古田織部の家康暗殺計画は本当にあったのか?
元和元年(1615年)6月11日、徳川家康の暗殺を企てたとして、『利休七哲』の一人・古田織部が切腹し果てました。
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古田織部(おりべ)は、天文十三年(1544年)に美濃(岐阜県)に生まれました。
他の『利休七哲』と呼ばれる人がそうであるように、彼も、最初から茶人ではなく、もとは、れっきとした武将・・・。
始めは荒木村重の与力を務め、次に、17歳で織田信長に仕えますが、信長が本能寺で亡くなった後は、豊臣秀吉のもとで働き、小田原征伐でも大きな武功をあげています。
その間に、30歳頃から学び始めた茶の湯でめきめきと頭角を現し、千利休の弟子の中でもトップクラスになった事から、文禄・慶長の役の頃からは、武将というよりは、茶人として秀吉の側にいる事が多くなります。
ただ、織部の茶の湯は、利休の後を継ぐ・・・というよりは、それをアレンジした新ジャンルのような彼独特の物でした。
利休が、究極の質素な美しさを追及したのに対し、織部は、華麗な動きのある美しさを求める・・・それが武将に好まれ、「利休の侘び茶」に対して「織部の武家茶」と称され、大いにもてはやされる一方で、その行為は師匠・利休を裏切る行為だとも噂され、二人が仲が悪かったような事も言われますが、ご本人たちは、お互いを認め合っていたようです。
利休は、常々、「人と違う事をする事が大切」と、弟子たちに説いていましたから、独創的な茶の湯を試みる織部に、不快感を抱いていたとは思い難いですし、織部は織部で、利休が、秀吉のご機嫌を損ねて、堺での謹慎を言渡された時、秀吉の事を怖がって、皆が姿を見せなかった中、彼と細川忠興の二人だけが京の町を去る利休の見送りに行ったと言います。
秀吉との確執が解けないまま、利休が切腹した後は、正真正銘、茶の湯の第一人者となり、彼の生み出した『織部焼』の茶碗や『織部風建築』は、師匠・利休の『利休好み』とともに、安土桃山文化の代表的芸術となります。
やがて、秀吉が亡くなり、その後に起こった関ヶ原の合戦では、徳川家康につき、最初は石田三成側だった佐竹義宣を中立の立場にさせた功績で、合戦後には1万石を与えられ、『将軍家・茶の湯師範』というお墨付きまでいただいて、2代将軍・徳川秀忠に茶道を教えるという、まさに、この世の春を迎えます。
ところが・・・です。
大坂の陣の直後、そんな織部の運命が一転・・・家康から切腹を申し渡される事になるのです。
それは、大坂の陣の直前の事・・・決戦を間近に控えた不穏な空気が流れる中、二条城にて、家康・秀忠以下、主だった者たちで軍儀を開いていた時の事・・・京で、一人の男が捕まります。
その男は・・・
「京の町に火を着け、その混乱に乗じて、大坂城を打って出た豊臣方が、二条城にいる家康・秀忠親子を殺害する」
という、暗殺計画の書かれた密書を持っていたというのです。
この密書を持っていた男が、織部の娘婿の使用人だった事で、合戦が終って、豊臣家滅亡後に、織部に嫌疑がかかった・・・というわけです。
しかし、これには、また別の話もあります。
織部自身が、とっくの昔から豊臣方に通じていて、上記の手紙の内容のような暗殺計画の噂も流れていて、家康がその事を疑っていた所、実際に、京都で火事が起こったため、織部に切腹を命じた・・・というもの。
また、豊臣秀頼の小姓をしていた織部の息子・九八郎が、織部の家臣・木村宗喜と結託して、大坂の陣の時に、家康父子が、大坂城に向けて出発すると同時に兵を挙げ、家康らを挟み撃ちにする計画があった・・・というのもあります。
いずれにしても、織部自身が関与、あるいは、身内が関与した『家康・秀忠暗殺計画』なる物が存在し、そのために織部に切腹の命令が下った・・・という所は共通しているのですが・・・どうも、納得がいきませんねぇ。
上記の通り、将軍家の茶の湯師範にまでなって、それ以上、織部は何を望んで、暗殺計画など立てたのでしょう?
天下ですか?豊臣家の存続ですか?
秀吉存命の時代から、すでに茶人・お伽衆(主君の話し相手になる側近)となっていた織部にとって、いまさら武将としての天下取りの夢を持ち出すのは、何とも考えづらいですし、かと言って豊臣家の存続をうんぬんするなら、こんな大坂の陣直前になって、いきなりの行動を起さずとも、もっと早くに何らかの姿勢を見せていたはず・・・。
動機がつかめないまま、暗殺計画なるものだけが一人歩きして、結果、元和元年(1615年)6月11日、家財を没収された古田織部は、一切の弁解をせず、息子とともに自刃するのです。
しかし、案の定、織部が亡くなった後、徳川家はミョーな行動に出ます。
織部の残した織部焼や織部風建築といった文化財を次々と破壊し、最終的に『武家茶』自体を廃止にして、室町時代から続く伝統的な茶の湯だけを残すのです。
暗殺計画があったのが大坂の陣の直前であったのなら、時代はまさに戦国・・・言っちゃぁ悪いですが、暗殺計画なんて日常茶飯事です。
もし、仮に、本当に暗殺計画があったとしても、それに関わった者たちを、自害させるなり処刑するなりして、そこで幕引きとなるはずで、何も、残した文化財や、一旦浸透した作法を抹消する必要はありません。
これは、どう考えても、家康自身が、織部を抹消したかったとしか思えないような気がしますね。
では、家康は織部の何が怖かったのでしょうか?
ここからは、仮説になりますが・・・
織部の生き方を見ていると、芸術家の多くが持っている常に新しい物を求めていく探究心のような物を感じます。
戦国という世で、常に時代が変化していく中では、むしろ、織部のような姿勢が頼もしく思えたものの、いざ、天下を取って、この先の徳川の安泰を願った時、その躍進的な思想は、安定を目指す家康にとって、脅威となったのではないでしょうか?
だからこそ、躍進的な武家茶を廃止し、伝統を重んじる侘び茶だけを残したのでは?
家康が、江戸=徳川という物を保守したい!と思った・・・そして、その家康の変化を、織部は、誰よりも感じていたが故の、従順な切腹となったのではないか?と思う次第です。
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コメント
本当に幕府の草創期には不可解な粛正が多いですね。しかも、この取って付けたような理由は何なんでしょう。秀吉に切腹させられた利休と言い、徳川家に有らぬ疑いをかけられ詰め腹を切った織部と言い…茶の湯で名を馳せた者の末路は何故にこうも無残なモノなんでしょうね。
投稿: マー君 | 2008年6月12日 (木) 01時50分
マー君さん、こんばんは~
利休にしろ、織部にしろ、茶の湯の第一人者には、権力者が脅威を抱くような、カリスマ的な何かがあったのかも知れませんねぇ・・・。
投稿: 茶々 | 2008年6月12日 (木) 03時10分
今BSでアニメ「へうげもの(読み方は「ひょうげもの」)」を放送していますが、同番組では「古田佐介(本名?)」として出ています。12月まで放送の予定です。
もし茶道で「古田流」があればこの古田織部の系統ですね。
今年の大河ドラマにも登場します。
投稿: えびすこ | 2011年6月11日 (土) 08時51分
えびすこさん、こんにちは~
アニメが始まってから、ほぼ毎日、このページにも沢山の方が訪問してくださっています。
ありがたい事です。
投稿: 茶々 | 2011年6月11日 (土) 14時17分
「へうげもの」は折り返し点を通過しました。12月まで放送があります。今週は夕方に前半の総まとめ放送がありました。
織部さんはもう1回大河ドラマに出ますかね?「織部」の名乗りはオリーブ色からとアニメでは言っていますが、実際にはどうなんでしょう?
投稿: えびすこ | 2011年8月13日 (土) 10時10分
えびすこさん、こんにちは~
あのままでは、「なんで、わざわざ紹介したの?」って感じですから、たぶん、また出て来るんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年8月13日 (土) 16時56分
はじめまして。
織部死後、家康が織部流を徹底弾圧した、ってのは始めて聞きました。本当だとしたら、なんとケツの穴の小さい事か…。
よろしければその件の出元(資料)はどれか、教えていただけたら幸いです。
投稿: 三年鴉組 | 2011年8月31日 (水) 21時21分
三年鴉組さん、こんにちは~
>よろしければその件の出元(資料)はどれか…
文献史料として残っているのかどうかは確認していないのですが、京都市内にある、織部焼全盛当時に焼物屋が軒を連ねていた場所(三条周辺)の発掘調査の際に、大量に破棄された織部焼が発見され、しかも、その破棄されたとおぼしき時期が元和への改元と重なっている事から、研究者の間では、その元和元年の時期に「織部焼だけを1度に大量に破棄」=「弾圧したのではないか?」と考えられているそうです。
投稿: 茶々 | 2011年9月 1日 (木) 16時34分
はじめまして。
少し気になったところがありましたので…
古田織部の命日は慶長二十年六月十一日ですがこれは旧暦ですので
西暦に換算すると1615年の7月6日に相当します。
あと利休閉門の際に見送りをしたのは織部と細川三斎の2人です。
もうすぐその織部の命日ですので、へうげた茶碗で旨い茶でも呑んで古人の偉績を偲ぼうと思います。
それでは。
投稿: ヒヅミ茶碗 | 2012年6月15日 (金) 11時02分
ヒヅミ茶碗さん、こんにちは~
このブログは、一部の例外と外国の出来事を除いて明治五年の12月2日までの日本の出来事は、すべて旧暦で書かせていただいてますのでご理解ください。
見送りについては、ご指摘をいただいて、改めて出典等を確認してみましたところ、二人が見送りに来た事を書いた利休直筆の八代城主・松井康之宛ての手紙が現存する事を確認しましたので、本文を訂正させていただきました。
情報ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2012年6月15日 (金) 15時04分
初めまして、昨日 本巣山口の織部ゆかりの文殊の森の山に登ってきました。幼い頃から数限りなく側を通りながら初めてでした。丁度、桜が咲き始めの春の良き日でした。
89歳の母親を介護しながら、蝶の観察とフライフィッシングに明け暮れています。母親は武儀郡武芸川町谷口の出身ですが、村一番の美人で祖母も同じく、大そうな美人。
色白で鼻筋が通り、まるで時代劇に出てくる奥方の様だと子供の頃から思っていました。祖母の話では、先祖は近江だとか? 蔵の中には祖母が嫁いで来た長持ちが有りましたが、浅井の紋所が入っていると言っています。
私の勝手な想像で、何時もお市の方を連想します。
歴史、読書、まるでダメの虫狂(蝶)ですが、地理、世界史は好きでした。今後、御世話になるかと存じますが、宜しくお願い致します。
岐阜市在住 亀山 充
投稿: 亀山 充 | 2013年3月27日 (水) 08時09分
亀山 充さん、こんばんは~
良い季節に行かれましたね~
満開が待ち遠しいです。
歴史を探訪すると、ご先祖様の事は気になります~
投稿: 茶々 | 2013年3月27日 (水) 20時00分
僕の親類に筑間正泰氏があります。慶応大学で法律を学び(刑事訴訟法選考と思います)元広島大学教授、現在も広島市近郊に住んでいますが、生家の関係で昔から「古田織部」に深い関心を持ち、本年5月11日には、道の駅「織部の里もトス」織部展示館での古田織部顕彰茶会で「講演会」を持った由本日知らせを受けました。すでにご承知かと存じますがお伝えします。
もちろん大兄のエッセイにより初めて古田織部の事績を知り感動しています。
なお僕は先年岐阜市伊奈波通り含政寺にあった先祖の墳墓を東京都墨田区回向院に移しましたが、なお岐阜には墳墓の地として感慨を持ち、大兄の記事を筑間氏にも送ろうと思っています
投稿: 奥村雄二郎 | 2013年4月15日 (月) 18時37分
奥村雄二郎さん、こんばんは~
お知らせ、ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2013年4月16日 (火) 00時16分
初めまして、10年以上の日本在住の日本史好き(数奇?)亜米利加人です。2007年の夏に初めて「へうげもの」の漫画と出逢って、古田織部の主人公とするこの作品を通して茶の湯の世界と触れ合って、次第に魅了されてきました。古田織部の悲惨(あるいは無念?)の最期について調べてみたとき、このブログに辿り着きました。本当に興味深い記事で、歴史の事実を随分調べているとよくわかります。
上記で記述した通り、私は日本史好きの亜米利加人で、趣味として日本史の日本の文化に関する記事などを自分で翻訳し、興味をもつ友人に送ったり自分のFBにも投稿しています。もし差し支えなければこの記事の一部を翻訳し、その他を引用して英語の記事などを作成したいと思っていますが、いかがでしょうか?ご返答を頂けたらと思います。
投稿: あきる野ライフ | 2015年4月15日 (水) 23時58分
あきる野ライフさん、こんにちは~
日本の歴史や茶道に興味をお持ちとか…良いですね~
私は、幼い頃にいくつかお稽古事をやってましたが、結局、続いたのは、自ら「やりたい」と言った茶道だけでした(笑)
やっぱり、自身が興味を持つ事が1番ですね。
ところで…
SNS等への転載&引用(←て事で良いんですよね?)ならOKですよ。
できれば、その時に、引用元として、このブログを明記(もしくはリンク)して下されば、ブログの宣伝にもなるのでウレシイです。
コメントありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2015年4月16日 (木) 17時20分
茶々さん、
''ところで…
SNS等への転載&引用(←て事で良いんですよね?)ならOKですよ。
できれば、その時に、引用元として、このブログを明記(もしくはリンク)して下されば、ブログの宣伝にもなるのでウレシイです。''
許諾ありがとうございます。どのタイミングで英語の記事を書くまだ決めていないですが、投稿するとき上記の通りにこのブログを明記します。
よろしくお願いします。
投稿: あきる野ライフ | 2015年4月17日 (金) 08時01分
こんにちは、木更津に住む 筑間和八と申します。
筑間のルーツを調べて四半世紀、このブログにたどり着きました。
織部の里山口には私と同じ姓を名乗る筑間さんが何人もみえるのですが、古田織部もわたくしと遠い関係があるのではないかとコメントから感じられました。
貴重な歴史記事ありがとうございました。
内容も大変面おもしろかったです。
投稿: 筑間和八 | 2015年8月29日 (土) 15時29分
筑間和八さん、こんにちは~
コメントありがとうございます。
おもしろいと思っていただけたなら幸いです。
投稿: 茶々 | 2015年8月29日 (土) 15時52分
へうげもの25巻購入し、一気に読みました。歴史ものはひさしぶりです。
これだけの史実を集めるのは大変だったと思います。
興奮して楽しめました。ありがとうございます。
投稿: 織田真智子 | 2020年5月24日 (日) 13時16分
織田真智子さん、こんばんは~
ご訪問ありがとうございます。
「楽しめました」
と言っていただけるとウレシイです。
投稿: 茶々 | 2020年5月25日 (月) 01時56分
古田織部と言えば、ゆがんだ茶碗のイメージです。師の利休からもらった茶杓は、まっすぐなもの。茶人としても、武人としての生き方を暗示していると思いました。
投稿: やぶひび | 2024年6月11日 (火) 06時28分
やぶひびさん、こんばんは~
織部好みは独特な良さがありますよね~
おっしゃる通り、武人としての性格が大きかったのかも…
投稿: 茶々 | 2024年6月12日 (水) 02時28分