当は、この時、朝倉の重臣・黒坂景久を討ち取る事ができたのも、氏助の高天神衆全員のはたらきによるところが大きかったのですが、実際に、信長の目に止まったのは金大夫だけでした・・・派手な指物のおかげです。
そして、合戦も終った夜の事、勝利に酔う信長は、金大夫を呼び寄せて・・・
「あっぱれ!天下一の活躍だ!」
と、褒めたたえ、感状と刀を褒美として手渡したのです。
・・・と、ここで不満なのは、ともに活躍した高天神衆の残りの人々・・・門奈左近右衛門(もんなさこんえもん)・伊達与兵衛・伏木久内(くない)・中山是非之助(ぜひのすけ)・吉原又兵衛・林平六の6人です。
「みんな、金大夫より先に進んで戦っていたのに・・・目立たなかっただけで不公平や!」と猛抗議!。
・・・で、結局、信長は、後日、残りの6人にも感状を出しました。
これで、7人・・・彼らが『姉川の七本槍』と呼ばれる人たちです。
後日申告でも、感状がもらえてよかった、よかった・・・今度からは、戦場で目に止めてもらえるよう、よりハデハデな旗指物を用意しなければ・・・。
*さらなる姉川の逸話:【「信長を殺ったる!」遠藤喜右衛門・命がけの奇策in姉川】>>もお楽しみください
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コメント
賤ヶ岳七本槍は大名になりましたからねぇ。対して姉川の七本槍の面々なんて、今日ここで見て知ったぐらいですからねぇ。七本槍と言ったら賤ヶ岳で活躍したあの七人しか思い浮かばないって人の方が多いでしょうね。しかも賤ヶ岳七本槍も七人全員答えられる人になると、かなりの歴史マニアに限られるでしょうね。僕自身、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂(名前は忘れてました)の五人は記憶してましたが後の二人はよく知りませんでした。さて姉川の七本槍に話は戻って、彼らのその後の活躍秘話は無いのでしょうか?小笠原氏の家臣から徳川家の直臣に取り立てられて大名に出世した人は居なかったんでしょうか?
投稿: マー君 | 2008年6月28日 (土) 13時40分
マー君さん、こんにちは~
姉川の七本槍のお話は、『常山紀談』や『紀伊国物語』『四戦紀談』など、いくつかの軍記物に登場しますが、どれも、その後の事は書かれていないようですね。
何かヒントがないかと、ネットも調べてみましたが、姉川の七本槍自体がネットにはほとんど登場してませんでしたww
投稿: 茶々 | 2008年6月28日 (土) 15時16分
姉川の七本槍…ネット検索しても殆ど出てきませんね。七本槍で何かしら出てないかと見てみたら、小豆坂七本槍だとか、蟹江城七本槍ってのは出てきましたが姉川の七本槍は残念ながら出てきませんでした。そもそも姉川の七本槍の面々など家康の陪臣ですので…(信長は、家康自身を半分家臣みたいに思ってた感じすら見受けられるので)…信長から見たら姉川の七本槍の面々など、家臣の家臣のそのまた家臣て立場ですから、感状を与えただけでも希有な出来事だったかも知れませんね。そんな彼らですが、家康の天下平定における、その後の合戦では目立った活躍が無かったんでしょうね。大体、彼らの直接の主君である小笠原氏自体、徳川家臣団の中でも目立たない存在ですから、その中で武功を上げるのは容易じゃなかったかも知れませんね。そんな訳で姉川の七本槍の知名度が低いのかも知れませんね。
投稿: マー君 | 2008年6月28日 (土) 17時55分
そうですね・・・
『姉川の七本槍』で検索してもこのページが引っかかるだけww・・・思わず「Google早っ!」って思ってしまいました~。
最近の書籍では、小学館の「週刊・戦乱の日本史」の姉川の合戦に、チョコッとお名前だけが載ってましたね。
投稿: 茶々 | 2008年6月29日 (日) 15時15分
徳川の家臣なのに、なぜ信長が感状を?
投稿: | 2013年3月31日 (日) 20時38分
う~ん、なぜでしょうね?
先のコメントにも書かせていただいたように、この逸話は『常山紀談』や『紀伊国物語』『四戦紀談』など、けっこう多くの文献に記されていますが、いずれも、感状を出したのは信長ですね。
家康は今川から独立してまだ10年ほどですし、彼らも、家臣と言っても、寸前に傘下に入ったわけですし、この時の小笠原氏助には「スキあらば、立場を逆転させたい」というような野望もあったようです。
そんな彼らにとっては、未だ小者の家康より、信長の感状のほうが価値があったという事ではないか?と思います。
文中にも書きましたが、合戦の武功は本人申告で、出すのも直接の主君に限ってはおらず、高位の者って事ですし、むしろ、武功をあげた彼らが、「信長に申告した」という事だと思うのですが…
投稿: 茶々 | 2013年4月 1日 (月) 02時35分