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2008年6月 2日 (月)

本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は…?

 

天正十年(1582年)6月2日は、戦国時代最大の名場面とも言える『本能寺の変』のあった日です。

昨年の今日も本能寺の変を書かせていただいておきながらも、またまた、性懲りも無く書いちゃいます・・・先日も、徳川家康・黒幕説を書かせていただいたばかり(5月29日参照>>)ですが、なんせ、様々な見解があって、ドキドキのミステリーなもので・・・お許しを・・・。

・・・・・・・・・

いろんな方の黒幕説や、信長生存説まであり、どれにもこれにも、一応、興味を示してしまう一貫性のない私ではありますが、さすがに、この日、本能寺を襲撃し、信長を自刃に追い込んだのは、明智光秀、その人であろう事は、疑う余地のないろころだろうと思っていましたが、なんと!これが・・・実行犯は光秀ではないのでは?という見解も存在するのだそうです。

確かに、仮説の域を脱しない物ではありますが、可能性がゼロではない・・・との事なので、まずはコチラをご紹介させていただきます。

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本能寺の変を現す名ゼリフ・「敵は本能寺にあり」という言葉・・・この言葉が登場するのは、江戸時代に書かれた『川角太閤記』が最初で、おそらく光秀本人は言ってない・・・。

今回の出陣が西の毛利攻めではなく、京都の信長攻めである事も、一部の重臣だけが知っていたと言われていますが、あくまで言われているだけで、本当に、一部の重臣が、知っていたかどうかは不明である事・・・。

Aketimituhide600 つまり、光秀自身は、信長を討つという事を、誰にも、一言も言ってないという可能性もあるのです。

では、公式には何と言って、西へ向かうはずの大軍を東の京都へ向けたのか?・・・実は、この時、光秀は「急遽、馬揃え(軍事パレード)をする事になったので、早朝までに京に入る」と言っているのです。

事実、多くの末端の兵士が、馬揃えだと思って東に向かったとされています。

もちろん、この言葉は、通説で言われる通り、大軍を京に向かわせるための口実なのかも知れませんが、ひょっとしたら光秀自身も、本当に馬揃えがあると思っていた可能性もあるわけです。

つまり、誰かがニセの情報を流したという事です。

本能寺へ到着した時間も、早朝の4時頃という説と、9時頃という2種類の説があり、このタイム・ラグは、様々な解釈を生んでいます。

しかも、光秀の到着が9時頃だったという説では、その時は、すでに誰の指揮かわからない明智軍が本能寺を襲撃し、炎上した後だったとされています。

・・・で、上記の説を踏まえて成り立つ仮説は・・・

その者たちは信長の首だけを狙っていた・・小姓中心のわずかな手勢で本能寺にいる信長の寝首を襲うだけなら、その襲う側もわずかな手勢ですむ事になります。

その者は、羽柴(豊臣)秀吉なら蜂須賀小六野武士軍団徳川家康なら服部半蔵忍者集団・・・もちろん、伊賀攻めで信長に痛い目に遭わされている伊賀軍団なら、依頼者のあるなしに関わらず単独での信長暗殺を計画する可能性もあります。

信長の遺体が見つからないのも、すでに光秀到着前に事が済んでしまっていたなら納得はできます。

そして、馬揃えがあると聞いてやってきた明智軍が、そこに見たのは、燃え盛る本能寺と、誰の指揮かわからない水色桔梗の軍団と、明智様御謀反の声・・・という事になります。

この事態を目の当たりにして覚悟を決めた光秀は、慌てて信長の長男・信忠の籠るニ条御所へと向かうというワケです。

その者たちが、馬揃えを使って、光秀を京におびき出した理由は、自分たちが信長にとどめを指すまで、騒ぎに気づいた信忠の軍・3千と、京都市街に分宿していた信長の将兵・千数百人を足止めさせるため・・・う~ん、確かに、つじつまが合わなくもない気がしますが・・・どうですか?

例の森蘭丸「明智の軍勢にございます」との報告に、信長が「是非に及ばず」と言ったとか、自ら槍を振るって戦ったなどという、本能寺での詳細な記録は、信長に仕えた太田牛一という人の『信長公記』や、ルイス・フロイス『日本史』などでに書かれた記述ですが、牛一は、この日は本能寺にはいませんでしたし、フロイスも当日は有明海の教会にいたとも言われていますから、ともに本人が自分の目でみたわけでない事を記録している事になり、それすらも疑いだしたらキリがない・・・。

・・・・・・・・・

ただ、やはり、実行犯は光秀ではない説」は、あくまで、トンデモ色の強い仮説・・・そんな説もあるという事に留めておいて、私的な個人的意見を述べさせていただきますと、今のところ、私自身は、明智光秀の突発的な単独犯であると思っています。

もし、黒幕がいるのであれば、たとえそれが誰であろうと、この6月2日の早朝に、本能寺を襲撃する事は、何日か前に計画されていなければなりません。

また、5月28日の愛宕山での連歌会で、光秀が詠んだ歌・・・
♪ときは今 あめが下知る 五月(さつき)かな♪

これの、「とき」を、光秀の出自である土岐氏「あめが下知る」「天が下知る」と解釈して、この歌は「土岐氏(の自分)が天下を取る」という意味の決意表明だとの見解(5月28日参照>>)もありますが、もし、そうだとするなら、やはり、6月2日の早朝に襲撃する事を、計画していなかればなりません。

しかし、本能寺の変が、もし、計画的犯行であったとしたら、決定的におかしい部分が出てくるのです。

それは、光秀が本能寺を襲撃し、完全に焼け落ちてから、長男・信忠への攻撃に向かっているところです。

通説によれば、この日、長男・信忠は、京都・妙覚寺に宿泊しており、本能寺の異変を聞きつけて、一旦は救援に向かおうとしたところ、すでに焼け落ち、信長が自刃した事を聞いて、守りに不向きな妙覚寺を捨て、より強固な守りができるであろうニ条御所に行き、そこで籠城・・・という形を取ったとされています。

つまり、本能寺襲撃と、ニ条御所包囲の間には、先ほどのタイム・ラグと同様の時間の差があった事になります。

結果的に信忠は、ニ条御所で籠城という策を取りましたが、ここで、時間があったという事は、信忠には逃亡する事もできた・・・という事になります。

実際に、ともに妙覚寺にいた信長の弟・長益と、信忠の長男・三法師は、無事逃げています(12月13日参照>>)

もし、光秀が天下を取ろうとして、あるいは、黒幕が現体制を崩そうとして、信長を襲撃するのなら、同時に、すでに家督を譲られている信忠も襲撃して抹殺してしまわない限り、信長が信忠に入れ替わるだけで、体制を崩して天下を握る事は難しいでしょう(11月28日参照>>)

この日に、信長も、そして、その後継者である信忠もが死んだ事によって、はじめて後継者争いが起こり、天下が宙に浮くわけです。

以前、本能寺の変と堺の関係のページ(1月9日参照>>)で書かせていただいたように、信長は秀吉の要請で、中国攻めの救援に向かうための自らの出陣準備をしており、その大軍は6月の5日か6日頃には、パーフェクトに準備が整う手はずになっていましたから、信忠がニ条御所での籠城を止め、京都を脱出して安土城に戻って、安土で籠城すれば、彼は死ななかったかも知れない・・・いや、おそらく、光秀に、完璧な大軍が準備された安土城を攻め落とす事はできなかったはずです。

つまり、この日、信長だけでなく、信忠も死んでしまうのは、信忠自身の判断にあったという事になり、そこに、光秀の計画性は、まったくありません。

・・・で、先ほどから、気になっているタイム・ラグは、光秀の「信長の警備が手薄になり、自分が完全武装で移動できる今日しかない!」という絶好のチャンスに冷静さを失った突発的な犯行のなせるワザに思えてならないのです。

とにかく、絶好のチャンスに信長を倒した・・・この時点では、長男・信忠の事は、光秀の視野に入ってはいなかった・・・その後、少し、落ち着いてみると、信忠が3千の兵で、ニ条御所に籠っている・・・ならば、こちらも・・・

そこに、数時間のタイム・ラグが生まれたのでは?

このタイム・ラグこそが、本能寺の変が計画的ではなく、突発的な出来事であった証しのように思えてならないのです。

もちろん、突発的という限りは、その動機は、天下取りでも、黒幕でもなく、怨恨という事になりますが、ご存知のように、まだまだ謎はいっぱい・・・

この本能寺の変については、ホント、話がつきません。

本能寺関連ページ
【本能寺の変~『信長公記』より】>>
【その時、安土城では…】>>
【堺の町衆、黒幕説】>>
【豊臣秀吉、黒幕説】>>
【徳川家康、黒幕説】>>
【家康暗殺計画(431年目の真実)説】>>
【四国説】>>
【信長の首は静岡に?】>>
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コメント

初めまして、アメリカ留学のブログを書いてる者です。今後の記事更新の参考にさせてもらいたいと思って見させてもらいましたけど、普通に楽しんじゃいましたw次の記事更新を楽しみにしてます☆応援してますのでポチッとしておきますw頑張って下さいね。

投稿: アメリカ留学 | 2008年6月 2日 (月) 14時00分

アメリカ留学さま・・・

ご訪問とコメントありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2008年6月 2日 (月) 17時28分

築山御前と迷いに迷った末、惟任日向守に一票を。(^^ゞ
関連エントリー「本能寺の変~数時間のタイム・ラグを埋める物は・・・?」読み応えありました。 どこまでいっても興味が尽きませんね。
NHK大河など、いったいどの役者さんが光秀を演じるのかが、いつも楽しみなのです。(^ァ^)

投稿: もとよし | 2011年11月 4日 (金) 22時33分

もとよしさん、こんばんは~

惟任日向守とは…ww
でも、本当は、そう呼ばれてたんでしょうね。

ただ、ドラマでその呼び方で武将が呼び合うと、ほんとに誰が誰だかわからなくなりそうなので、やっぱ「明智殿」「光秀殿」で…(*^m^)

了解しました、結果発表の時に合計させていただきます。

投稿: 茶々 | 2011年11月 5日 (土) 01時44分

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