清洲会議~信長の後継者を決める
天正十年(1582年)6月27日、亡き織田信長の後継者を決める清洲会議で、嫡孫・三法師が世継ぎに決定しました。
・・・・・・・・・・・
明智光秀の起した本能寺の変(6月2日参照>>)で、織田信長が倒れたのが、天正十年(1582年)6月2日の未明・・・。
そして、主君の仇討ちとばかりに羽柴(豊臣)秀吉が、その光秀を山崎の合戦(6月13日参照>>)で破ったのが、11日後の6月13日でした。
亡き信長が、生前に家督を相続させていた長男・信忠も(11月28日参照>>)、信長とともに亡くなってしまった事から、当然の事ながら、残った者たちで織田家の後継者を決めなければなりません。
それを決定すべく開かれたのが清洲会議です。
この会議を招集したのは、織田家の筆頭家老であった柴田勝家・・・会議に出席した人物は、その勝家と、同じく織田家の重臣である丹羽長秀、信長の乳兄弟でもある池田恒興、そして、秀吉の四人・・・。
もう、一人、本来はここに、滝川一益がいるはずでしたが、本能寺での急変を知って上洛しようとしたところを、北条氏政に阻まれ、神流川の戦い(6月18日参照>>)で敗北を喫していました。
一益は、そのドタバタで会議に間に合わなかったとも、敗北したために織田家内での地位が下がり、会議から外されたとも言われていますが、とにかく、一益は欠席だったのです。
・・・で、この時、後継者候補と目されていた人物は、次男の織田信雄と、三男の織田(神戸)信孝・・・この二人の中では、信雄が次男ではあるものの、信長死後の弔い戦には、ほぼ無関係。
その点、三男・信孝は、この本能寺の寸前にも、信長から四国の平定を命じられ、その大将をまかされてもいましたし、その後の山崎の合戦で、秀吉とともに父の仇を討っているのですから、かなり有力・・・。
なので勝家は信孝を推しました。
ところが、秀吉が予想外の人物を推薦します。
それは、本能寺の変で信長とともに果てた長男・信忠の長男・・・つまり、信長の孫の三法師(後の織田秀信)です。
信長の直系ですし、すでに織田家当主を譲り受けている信忠の嫡男なのですから、後継者としてふさわしい事はふさわしいのですが、なんせまだ3歳という幼さであったため、それまでは、誰も、三法師の事は眼中になかったのです。
会議は、(勝家+信孝)VS(秀吉+三法師)の構図となります。
確かに、本来は嫡流が後継者となるのが道理・・・しかも、信孝は、すでに神戸氏の養子となり、神戸信孝を名乗っているのですから・・・。
(織田信雄も北畠の養子に入り、北畠信雄を名乗っています)
それでも、織田家筆頭であった勝家は、自分が推す意見が通るものと信じて、信孝を強く推すのですが、先の山崎の合戦で主君の仇を討った秀吉の、織田家内での発言力は、勝家に匹敵する・・・いや、すでに、それを陵駕する物となっていたのです。
むしろ、会議が始まってからは、秀吉主導で話が進められ、一気に三法師へと傾きます。
それでも、納得がいかない勝家に、長秀が一言・・・
「山崎で勝利されたのは羽柴殿です」
事前の根回しによって、すでに長秀も恒興も、秀吉の味方になっていました。
結果、後継者は三法師に決定し、安土城の修復が完成するまで信孝が、その後見人となる事で収まります。
しかし、その後に話し合われた遺領の配分は、秀吉の主導で行われてしまいます。
信雄:尾張(愛知県)
信孝:美濃(岐阜県)
三法師:安土城
勝家:越前(福井県)・長浜(滋賀県)
長秀:若狭(福井県)・近江2郡
恒興:摂津(大阪府)3郡
一益:加増なし・宿老取り消し
秀吉:山城・丹波(京都府)・河内(大阪府)
もう、誰が見てもわかる通り、一番いいとこを秀吉が抑えています。
ちなみに、勝家の領地の越前というのは、もともと勝家が信長から与えられていた領地で、そこに、清洲会議で長浜が加えられた事になりますが、この長浜は、もともと秀吉が信長から与えられていた領地です。
自分の領地を譲って、自分は、山城&河内という一等地に引っ越す・・・これって、当時の一般常識としてどうなんでしょう?
本来、織田家では秀吉より格が上だった勝家にとって、領地の多い少ないよりも、もっと屈辱的な事なのではなかったのでしょうか?
ただ、お察しの通り、清州会議に出席した4人の中で、ただ一人・勝家だけが、主君の弔い合戦である山崎の戦いに参加していない・・・プラス、その山崎の戦いに勝利したのは秀吉の功績に寄るところが大きい・・・って事も影響があったのかも知れません。
と、まぁ、心の奥底は想像するしかありませんが、少なくとも、勝家は、この後も長浜に引っ越すという事はなく、本拠地はずっと越前のままでした。
長浜のほうが、ずっと京都に近いのに・・・。
これらの決定に、勝家は堀政秀を通じて、一益は長秀を通じて反論しますが、秀吉はまったく無視・・・もちろん、信孝も不満を抱かないはずがありません。
でも、その事は秀吉も予測していたでしょう。
清洲会議の後、秀吉は、あの山崎の合戦の時に陣を敷いた天王山に城を築きます。
それも大急ぎで・・・
それに対して、勝家は・・・
「誰を敵として城を造るのか?」
と、不快感をあらわにしたとか・・・
結局、秀吉は、後に大坂城へ移るまでの間、この天王山城(山崎城・宝山城とも呼ばれる)を本拠として、京の守りを固める事になるのですが・・・。
天王山山頂の石垣とおぼしき跡
天王山へのくわしい行きかたはHPでどうぞ>>
そして、一方の勝家は・・・
その秀吉との対立は、わずか一年後、賤ヶ岳の合戦【(4月20日参照>>)となって爆発します。
追記:
最近の研究では、「この時点での秀吉の立場は中立だった」との見方が多数派です。
ドラマでよく描かれる、会議の後に三法師を抱いて登場した秀吉に一同がひれ伏す・・・といった場面は後世の創作で、あくまで、秀吉としては、この時点で、どうしても譲らない信雄と信孝に対して、どちらもが納得する嫡流の継承という形を提示して賛同を受けたのであって、誰の味方という事も、
もちろん、勝家の敵という事も無く、嫡流が正統として推し、幼い三法師の後見人は信孝が務める事で同席した皆々も、それに充分納得だったのだと・・・
ただし、この後、本能寺の変の後に炎上した(6月15日参照>>)安土城の修復が完了するまでの約束で、居城の岐阜城にて三法師を預かっていた信孝が、いつまでたっても三法師を安土によこさない事で、秀吉との亀裂が生じ始めたのでは?との事のようです(12月29日参照>>)。
なんせ賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家を倒すのは秀吉ですが(4月23日参照>>)、信孝を攻めるのは信雄ですから(5月2日参照>>)・・・そこには、清須会議での決定事項を覆そうとする柴田&信孝チームの思惑もあったのかも知れません。
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コメント
山岡荘八氏の異本太閤記って小説では、茶々さんの意見とは若干違った書かれ方してますよ。小説ですから作家の脚色が大きいでしょうが、それによると…何と言っても秀吉は会議に出席した中では一番の新参者だったのと、秀吉が推した三法師があまりにも幼過ぎた点から、誰もが重臣筆頭の勝家の意見に同調せんとする雰囲気になった為、このまま多数決をとったら負けてしまうと判断した秀吉が、突然の腹痛を装って中座し、別室に丹羽長秀を呼び出し、そこで長秀に…信孝を後継者に推す事の非を説き、味方に付けます。そこで会議の進行を丹羽長秀に任せ、自分は腹が痛いからと別室にて休むという作戦に出ます。さて丹羽氏が進行役となり再開された会議では、秀吉の意を受けた丹羽長秀が、信孝を後継者に推すと、兄でありながら弟に家督を奪われた信雄が謀反を起こす。信長を信奉し織田家直系の継承を望んで止まない信忠の遺臣達が黙っていない。そうなると信長の同盟者だった家康も挙兵するかも知れない。また実は織田家家督に付いては既に毛利・上杉等と秀吉との間に密約が出来ており、ここで家督を巡って争う様な事態が見てとれる様なら上杉は柴田勝家の領地に攻め込むだろう。等など勝家の意見の不備を突きます、その都度、勝家も…それには、こう備える。あれには、こう対処するって言って抗うんですが、最後に長秀が、実はもう一人だけ勝家殿の意見に不服な者が居るのじゃ。と言ったところ、勝家がそれは誰じゃと言い…長秀が、それは誰あろうこのワシじゃと言ったので、池田恒興まで同調して、そうなればワシも勝家殿の意見には賛成しかねるのうって言った為、勝家は孤立してしまい、結局秀吉の意見が通った様な形に仕立ててますよ。山岡荘八氏の異本太閤記では滝川一益も会議に同席してたようでしたが、そこだけは山岡荘八氏の勘違いでしょうね。
投稿: マー君 | 2008年6月27日 (金) 21時36分
マー君さん、こんばんは~
そうですね・・・
清洲会議については、後継者が三法師に決まった事や領地の配分といった結果のみで、それに至る経緯・会議の内容については、詳細な記録が残っていないので、作家さんとしては、いかにしてこの結果に至ったか?という点での腕の見せどころといった感じでしょうか。
読んでるこちら側も、ワクワクドキドキ・・・いろいろな状況を想像させてもらえて楽しいです~。
投稿: 茶々 | 2008年6月27日 (金) 22時34分
明日の大河の放送で清洲会議に触れます。
清洲会議は現代風に言うと「取締役会議」ですね。この清洲会議の後、主家の織田家を押しのけて豊臣秀吉が天下を掌握すると言う過程ですが、今年はどう描かれるでしょうか?あまりこの過程をじっくりと扱わないので、「いつの間に」と言う感じがします。
HPで「秀吉は江の敵となる」と触れていますが、少し前に秀吉にちょっかいを出していますね。HPの「江MAP」はなかなか凝っています。
向井君が出ると番組のテイストが少し変わるかな?
投稿: えびすこ | 2011年2月19日 (土) 20時24分
えびすこさん、こんばんは~
そうですね。
清州会議がどのように描かれるのか、楽しみです。
投稿: 茶々 | 2011年2月20日 (日) 01時31分
昨日の放送ではほぼこの記事の内容と同じになりましたね。今年の秀吉は「ズルい人」と言う感じかな?
先日、「大河ドラマは番組の最後に史実との違いについて、短い解説をすればいいのでは」と提言されましたね。昔の大河「八代将軍吉宗」と「葵徳川三代」では、劇中で「解説者」の人物が、短く説明する場面があったのを思い出しました。
おおむね「出来事についての解説」なので、あの「解説シーン」を今の作品でも採用すれば、「クレームがつくシーン」がなくなると思います。ただ、前記の2作は公式文章に沿ったストーリー構成だった(「徳川実記」など)ので、現在に残る記録が少ない人物が主人公では難しいかも?
投稿: えびすこ | 2011年2月21日 (月) 09時10分
えびすこさん、こんにちは~
信長は本能寺で死ぬ前に、すでに信忠に織田家の家督を譲ってますから、実際には、それほど驚く事でもない気がしますが、三法師を後継者にする事をズルイ事にしておかないと、秀吉を悪人にできないですからね~
会議も会議と呼べないものになってましたね。
先週は「最後に説明をつけると良いかも」と言ってしまいましたが、説明してしまうとドラマの世界観が崩れてしまうのでダメでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年2月21日 (月) 09時43分
コメント失礼します。
清洲会議の面白い説として、実は四人ともグルだったというのがありますね。
秀吉さんが推した三法師は幼子ですし、勝家さんが推した信考さんも他所に出された子です。
出席したメンバーの力からいって、どちらに決まっても織田家の実権を握れるのは間違いないでしょう。
会議の結果、後継者は三法師になりましたが、それも「主君の仇、光秀さんを討った秀吉さんと丹羽さんの推してる三法師にしとく方が自然か…」くらいのものだったのかもしれません。
つまり、会議と称した一種のクーデタだったのではないでしょうか。
これならば、勝家さんが飛び地の長浜と僅かな加増で納得したのもわかる気がします。
山崎の戦いに参加せずとも、ある程度自分の意見が通った上、欲しがっていた長浜城に北近江の加増ですからね。
代わりに秀吉さんの得た領地は……確かに一等地ですが、河内は本願寺勢力が強く、信長さんが激しい戦を繰り返したために反織田の考えが根強い地域です。
大和は光秀さん寄りの(秀吉さんにとって信用出来ない)筒井氏に与えないといけないですし、丹波は光秀さんが善政を敷いて慕われていましたので、光秀さんを討った秀吉さんには治めにくい土地だと思います。
そこらへんも勝家さんが納得した理由の一つなのかなと。
投稿: | 2014年12月16日 (火) 18時20分
>そこらへんも勝家さんが納得した理由の一つなのかなと…
そうですね。
なんやかやで、落ち着くとこに落ち着いた結果なのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2014年12月17日 (水) 01時31分
清洲会議と言えば、ご存じのように、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の3人を交えて、織田信長&織田信忠親子亡き後の領土の分配や後継者問題を話し合ったわけですが、何といっても秀吉が、明智光秀を山崎の戦いで完璧に倒した上で、長秀&恒興を味方につけたのが大きいと思います。秀吉が三法師(後の織田秀信)を、信長の嫡孫という理由で、織田家の後継者に据えたのは、幼子である上に、秀吉が天下人になるための大義名分を強化する狙いがあったといっても過言ではないでしょう。結果として三法師は、元服して秀信と名乗りましたが、秀信が小大名に転落してしまったことを考えると、勝家が、信長の三男である織田信孝を後継者に推挙したのも、ある意味では、分かるような気がしますね。
投稿: トト | 2017年8月24日 (木) 08時43分
トトさん、こんにちは~
そうですね~
以前はそのような解釈が主流だったようですが、最近の研究では、ちょっと違った解釈になってますね。
本文にも追記しましたが、すでに他家を継いでいる次男三男より、織田家を継いでいた嫡男の子の方が正統であるとの事…
ただ、その嫡孫の後見人に三男の信孝がなった事に、次男の信雄が不満を抱いて信孝を敵視したために、秀吉は、その後継者争いに信雄側として乗っかっただけではないか?と…
もちろん、この後継者争いは織田家の後継者争いであって、天下とは別物の争いですが…
また、清州会議には堀秀政も出席していたとの説もありますね。
イロイロ興味深いです。
投稿: 茶々 | 2017年8月24日 (木) 15時36分