大阪マイナー史跡~日本最古の「つるのはし」
『日本書紀』の仁徳天皇の十四年(327年?)の条に・・・
「冬11月、猪甘津(いかいのつ)に橋わたす。
すなわちその処(ところ)を号(なず)けて小橋(おばし)という」
・・・と、あります。
これが、記録に残る日本最古の架橋です。
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5世紀頃の大阪平野は、まだ海でした。
現在の大阪を南北に走る谷町筋・・・その大阪城から天王寺に至るまで、谷町筋を曲がって西に向かう道がほとんど下り坂なのは、かつて、そこから西は海だったという証し・・・。
またそこから東に向かう道も、なだらかな下り坂が多い・・・つまり、この谷町筋のあたりを頂点とした、現在、上町台地と呼ばれるあたりだけが陸として半島のように突き出し、西は海、東は河内湖という大きな湖になっていたのです。
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その河内湖の小橋の江と呼ばれた入り江には、百済川(後の平野川)が注ぎ込んでいたのですが、その河口付近には、人や物資を運ぶ猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる港が設置されていて、たいへんな賑わいだったのだそうです。
その場所に架けられた猪甘津橋(いかいつのはし)は、まさに古代の交通の要所でした。
現在の上町台地のドまん中にあたる地下鉄・谷町九丁目駅近くの高津宮(こうづぐう)のあたりには、その昔、仁徳天皇(1月16日参照>>)が政治を行った高津宮(たかつのみや)があったとされていますから、天皇のおわす都から官道が河内へ、そして大和へとつながって行く・・・そのための橋だったわけです。
やがて、江戸時代の頃から、この橋は鶴橋(つるのはし)と呼ばれるようになります。
元禄十四年(1701年)に書かれた『摂陽群談』という文献には・・・
「鶴橋=東生郡東小橋村、平野川筋にあり・・・猪甘津橋の古跡ともいへり」
とあります。
もちろん、今は焼肉で有名な鶴橋の地名も、この鶴の橋からつけられたものです。
猪甘津橋が鶴橋と呼ばれるようになったのは、この橋の北のあたりに鶴が多く集まった事からとも、猪甘津を略して津(つぅ)の橋と呼ばれていたのが、いつしか変化した物だとも言われますが、江戸時代の記録においても・・・ 「この橋は、街道筋ゆえ、往古より御公儀様(国のお役所)より架け替えていただいております」
と、書かれていて、やはり、古代からずっと、絶える事のない重要な橋であった事がうかがえます。
おもしろいのは、寛政八年(1796年)に書かれた『摂津名所図会』には・・・
「漁夫淵(あまがふち)=猪甘津橋の北にあり、上古は大いなる深淵にて、異形の物住めり」
つまり、橋の近くには、ネッシーやクッシーのような怪物が住んでいたと・・・
まさか、とは思いますが、歴史のロマンを感じるじゃありませんか!
なんせ、幕末には、大阪城のお堀から、謎の未確認生物の死体が発見されてますし(6月9日参照>>)・・・
ひょっとして、たまちゃんかも・・・
やがて、明治七年(1874年)に、鶴の橋は石橋に架け替えられます。
そんな日本最古の橋も、大正十二年(1923年)の耕地整理によって、平野川がルート変更となり、新平野川となったため、不要となった旧平野川が埋め立てられてしまい、鶴の橋も廃橋となり、その使命を終えました。
神代の昔から交通の要所であり、江戸時代には鶴の群れが舞い降り、長さ二十間(36.4m)、幅七尺五寸(2.3m)もあった巨大な橋は、この時に、歴史の彼方へと消え去ったのです。
現在、その鶴の橋があった場所には、撤去された石造りの親柱4本とともに、鶴の橋跡として、小さな橋のオブジェが再現されています。
仁徳天皇も渡ったかも知れないこの橋・・・オブジェとは言え、せっかくの記念なので渡ってみました~
つるのはし公園:
大阪環状線・桃谷駅を東へ徒歩5分
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