決死の死装束~独眼竜・政宗の小田原参陣
天正十八年(1590年)6月5日、伊達政宗が、小田原城を囲む豊臣秀吉のもとへ参陣しました。
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天正十八年(1590年)、天下を目前にした豊臣秀吉が、最後の大物・北条氏を攻めるにあたって、未だ傘下に収めきれていない東北の武将たちに参戦を呼びかけました。
これは、今後、秀吉の傘下に収まるかどうか、東北の諸将の真意を問いただす目的もありましたが、案の定、すぐに参戦して秀吉傘下の収まる者と、拒絶して参戦しない者とに別れます。
そんな中、秀吉が、北条の本拠地である小田原城を包囲したのが4月3日・・・(4月3日参照>>)。
前年、秀吉の息のかかった芦名氏を摺上原(すりあげはら)の戦い(6月5日参照>>)で滅ぼし、東北の大部分を手に入れた独眼竜・伊達政宗は、秀吉から、再三の呼び出しを受けていましたが、何だかんだと拒み続けていました。
しかし、ここに来て、上記の小田原攻めです。
天下の情勢が秀吉へと傾き、次々と東北の武将が参戦する中、やっと重い腰を上げ、政宗も小田原攻めに参戦する決意をするのですが、そんな時に起こった政宗・毒殺未遂事件(4月5日参照>>)・・・この事件によって、政宗の小田原行きは、さらに遅れる事となります。
そして、天正十八年(1590年)6月5日、伊達政宗はようやく、小田原にやって来たのです、
芦名氏を滅ぼした弁明もまだの上に、大幅に遅れての参戦・・・もはや、秀吉は激怒しているに違いありません。
ひょっとしたら、会いにいったその場で首をはねられるかも・・・。
・・・で、ここで、政宗お得意の派手なパフォーマンスです。
もちろん、そのような派手なパフォーマンスを、秀吉が大好きな事も踏まえての作戦・・・ただ、普通に現れては、秀吉をアッと驚かせる事はできません。
政宗は、甲冑に身を包み、その上にまっ白な陣羽織をはおり、髪を短くかりあげ、オカッパ頭にして・・・つまり、死装束で小田原に現れます。
「この命、いかようにも・・・」
死を覚悟したいでたちで、ド肝を抜いたのです。
「政宗めを、どないしたろかいな?」
と、怒り心頭だった秀吉は、その政宗の話を聞いて、ちょっと会いたくなってしまいますが、そこは、関白太政大臣・・・まだまだケツの青いボウヤの心理作戦にハマッて、そう簡単に心を許してしまうわけにはいきません。
政宗を、箱根山中の底倉(蛇骨川の谷底の温泉場)に閉じ込め、自分への面会を許さず、数日間にわたって、家臣による参陣の遅れの理由、芦名氏攻撃の弁明などの詰問を続けたのです。
しかし、そんな中、小田原の陣中に、千利休が来ている事を知った政宗は・・・
「えぇ機会やから、お茶の稽古をつけてくれませんか?」
と、申し出ます。
「生きるか死ぬかの瀬戸際に、お茶の稽古やと?」
再びの心理作戦は、見事的中!
秀吉は、そんな政宗に会いたくなって、謁見を許したのです。
秀吉との面会は、今まさに包囲中の小田原城を見下ろす石垣山(6月26日参照>>)の上で行われました。
秀吉55歳、政宗24歳・・・
秀吉のもとへ向かう途中、政宗はふと眼下の小田原城に目をやります。
天下の名城とうたわれた小田原城・・・まるでアリが這い回るように、それを囲む22万の軍勢・・・海には、毛利と九鬼の水軍が、エサに群がる鯉のようにひしめき合っています。
わずか一年前、破竹の勢いで芦名を倒し、奥州の覇王・天下も夢ではない!と意気込んでいた政宗は、この時、全国ネットとの格の違いをまざまざと見せつけられた事でしょう。
それと同時に、もう少し早く生まれていれば・・・
秀吉が、ここまでになる前に、同じ土俵で戦ってみたかったと・・・一説には、晩年の政宗が「もう10年早く生まれていれば…」と言ったなんて噂もありますが、ひょっとしたら本当に、そう思っていたかも知れませんね。
やがて、秀吉の前へ・・・
ドまん中で、床几にすわり、杖をついた秀吉・・・左右には、徳川家康・前田利家などの大物がズラリ。
政宗の死装束を見て、満足そうな秀吉は・・・
「こっちへ来い!」
と、そばへと呼びます。
政宗は、その時、機会があれば秀吉を殺してやろうと、ふところに脇差を隠し持っていましたが、もはや、その思いは消え、その脇差を遠くへと投げ捨て、秀吉のそばへと進みました。
しかし、それでもまだ遠かったのか、秀吉は、持っていた杖で、自分の足元の地面を指し、「ここだ」とばかりに、トントンと叩きます。
さらに前へ進み、まさに目の前まで近づいた政宗・・・その首のあたりを、持っていた杖でツンツンと突きながら・・・
「カワイイやっちゃのぉぅ・・・お前、グッドタイミングやで。
もうちょっと遅かったら、ココが危なかったでぇ・・・」
と、秀吉・・・
まさに、首の皮一枚でつながった政宗でした。
その1ヶ月後、小田原城は開城され、早雲以来、100年に渡って関東に君臨した北条氏は滅亡します(7月5日参照>>)。
命こそ助かったものの、その後、政宗は多くの領地を没収され、奥州の覇王とは、ほど遠い状況に・・・。
そして、秀吉は、その足で、奥州征伐・・・つまり、小田原攻めに参戦しなかった東北の武将たちへの処分を開始するのです。
この奥州征伐は、当然、東北の武将たちの怒りをかう事に・・・そこで、またまた政宗のピンチが訪れる事になるのですが・・・
そのお話は・・・葛西・大崎一揆:11月24日のページでどうぞ>>
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コメント
伊達政宗…大好きな武将です。仮設なんですが、もしも政宗が母と仲良くて、最上家も押さえていて、摺上原で滅ぼした芦名家の違臣達に芦名の名跡復活を餌に弟の小次郎を芦名家の跡取りに送り込み、佐竹も押さえて東北一円に、家康や秀吉に負けない一大勢力を確立し、秀吉VS北条の折に家康及び北条氏と密約を結び、小田原包囲網が完成した当初の北条氏が血気盛んな折に東北より五万人ぐらいの軍勢を引き連れて、後詰に駆け付ければ、家康も五万人ぐらいの軍勢を出せただろうから、北条氏の五万とで15万人の大軍勢となり、秀吉側から家康の軍勢を引くと、人数的には拮抗する事になり、小田原戦ももっと形の違う面白い合戦になったのじゃないかなぁナンテ思っています。
投稿: マー君 | 2008年6月 5日 (木) 16時55分
マー君さん、こんばんは~
・・・そうなると、九州の島津も、反・秀吉で参戦するかも知れませんね~
おもしろくなりそうです。
投稿: 茶々 | 2008年6月 5日 (木) 18時29分
そうなると、上杉や毛利の動向も気になってきますねぇ。
投稿: マー君 | 2008年6月 5日 (木) 19時44分
もうじき、「江 姫たちの戦国」でも出そうな感じですが、伊達政宗は上方の人に対して相当対抗心を持ってたようです。
東北の人なので実際には東北なまりがあったはずですが、(大河ドラマとかでは)だいたい標準語で会話しますね。
「殿様の威厳がなくなるから、あえて方言を使わないのかな?」と時々思います。
余談ですが、大地震で津波の被害を受けた郷土資料館で、政宗像1体だけが立ったままだそうです。これは奇跡!
投稿: えびすこ | 2011年5月10日 (火) 17時24分
えびすこさん、こんばんは~
私は、時代劇でも方言を使ってほしいですが…
そのほうが自然な気がします。
もちろん、全国の人にわかるレベルの方言ですが…
投稿: 茶々 | 2011年5月10日 (火) 19時18分
「江」でこの場面では出ませんでしたね。「天地人」のイメージが記憶に新しい人物は、「後任人事」が難しいですね。
「関ヶ原」後の男性陣がどうなるのか、個人的に気になります。現時点で終盤まで出るのは北大路さん、草刈さん、向井くんの3人だけです。秀忠・江さんの息子も含めて、他に男性が出ない事態にはならないと思いますが。
あと再来年の主人公は伊達政宗と同じ東北出身者ですが、「伊達政宗ではない東北人」が大河ドラマの主人公に決まった事には、今振り返ってもサプライズでした。
個人的な推測ですが、「閣僚や与党の重鎮・大物に、東北出身者が多いから決まったのかも?」と勘ぐっています。そういうウワサが出てもおかしくはないです。偶然にもきょう辞任したM復興担当大臣は、会津から見ると旧敵の「九州人」でした。歴史的に皮肉な辞任劇?
投稿: えびすこ | 2011年7月 5日 (火) 15時35分
えびすこさん、こんばんは~
>あと再来年の主人公は伊達政宗と同じ東北出身者ですが…
そりゃ、やっぱり、すなおに「東北を応援」って事じゃないですか?
投稿: 茶々 | 2011年7月 6日 (水) 01時56分